第5話 騒動

 廊下を出ると温かな夕飯の薫りが鼻孔をくすぐった。

 直後鳴りそうになったお腹を、春野は慌てておさえた。その素振りに気がついた津鷹が微笑みを浮かべながら「お腹減ったね」と言ってくる。春野は顔が熱くなるのを自覚しながら、自分にも聞こえづらい程の小さな声で「はい」とうなずいた。

 階段を降りるとすぐにあるロビーを、左に折れる。その奥に食堂はあった。すでにそこでは他の宿泊客たちがいて、ほとんどの席は埋まっていた。


 あまりの大勢の人間に春野は萎縮して、帽子の位置を確認した。それから津鷹の背中に隠れる。


 どこか空いている席はないだろうかと津鷹はあたりを見まわす。ちょうど厨房の方から、配膳をしていたシーナがでてきた。津鷹たちに気がついて「あっ」と叫ぶと手にしていた料理を、くすんだ金色の髪の男の席に置いてから、急ぎ足で津鷹たちのもとへやってきた。

 シーナは背中まで届く長い髪を頭の後ろに1つに束ねていた。彼女が動くたびにそれがゆらゆらと揺れる。まるで馬の尻尾みたいだと、春野は依然津鷹の背中に隠れながら思った。


「津鷹さん、春野さん」

「すみません、遅れてしまって。席は空いてますか?」

「はい、もちろんです。お2人の席はちゃんととってありますよ」


 シーナはほがらかに笑って、「こちらです」と道を示しながら歩きだした。津鷹と春野はそのあとをついていった。

 案内されたのは壁際に位置する、2人分のテーブル席だった。津鷹と春野は早速そこに腰かけた。


 一度厨房に戻ったシーナは、やがて2人の前に2人分の夕飯を用意してくれた。スープとパン、緑や赤などで彩られた野菜、そして何かの香辛料がまぶしてあるお肉。できたてのおかげか、ほかほかと温かな湯気がたっている。

 久しぶりの豪勢な食事に、春野は思わずごくんと唾を呑んだ。いや、豪勢というのは誇張かもしれない。献立を見る限りではごく普通のものだ。しかしここ最近春野たちが食べていたものは味なんて二の次――どころか三、四次くらいの携帯食料ばかりだった。だからなのかどこでも食べられそうな普通のご飯でさえ、豪勢なものに見えてしまう。


