Anise

凪野海里

第1部

1章 宿の国・ロガード

第1話 津鷹と春野

「起きて、春野」


 穏やかな春風のような優しい声で名前を呼ばれて、春野は閉じていた目を開いた。ここは馬車のなか。通っている道が石畳にでもなっているのか、ガタゴトという音が車内に響いている。

 窓に差し込んでくる日の光に誘われるように、春野は窓に手をついて外を見た。目覚めたばかりだからか、光が少しだけ眩しい。外の景色は、眠る前に見ていた景色とは明らかに違っている。中心街にでも入っているのか、ひしめきあう建物とテントとがあり、そして人がたくさんいた。

 もっと他に発見はないかと、窓に顔を張り付けると、ふと窓の外でこちらを興味深そうに見上げている子どもと目が合いそうになって慌てて春野は顔をそらし、かぶっていたキャスケット帽を深くかぶり直した。体を正面に座り直して、もう窓を見ないようにした。


 やがて馬車は停まった。春野の隣の席に座っていた津鷹はすぐさま外を確認する。津鷹の左目には眼帯がしてあり、ゆえに片方の瞳だけを動かした。馬車の停められた場所は停車場の標識が立っている宿の前だった。

 外にある御者台から御者がおりる音がした。それから津鷹たちが乗っている箱の戸が開かれ、無精髭と仏頂面をさらした御者の男性が姿を現した。


「着きやした」


 発する声さえもぶっきらぼうで、ちょっと田舎の訛りが入っている。彼はこのあいだいた国から、約1ヶ月ものあいだ、共に旅をしてきた仲だった。


「ありがとう」


 津鷹は人の好い笑みを浮かべて対応し、床に置いていたトランクと共に先に馬車から降りて、さらに続いて外に出ようとした春野に手をのばした。

 春野はその手をとって地面に降りた。帽子がずれそうになったので、慌ててその上に手を載せて空を仰ぐ。隙間がないほどに敷き詰められた煉瓦造りの建物、その上に広がる青空は故郷のそれよりずっと狭い。だが、良い青をしていた。


 やはり津鷹についてきて正解だった。そう、春野は思った。


 町に広がる景色や人の流れを、春野が物珍しげにキョロキョロと見渡しているあいだに、津鷹は御者にお金を払った。そのお金は、中央に瞳が彫られているのが特徴の、世界共通貨幣だ。このお金は、よほどの僻地でない限り、たいていの国で使えるものなのだ。

 もらうべきものをもらった御者は、さっさと馬車へと戻って2頭の馬に鞭を打って動きだした。これから御者の男性とその2頭の馬とは約1ヶ月もかかる離れた母国への道のりを、ノロノロと帰っていくのだろう。

 それも少し楽しいだろうなと、春野は思った。

 だけども今は任務の最中。春野は馬車との別れを惜しみながら彼らの背中に向かって手を振った。背を向けているから見えているはずもないのに、まるで別れに応えるように馬が鳴く声が聞こえた。


「じゃあ、宿を探そう」


 すでに目の前に宿はあるにも関わらず、津鷹はそう言った。

 春野は思わず「ここにしないのですか?」と聞いた。


「別に良いけど、もしかしたらもっと安い宿代で済むところもあるかもしれない。なるべく節約もしたいし」


 何せ1ヶ月もかかる距離を馬車だけで進んできたのだ。それによる出費はなかなかのものだった。実際、これまであった金貨5枚はすべて、あの御者の手に渡ってしまったのだから。

 春野は納得して、「では町を歩いている方々に、ここらで最も安い宿を聞いてみましょう」と提案した。


「ああ、そうしよう」


 津鷹はうなずいて歩きだした。春野も彼の左隣を歩きだす。津鷹が左目に眼帯をしているためにそこは春野の定位置でもあった。

 少し行くと、先ほど馬車で通りすぎたばかりのテント通りへと戻ってきた。テントの下では野菜や果物、肉に魚など。様々な物が売られていた。どれもこのあいだまでいた北の町では見たことのない食材ばかりだ。

 思わず、春野は喉をならした。


「何か買う?」


 津鷹にそう聞かれて、慌てて「いえ!」と叫んで帽子を目深にかぶり直した。

 今は任務の最中だ。怠慢な態度にあきれられてしまっただろうかと、内心どぎまぎしていると、津鷹はその足を近くにあった果物屋のテントへと向けた。

 春野は慌ててその背中を追いかけた。


 果物屋のテントに入った津鷹は、そこで店番をしているおばさんから黄色い果物を2つ買って、後をついてきた春野に「はい」と渡してきた。


「……す、すみません」

「お腹もすいているだろう?」


 指摘された途端、まるでそのとおりだと言わんばかりに春野のお腹の虫が鳴り出した。食事をとったのは太陽が1番頭上に高い位置で照っていたときなので、もうずいぶん前だ。体内時計的にはすでに何か腹ごしらえをしておくには良い頃合いだった。

