第2話 「巡回任務」 (中編)

 自分の名前を呼ぶ声が聴こえた気がした。

 そしてレイチェルは目を覚ました。

 ぼんやりとした視界の先では、ビロード色の空が見え、三日月と星々が金色に瞬いている。

 何て深くて綺麗な空だろう。あの星達が宝石だったら少し欲しいかもしれない。

 そう考えた瞬間、彼女は徐々に記憶を取り戻していた。

「寝てた!」

 彼女は慌てて長椅子から身を起こして叫んだ。仲間の二人の姿が脳裏を過ぎってゆく。きっと置いて行かれたと感じて、心底惨めな気持ちになった。

「そう、寝てた」

 冷ややかな声がした。隣を見ると、カンテラの灯りに照らされた有翼人の少女が座っていた。彼女は分厚い本を見下ろしている。

「掘り出し物にしては役不足ね」

 そう言って本を閉じるとこちらを見た。

 その顔が怒っているように見え、レイチェルは謝罪の言葉を口にしようとした。しかし、相手が深く溜息を吐き、先に口を開いた。

「無茶するわよ。いいえ、それよりも気付くもんでしょうに」

「ごめんなさい」

 レイチェルがしょげ返って言うと、彼女は幾らか表情を和らげたように見えた。

「疲れてる身体で、魔法を使うとこうなるのよ」

 レイチェルは、しばし首を捻ると合点した。

 寝てたのではない。気を失っていたのだ。再び惨めな心境になった。

「どのぐらい気絶してたのですか?」

「そうね、クレシェイドが詰所から帰ってくるよりは早かったわよ」

 レイチェルは心底安堵した。

「そろそろ出発よ、準備なさい」

「わかりました」

 レイチェルが椅子から身を起こすと、殆ど影と一体となったクレシェイドが歩んできていた。

 だが、彼女は目を疑った。クレイシェイドの隣に、彼と比べると随分小さな影が並んで歩いている。明らかに犬ではなさそうだ。

「神官の姉ちゃーん! 目ぇ覚めたかー!」

 小さな影が甲高い声を上げた。まるで男の子のような声であったが、それは正真正銘と相成った。

「あんのガキ、真夜中だって言うのに声がでかいのよ」

 ティアイエルが苛々と呟いた。

 カンテラの灯りが、正面に現れた少年の姿を明瞭に映し出した。

 声は大人になりつつあるが、年下のようであった。

 皮製の半袖のベストを羽織り、二の腕には防具の代わりか、布を巻いている。腰の後ろには小振りな剣の柄と鞘の先が見えた。

「よぉ、おはよう! 俺、サンダー。サンダー・ランスって言うんだ」

 目を爛々と輝かせ、少年は握手を求めてきた。

「私はレイチェル・シルヴァンスだけど……」

 困惑しながら握手に応じ、ティアイエルを振り返った。

「あのお惚けマスターがよこした補充要員よ。こいつがね」

「え、じゃあ冒険者なの?」

 レイチェルは少年に向かって尋ねた。

「そうだよ。こう見えて神官の姉ちゃんよりは先輩なんだぜ。冒険者的にだけど」

「へえ、そうなんだ」

 レイチェルは戸惑いながら答えた。こんな少年が冒険者であること、自分よりも先輩であることが俄かには信じられなかったのだ。

「冒険者歴は一昨日で半年目に突入したよ。だけど、面倒だから俺らは同期ってことにしても良いのかもしれないね」

「ホント、クソ生意気なガキだわ。次戻ったときマスターに突っ返してやらなきゃ」

 ティアイエルが苛立つように言ったが、サンダー・ランス少年は聞いている様子も無く、手に持ったものをレイチェルに差し出してきた。

 それは湯気の昇った鳥肉の串焼きであった。

「クレシェイドの兄ちゃんが奢ってくれたんだぜ」

 クレシェイドを見る。彼は星空を見上げていた。

 肉の香ばしいにおいが、鼻から腹を刺激し、それはあれよという間に空腹の歯車に引っかかった。

「ありがとう。クレシェイドさん、頂きますね」

 レイチェルが言うと、鎧の男はこちらを見て軽く頷いた。

「白鳥の姉ちゃんも食うか?」

「誰が白鳥よ」

 ティアイエルは受け取ると、串焼きに噛り付いた。

「レイチェル、水袋ならベンチに置いてあるわよ。次からは水を持参しなさいよね」

「わかりました」

 レイチェルは答えながらイザコザが起きなかったことにホッとしていた。



 それから一行は夜の道を引き返すことになった。レイチェルは幾らか元気を取り戻していたが、それでも身体中疲れ切っていた。

 地味なくせに性急な仕事だが、これが今後は冒険者として当たり前になるのだと、自分を説得するように励まし続けた。

 夜中の内は、夜行性の鳥の声が時々聴こえるだけだったが、空が薄っすらと明るくなり始めると同時に、幾つかの行商の馬車と擦れ違い始めた。

 だが、どれも怪物の襲来を恐れるかのように馬車は急ぎ足であった。

「ケチな奴らだよなぁ、護衛に冒険者雇えば良いのによ」

 一行はこれまで沈黙を保っていたのだが、ここでようやくサンダーが第一声を発した。レイチェイルは彼が今まで黙っていたことが不思議だったが、きっと他の二人と同じで、周囲に聞き耳を立てていたのだと考えた。一方の自分は、歩き続けで痛み始めた足にばかり気を取られていた。