「どうぞ、召し上がってください」

「では、いただきます」


 津鷹は手を合わせてそう言うと、木製のスプーンを手にした。

 その様子を見てシーナが驚きの表情を浮かべる。


「――それはどこかの国の文化ですか?」

「ふむ……?」


 スープをすくっていた津鷹はシーナの質問に首をかしげる。春野も同じように「いただきます」を言ってから、シーナの疑問に対する津鷹の疑問顔に助け船をだした。


「きっと津鷹の『いただきます』の挨拶が珍しかったのだと思いますよ」


「そうなの?」と、津鷹はシーナを見る。シーナは「ええ」とうなずいた。

 津鷹は納得したような顔をして、スープに口をつけた。


「うん、おいしい」

「そうですか。それはよかったです」


 シーナは津鷹の好評価を得られたことに満足して、「ごゆっくりお召し上がりください」と一言告げると厨房へと去っていった。


 春野はその背中を目で追った。さっき夢から目覚めたとき、彼女と目を合わせてしまったことが気がかりだったからだ。

 津鷹はああして励ましてくれたけれど、それでもやはり春野はシーナが心配だった。一応見たところ、彼女は全く変わらない様子だったけれど、本当に大丈夫なのだろうか……。


「――るの、春野」


 名前を呼ばれていることに気がついた春野は、ハッと我に返って津鷹を見た。


「は、はいっ! すみません、津鷹。ぼーっとしてて……」


 慌てて言い繕うと、津鷹の眉間に小さな縦皺が寄った。


「大丈夫? 長旅だったから疲れたろう。もう休む?」

「い、いえっ! ……あ、このお肉美味しいですね。津鷹! 故郷でも食べたことありません」

「それ鶏肉だよ」

「え、これが? 故郷のものとはまったく違う味がします……。むぐ……あ、でも歯応えは同じ……」

「それは調味料を使っているからだね」

「なるほど……」


 噛めば噛むほど肉に染み込んだ味がじんわりと広がってきて、春野は思わず顔をほころばせた。


「ねえねえ、もしかしてあんたら。異国の方々?」


 話しかけられた方を見ると、さっきシーナに料理を運んできてもらったくすんだ金の髪を持つ男がそこにいた。どうやら隣の席だったらしい。

 彼の口の端にはパン屑とスープの汁があった。テーブルにも料理の食べカスが広がっていてだいぶ汚い。

 春野たちに興味津々な風で、彼は黄土色の瞳を輝いていた。


 春野はふと、その瞳を「汚れている」と思った。気まずくなって、彼から目をそらして料理を見つめる。代わりに正面の席にいた津鷹が「ええ」と男の質問に答える。


「ちょっと北の方から来まして。観光目的なんです」

「へえそうかい。北ってぇと、シュロジーロか? あるいはチェバーロとか」

「いいえ、もっと北です」

「ってことはネゴかい!? へえ、すっげぇ遠くから来たんだなぁっ!」


 男が驚きのあまり大声をあげた。春野はその大きな声に縮こまりながら、ナイフで切り分けた鶏肉にフォークをたてて口に運んだ。あんなに美味しかったはずのお肉なのに、あんまり味がしなかった。

 男の口は止まらない。ネゴはどんなところなんだ。オレの名前はサラというんだが、2人は兄弟か。ロガードにはどのくらい滞在するつもりなんだ。と色々聞いてくる。まるでしゃべる口を止めたら死んでしまうみたいだ。津鷹は嫌な顔せずに1つ1つの質問に丁寧に答えている。あくまで任務ということは伏せる。答えられる限りは、だ。

 だからサラが津鷹と春野を兄弟と誤解しているのなら、誤解させたままにしておく。


 サラの黄土色の目がぎょろり、と動く。春野は「見られている」気配を感じてますます縮こまった。


「ところで津鷹の弟は建物の中だってのに、帽子かぶってんだな」


 春野はびくっと肩を震わせた。目を合わせないように気を付けながら、サラを帽子の鍔越しから見る。まるで獲物に狙いすまされたような心地がした。


「すみません。春野は帽子をかぶっていないと人と話すことができないんです。人見知りなもので」

「はあ、そうなのか」


 津鷹が助けてくれて少しだけホッとする。それでも早くこの場から逃げ出したい気持ちは変わらなかった。さっさと食事を済ませて春野は席から立ち上がった。


「さ、先にお部屋へ戻っています」

「そしたら俺も行くよ。ごちそうさまでした。それでは失礼しますね」


 津鷹はサラに一礼をした。無遠慮な男の質問の1つ1つに丁寧に答えていたわりに、食事の手は休めていなかったらしい。どの食器も綺麗だった。 一方でサラは話すのに夢中だったのか、食事はほとんど手つかずだった。きっと料理も冷めているだろう。もったいないなと春野は思った。


「お、帰るのか。色々話を聞かせてくれてありがとな」

「いいえ」


 津鷹はもう一度男に頭をさげた。春野も素早く頭をさげる。

 お部屋にお戻りですか、と背後から声をかけられた。シーナは他の宿泊客が使い終えた食器を片付けている最中だった。その白い細腕には抱えきれないのではないかというほどの量のお皿が重ねられていた。