 春野は顔を真っ赤にしてお腹をおさえ、申し訳ない気持ちで津鷹を見上げ、黄色の果物を受け取った。

 一口かじると、今まで食べたことのない味が口一杯に広がった。しゃりしゃりとした食感に、噛むごとに鼻に香る甘い果汁があふれんばかりで、とても美味しかった。飲み込むと、喉がうるおった。今さら、そういえば喉も少し渇いていたことに気がついた。


 果物の名前は梨というのだと、津鷹が教えてくれた。

 梨を片手に宿を探すために再び歩き始めた。町を歩いている人に、ここら辺りで1番安い宿はないかを聞いていく。どんなに歩いても汗はかかなかった。比較的温暖な気候である上に時折涼しい風も吹くために、下手に厚着をしたり涼しい格好をしたりしなくていいのは楽なものだった。何せ前までいた国はとても寒くて毎日のように雪がちらついていたし、天気が悪いと歩いていることさえやっとだったから。


 聞き込みをしながらのんびり歩いていくうちに、やがて春野たちは中心街から少し離れた、ある宿にたどり着いた。その宿はこの国にある他の、どの建物とも違う。初めて見る木造造りだった。

 日もかなり西に傾いてしまった。こんな時間でも、無事に部屋に空きはあるだろうかと春野は思った。津鷹がドアノブに手をかけて、それをゆっくりと押すと、ギギギときしむような音が聞こえた。


「ごめんください」


 ドアを開けてすぐ目に入ったのは、カウンターにいる女性だった。


「はい」


 呼び掛けられた女性は、カウンターに伏せて書き物をしていた顔をあげて、津鷹と春野を見てきた。春野は慌てて津鷹の背中に隠れた。


「……今晩、ここに泊まりたいのですが。部屋は空いてますか?」


 津鷹は淀みない口調で女性に問いかけた。


「空いていますよ。お2人でよろしいですか?」

「はい」


 女性は「まず、こちらにお名前をお願いします」と言って、津鷹の前に宿帳とペンを置いた。春野は「僕が書きます!」と叫び、ペンをとろうとした津鷹から奪うように手に取ると、少しばかり高いカウンターに背伸びをして宿帳に自分と津鷹の名前を記した。


「こ、これで良いでしょうか?」


 なるべく目を合わせないように気を付けながら、そっと女性に宿帳を返すと、彼女が微笑んだのが気配で伝わった。

「では、お部屋へご案内いたします」と言った女性が、カウンターからでてすぐ脇にある階段へと足を向けた。その際、背中まで届く彼女の茶色の髪がふわっと翻って、甘い香りを漂わせた。

 あとをついていくように春野たちが階段をあがろうとすると、その階段を逆に降りようとしていた初老の女性にでくわした。彼女の手には毛布やら布団やらといった、洗濯物が山と積まれていて。案内人の女性と、その後ろにいる春野たちに気がついて「まあ」と小さく声をあげた。


「お客様かい」

「はい。1番奥の部屋使える?」

「さっき掃除し終えたところさ」


 初老の女性はよいしょ、と腕に抱えている洗濯物が落ちないように抱え直しながら、階段をおりていった。津鷹は愛想の良い笑みを浮かべて「どうも」と言い、春野も帽子の鍔越しに彼女に向かって頭を下げた。すると女性の口から「ごゆっくり」と返されたので、この宿の人なのかもしれないと春野は密かにそう思った。


 案内された1番奥の部屋は、西日がよくあたる、眩しい場所だった。


「夕食はそちらの時計で、7時になります。何かございましたら、そこにある呼び紐でお知らせください」


 案内してくれた女性が天井に吊るされている紐を軽く引っ張りながらそう言った。


「ありがとうございます。ところであなたのお名前をうかがってもよろしいですか?」


 津鷹の何気ない問いかけに、今まさに部屋を去ろうとしていた女性は振り返りざま「シーナです」と答えてくれた。


「シーナさん。ありがとうございます」


 改めて津鷹がお礼を述べると、シーナは微笑みながら「それでは夕食のときに」と会釈して部屋を出ていった。

 廊下を歩き、階段を降りていって、と気配が遠くなっていくのを確認してから、春野は「津鷹」と彼の名前を呼びかけた。

 名を呼ばれた彼は窓に映る西日から、目だけを春野へと向けた。その白い瞳に太陽のオレンジがわずかに輝く。


「――間違いないね」


 静かにつぶやいた彼に、春野は小さくうなずいた。

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