 サンダーがレイチェルを振り返った。

「神官の姉ちゃん、疲れてないのか?」

 他の二人もこちらへ視線を向けた。

「ウディーウッドまでなら大丈夫ですよ」

 レイチェイルは気取られないように、笑顔を作って答えた。

「へぇ、なかなか頑丈なんだなぁ」

 サンダーは感心するように言うと、水の入った袋を呷った。

「アンタも飲んどいたら?」

 ティアイエルが水袋を差し出した。

 レイチェルが受け取ろうとしたとき、前方から悲鳴が聴こえてきた。

 一気に仲間達の視線が鋭くなり、レイチェルも背筋を緊張させた。

 誰かが駆けて来る。息も絶え絶えの声で、悲鳴と助けを叫んでいた。男の声であった。

「助けてくれー! 怪物が! ゴブリンがー!」

「出たわね!」

 ティアイエルは翼を広げた。

「私が先行するから!」

 しかし、サンダーがその脇を駆け抜けて行く。

「出やがったなゴブリン! 後は俺らに任せとけ!」

 少年の足は予想以上に速かった。小さな砂煙を上げて、あっと言う間に逃げ延びてくる男の向こうへと消えて行ってしまった。

「何なのあの馬鹿猿は! ホント自殺行為にも程があるわよ!」

 ティアイエルは悪態と共に空へ羽ばたいた。

「アンタは、あの人を保護して! 走るのよ!」

 彼女はレイチェルに向かって言うと、街道の先へと飛んで行ってしまった。

 レイチェルとクレシェイドはすぐさま男と合流した。

 相手は小太りの男で、息を切らせ、その場に突っ伏してしまった。

「あなたの他に人はいるのか?」

 クレシェイドが尋ねると、男は答える代わりに首を横に振ってみせた。が、その苦しそうな目が、街道の脇を見て驚愕に見開かれた。

 彼の視線の先には茂みがあるのだが、その中にいつの間にか、巨大な影が佇んでいたのだ。

 緑色の大きな円い目と、横長で分厚く盛り上がった唇。そこからは太い牙が並んで突き出ていた。

 レイチェイルは唖然として怪物を凝視していた。

 顔は潰れたように醜く、長い両手と両足が生えている。影だけ見れば、人間のように見えなくも無いが、そいつは上から下まで毛むくじゃらであり、手には古びた剣を手にしていた。

 クレイシェイドが前に進み出た。

「まだ出てくるようだぞ」

 その言葉どおり、怪物の背後から茂みの揺れる音が次々と響き渡ってきた。

 途端に、野太い奇声と共に茂みから影が躍りかかってきたが、クレシェイドの剣が素早く反応し、敵を地面に叩き落としていた。

 怪物は断末魔の声すら上げずに亡骸になっていた。

 最初の一匹は、醜い顔を怒りに歪めていた。そいつが咆哮を上げると、すぐ背後から幾重にも重なった同じ吼え声が返ってきた。

 敵は群れでいる。レイチェルが驚いている間に、怪物の増援は茂みから揃って姿を現した。

 どれもが、並みのゴブリンよりも大きな身体をし、中には鎧のようにボロ布を纏ったり、木の皮を巻き付けているやつもいた。

 戦士みたい。レイチェルはそう思い、同時に恐ろしくなった。

 こいつらはそもそも家畜を襲う奴らと違う。進んで人間を標的にしている奴らなのかもしれない。

「レイチェル、構えるんだ」

 クレシェイドに注意され、彼女はゆっくり鈍器を両手で支える。改めて武器の重さを感じた。

 私に振り回せるの?

 クレシェイドがこちらを一瞥した。

「ホブゴブリンだ。注意しろ、こいつらの腕力はなかなか命懸けだぞ」

 クレシェイドが言う。彼は剣を覆う鞘を放り投げた。

 幅の広い長剣が、初めてその銀色に光る刀身を晒した。

 それが合図だと感じたのか、怒れる怪物達は、一斉に雄叫びを上げる。街道に亀裂でも入れそうなほどの凄まじい合唱である。

 連中はこちらに襲い掛かって来た。

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