「はい、お夕飯美味しかったです」

「ありがとうございます」


 シーナはにこりと微笑えんで、春野たちの横を通り過ぎると先ほどまで春野たちが座っていた席の食器を片付け始めた。あの細腕を使ってさらにお皿を重ねるつもりらしい。

 食堂を出る前にもう一度春野はシーナの方を見た。

 彼女は食器を片付けながら、テーブルを布巾で拭いていた。春野の方からは背を向けているかたちとなる。

 馬の尻尾みたいにまとめられた髪が、シーナが動くたびにゆらゆらと揺れている。シーナは春野に見られていることにも気が付かず、黙々と作業をしていた。


 だが、その背中を見ていたのは春野だけではなかった。

 くすんだ金の髪を持つ男も同じようにしてシーナを見ていることに、春野はもちろんシーナ本人でさえも気が付かなかった。



 階段をあがって突き当りの部屋へ戻った。津鷹は靴を脱いで――今度はベッド下に丁寧にそろえて脱いだ――ベッドに寝転がった。


「春野、大丈夫?」

「え、あ、何がですか?」

「あの人のこと、怖がっていたようだけど」

「…………」


 もちろん「あの人」とはさっきの男、サラのことだろう。

 春野は靴を脱いでベッドの下にそろえながら、苦笑いを浮かべた。


「頑張って克服しようとは思っているのですが……。やっぱり慣れないものです。知らない人に話しかけられると怖くなってしまって」

「うん。まあ気にすることはないさ。他人なんて早々慣れるもんじゃないし」


 そうして、津鷹は目を閉じた。あとには寝息が続く。どうやらもう夢のなかへと入ってしまったらしい。

 自分も早く寝ようと、春野は皺のよったベッドを整えてから横になった。

 故郷の塔に閉じ込められて、およそ14年。そこから飛び出して、まだ1年も経っていない。果たして自分はこれから続く旅のなかで、他人に恐怖せずに生きることができるのだろうか。

 そんなことを考えながら、もしかしたら今夜は眠れないかもしれないなんて、ちょっと思った。不安なことを考えてしまうと春野は寝付けない質だった。

 けれどその心配は杞憂だった。

 目をつぶって自分の見える世界を暗くすれば、まるで海の底へと沈むかのように、春野は夢の世界へと落ちていった。


***


 翌朝は思いのほかすっきりと目覚めることができた。窓から覗く朝の町の風景にまず目をやって、春野は息をついた。すでに町は目覚めていて、せわしなく道を歩く人の姿があり、宿の前には何台かの馬車が通り過ぎていった。どうやら、どこの国でも朝の光景は似たようなものらしい。


 春野は自身が自覚している通り、もともと寝起きは良い方だと思っている。津鷹が起きないうちにトランクの中から着替えを取り出して手早く着替えを済ませた。履いているズボンにポケットがあったので、そこに眼鏡ケースをしのばせておく。

 朝ごはんの香りがただよってきたところで、春野は津鷹を揺すり起こした。津鷹も朝は得意な方のはずだが、今日はいつもより起きるのが遅い。きっと長旅で疲れていたのだろう。やがて揺すり起こされた彼は、すぐに着替えを終えると廊下へと出ていった。春野もそのあとに続いた。

 食堂で昨日と同じようにシーナに挨拶をすると、笑顔で応えた彼女に席を案内された。すでに隣の席にはサラがいて、春野たちに向かって気安く「よぉ」なんて声をかけてくる。春野はそそくさと席に着いた。津鷹は律儀に「おはようございます」と笑顔で挨拶を返した。n

 朝ごはんは黒褐色のパンを薄切りにしたものが2枚とチーズ、そしてベーコンと茹でた卵。梨を小さく切ったものがデザートとして添えられた。

 相変わらずサラは無遠慮に話しかけてくるし、食べ方は汚いしで春野は嫌悪しか抱かなかったが、津鷹はそんなサラのことも気にせずに答えられることは答えていたし、津鷹からサラに問いかけることもあった。


「そうだ。どうせなら一緒に町を見てまわらねぇか? オレ、ここらへんよく商売で来てるからたいていのことは知ってんだ」


 まさかの提案にそれまで食事に必死になって注意を向けていた春野は、驚いてサラを見た。彼も春野の視線に気付いたのかこちらを見てきたので慌てて目をそらして、今度は救いを求めるつもりで津鷹を見た。


 お願いだからこの人とは行きたくない!


 そんな気持ちで津鷹を見る。彼はというと、茹で卵の殻を剥いていた手を止めて、チラッと片目で春野を見てそれからサラへと目を移動した。顔をあげて、サラに向けてにっこりと微笑む。


「すみません。ガイドはありがたいのですが、弟の人見知りがあるので」

「ああ、そうか。いくら兄ちゃんと一緒とはいえ、知らん奴と観光ってのもあれだよな。兄弟の仲をジャマしちゃわりぃな。すまなかった」


 サラは春野に向けて、片手を挙げて拝むように一礼するとあっさりと引き下がった。春野はホッと息をつきそうになって――失礼なことだと思い慌てて吞み込み――「いえ」と言った。


「僕こそ、ごめんなさい」

「謝るこたぁねぇぞ。ま、気が向いたら誘ってくれや」


 サラはそう言って立ち上がると、食堂をでていった。相変わらず食べカスはお皿の上を飛び越えてテーブルにまで散らばっている。その上、梨は手つかずだった。


「さて、どこに行こうか」


 津鷹はそう呟きながら、殻を剥いた茹で卵を満足そうに見つめた。それは綺麗に剥かれていて、凹凸1つさえ見当たらなかった。



 朝ごはんを食べ終えて部屋に戻ると、早速津鷹は昨日自身が手つかずのまま放置した荷物の整理を始めた。

 すでに昨日のあいだに荷物の整理を終えていた春野は、その様子を見て「手伝いましょうか?」と声をかける。

 しかし津鷹は首を横に振った。


「いや、大丈夫だよ。それより春野も自分の荷物からいるものといらないものを分けておいた方がいいよ」

「いるものといらないもの、ですか?」

「うん。なるべくならこの国で売って次回の任務のための金にしておかなきゃ。いくらマリラがそういうのを渡してくれるからって、彼女の財産も無限ではないからね」

「あ……」


 たしかにそうだ、と春野も思う。

 今まで春野は他人の世話無しでは生きられない人間だったが、これからは自分の力でどうにかしなければいけないのだ。そのために必要なのは旅のなかで自分にできる限りのことはしておくこと。

 春野は津鷹の言葉にうなずいて、自分の荷物の整理をもう一度始めた。


「コートも売ってしまいましょうか? この国では暑いですし」

「――いや、それはやめておこう。もしかしたらこの次の任務で寒い地域に行くかもしれないからね。売るんだったら……、たとえばネゴで仕入れた特産品とかかな……」

「そういえば津鷹、ネゴでたくさん買ってましたね」


 春野はそのときのことを思い出しながらそう言った。たしか、置物やネゴでよく使われる日用品などを買っていた気がする。

 荷物の整理をしながら津鷹はうなずく。


「うん。ロガードは気候に恵まれた地域だけど、きっとネゴの特産品が役に立つことがあるかもしれない。あるいはそういうのを集めているマニアックな人とかね……」


 そしてこれは売れるだろうという荷物をある程度まとめると、津鷹はそれを空いている鞄に春野の分と一緒に詰め込んだ。


「俺はこれから質屋に行くけど、春野はどうする?」

「もちろんお供させていただきます!」


 春野は勇んで立ち上がり、キャスケット帽を深くかぶり直した。その意気込みを見て津鷹はわずかに微笑む。


「わかった。それじゃあ行こう」


 鞄を手にして歩き出す津鷹のあとを春野は追いかけた。



 それから春野たちは午前からお昼頃にかけて町にある質屋を一通りめぐって、最も良い値で買い取ってくれる店を見つけた。店の主人はネゴの特産品が相当に珍しかったのか、終始目を輝かせて、挙げ句春野をちらりと見て、


「帽子の下がどうなってるかわからないけど、俺の感がかわいいって言ってる!」


 と言って、いくらか上乗せして買い取ってくれたのだ。

 店をでた春野は困ったように帽子の鍔をさげた。


「……僕、かわいくはないと思うのですが」

「春野はかわいいよ」

「そうですか?」

「うん。俺もかわいいと思う」


 津鷹の言葉に春野は「そうだと嬉しいです」と笑った。彼に言われると不思議と信じられる。


「じゃあそろそろお昼にしようか。実はさっき町を歩いてたら、気になるお店を発見したんだ」

「それは楽しみです」


 津鷹が歩きだし、春野も隣に並んで歩きだそうとしたそのときだった。


 背後から突如、甲高い悲鳴が聞こえてきた。振り返ると、馬車がものすごい勢いでこちらに向かって走ってきている。

 つながれた2頭の馬たちは暴れ狂っている。8個の蹄が地面を執拗にたたきまくり、その後ろに繋がれた箱は今にも転がりそうな勢いだった。

 普段はおとなしく人にも友好的なはずなのに、その勢いの激しさたるや。石畳はえぐられんばかりに激しい音をたて、砂埃があちこちを舞い、道路の隅にあった肉屋のテントを容赦なく破壊した。

 穏やかなはずだった日常を、人々の叫び声が塗りつぶしていく。


「キャアアアアアアアアアッ!」

「早く馬車を止めろっ!」

「御者は何をやっているっ!」


 御者台にはヒゲをたくわえた老人がいた。その表情には周囲の喧騒に対する怯えとそれでも馬を止めようとして必死になっている苛立ちとが混じっていた。しかし老人がどんなに手綱を強く引っ張っても、2頭の馬にはかなわない。彼はあっという間に御者台からはじきだされ、まるで玩具のように容易く地面へと転がされた。

 瞬間、津鷹が走りだした。


「津鷹!」


 人の流れに逆らうように津鷹は馬たちのもとへと急ぐ。春野はすぐさまあとを追いかけるが、小さな体躯では人波にあっという間に埋もれてしまう。

 津鷹が危険だ。いくら彼でもあんな2頭もいる暴れ馬を止めるのは不可能――。


「津鷹ぁっ!」


 彼の居場所を探ろうと春野は大きな声で彼の名前を叫んだ。

 ――そのときだった。


 唐突に喧騒が止んだ。


 何が起きたのかと、春野はあたりを見まわして空を見上げ、「あっ」と叫んだ。


 2頭の馬が空を飛んでいる――!


 いや、よく見ると飛んでいるというよりは浮いているように見えた。馬たちはバタバタと宙で動きまわりながらも、その体は羽根のように軽々しく宙をただよっている。

 春野はぽかんと口を開けて、馬の浮遊を眺めていた。あんなに必死になって押さえつけていた帽子が、落ちそうになるさえ、気が付かずに。


 馬たちはやがてバタ足を止めて大人しくなった。まるで何かに操られているかのように彼らはふわふわと危なげに空中を浮遊したあと、ゆっくりと地面におろされた。

 おろされた馬たちは行き場をなくしたかのようにその場をうろつき始めた。

 あとに残ったのは、人々の安堵のため息。騒動に紛れて転んだ人を立ち上がらせる者、何事もなかったかのように道を歩きだす者、まだ興奮が止まないのかその場にうずくまる者たちがいた。


 ホイッスルの音がどこかで聞こえた。そちらを見ると、制服を着た男たち数名がこちらに向かって走ってくるのが見えた。


「あ――、つ、津鷹」


 騒動で見失った眼帯の青年を春野は慌てて探した。その拍子に帽子が頭から落ちそうになる。


「あっ」


 押さえようと春野が帽子に手を伸ばすより早く、誰かの手が春野の頭の上に置かれた。


「春野」


 名前を呼ばれて顔を上げると、そこには津鷹がいた。肩で息をきらしている。おまけにその額には大量の汗がにじんでいた。


「今の、津鷹が行ったわけではないのですよね……」

「ああ、そうだ。そして春野のでもない」

「はい……」


 こぼれ落ちそうになった髪を帽子のなかにしまいながら、春野は津鷹の指が服の下に隠し持っている銃にかけられていることに気がついた。もしも本当に危なかったらあれで撃つつもりだったのだろう。何を? それはもちろん馬をだ。もしかしたら殺すこともいとわなかったかもしれない。

 あの馬たちが殺されなくてよかったと、春野は少しほっとしていた。


「では、いったい誰が」


 言いかけたところで津鷹が別の方向を見ていることに気がつく。思わずそちらに目を向けると、この場を立ち去ろうとしている人陰が目に入った。すぐに人の波に呑まれたため、誰なのかはわからない。


「追いかけよう」

「はい!」


 津鷹の呼び掛けに春野は力強くうなずき、ほぼ同時に2人は走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る