パリィ!バッシュ!バンカー!

浮脚ダツ

シデリアン洞窟編Ⅰ

 シデリアン洞窟――

 ここは、駆け出しの冒険者が必ず入る、修練のための洞窟。

 ここすら抜けることの出来ない者はその身を魔物の餌にするために生まれてきたのだと言われるほどに、とても初歩的な洞窟だ。

 何せ、隠し通路はおろか、分岐点も無い。洞窟とは名ばかりの洞穴のようなものだからだ。

 しかし、長さや深さに関しては間違いなく洞窟と言える。

 その長さは一つの山脈を縦に突っ切る程。

 深さに至っては山一つ分がすっぽりと入る。高低差による気圧の変化で、地下にもかかわらず高山病になることもある。

 ここで新米冒険者は生き抜く術を学ぶのだ。

 そして今日も一人、この洞窟へ挑もうとする者が現れた。

「一人かい?」

「はい。冒険者になったら、まずここに行かなきゃ駄目だってギルドで言われて――」

「名乗りはいい。お嬢ちゃんが冒険者だと分かればそれで」

 受付の男は、少女が名乗ろうとしたのを手ぶりと言葉で止めた。そして、今来たこの新米冒険者を値踏みするように見る。

 顔立ちは良く整っている。だが、まだ幼さが残り、可愛らしい印象を与える。血色がよく健康的で、服装も、別にボロを着ているわけでもないが、着の身着のまま故郷を出た風ではあった。目に留まれば、貴族の家に奉公に出せるくらいには美少女と言える外見だろう。

 こんな上玉な娘ですら口減らしとして追放しなきゃならないくらいこの国は逼迫しているのかと、男は少し悲しくなった。

 できることならば孤児院でも紹介してやりたいところだが、あそこも最近は受け入れが多く、人手不足と聞く。それに、目の前にいるこの娘は、既にギルドで登録を済ませた駆け出し冒険者としてここにいる。心を鬼にして送り出してやらなければならない。そうしなければ、むしろ失礼ではないか?

 だが、見た目10代中頃といった感じの少女だ。このぐらいの子供が男女問わず、この洞窟に入って戻って来なかったことはいくらでもあった。

 いくらこの洞窟が新米の登竜門と謳ってはいえど、本来は成熟した人間を想定している場所なのだ。姥捨て山感覚で子供を冒険者にするのはやめてもらいたいものだと、男は嘆息した。

「あの――」

 思案していたところを少女の声でハッと我に返る。

「あぁ、すまない」

「それで、どうすればいいんですか? 行けば教えてくれるということで何も聞かされてないんです 」

 整った顔に乗った、ぱっちりした目でジッと見つめてくる。男は少し照れ臭くなって目を逸らしながら答える。

「えーっとだな、新米の冒険者に最初の仕事と訓練をさせるのがこの場所だ。ギルドからの報酬は武器と防具、それと銀貨10枚だ。ここで貸し出す武器と防具、野営道具などを持って、この洞窟を抜けてもらう。抜けると言っても、この洞窟は袋小路になっているから、行って戻ってくる、が正しいがな。中の魔物や害獣、害虫を倒しながら一番奥まで進み、ここまで戻ってくる。往復で大体1ヶ月くらいの道程だ。ここまではいいか?」

 うーんと、少し腕組みをして考えてから綺麗な挙手をする。

「はい! 質問いいですか?」

「あぁ、なんだい?」

「その、野営道具には何があるんです?」

「中身か? 寝袋、テント、スコップに火起こしキット。あとは、鍋とナイフ、岩塩が一塊だ」

「食べ物は無いんですか!?」

「あぁ、ない。現地調達、現地調理だ。てめぇ一人で生き抜く手段を学ぶ場所だ。必要最低限の物しか与えないことになってる」

「火を起こせても燃料がなければ意味がないですけど、洞窟って木とか生えてるんですか?」

「木みたいによく燃える魔物がいる、そいつを倒せ。薪を1ヶ月分持ち歩きたいならそこの森でどうぞ」

「結構です……。あ、飲み水はどうすればいいですか?」

「そこら辺に泉が湧いてる、大丈夫だ」

「へぇ~、便利ですねぇ。あの、ト、トイレはどうすれば……とか聞いても?」

「ハハッ! そのためのスコップだ。出来るだけ深く掘れよ、じゃないと匂う。あ、テントは寝るため以外に、用を足してるときに、隠すためにも使えるが、チームを組まないのならあまりお勧めはしない。敵の発見が遅れるからな。下半身丸出しで死にたいなら止めはしないが」

 男が言うと、少女は首をブンブンと振る。

「ちょっと脅かしすぎたか? まぁ中でチームを組める奴に逢うかもしれないからあまり深く考えるな」

 男は少し間を置くと、さてとと本題に入った。

「防具と武器についてだが、申し訳ないが今はそこにある分しかない」

 自身の後ろの簡易テントに指をさして言う。

 少女は、簡易テントに入る。

 武器の棚には丸盾が数個に、刃こぼれしたダガー、見るからに重そうな大きな鉄板のようなものが2枚。

 防具の棚には金属製のレガースブーツに脚甲、手と指の甲部分だけ金属のプレートが付いたグローブ、金属の胸当て、鎖帷子、大量のヘルム類と、まだ少しまともそうなものが残っているが、武器が少なすぎる。

「あの、あれだけ、ですか?」

 テントから出て受付に戻った少女には動揺が見てとれる。

「あぁ、言った通りそこにある分だけだ。ここ1ヶ月ほど中に入った新人共の戻りが悪い。悪いというか、誰一人戻ってきていない。そのせいで返却されるはずの装備が中に入ったきりだ」

「回収とか、助けにとか行かないんですか? 何かトラブルが起こってるんじゃ」

「行かない。仮にトラブルが起こっていても、それを自力で解決する力を付けるための場所だぜ、ここは。で、どうする? 今、ギルドの方に武器の補充の申請を出してるんだが…… ギルドも国の機関だからな。魔王軍との戦いに係りっきりでこっちまで手が回るのはいつになるかわからん」

「そんなぁ。私、冒険者になりますって威勢よく宣言して村から出てきたのにこんなことってあります? ていうか、そんな国の手が回るかもわからない状況なのに、中に置き去りの装備回収しないって職務怠慢じゃないですか?」

「言いたいことはわかるが、回収のために中に入るってことは、自ずと今中にいる新人を助けることに繋がっちまう。回収するとしたら中にいる連中が全員出てくるか、死んだことを確認した後だ」

「中に入った人達が生きてるか、分かるんですか?」

「あぁ、ギルドに登録したときに名前を彫金したプレートを2枚貰っただろ? お前さんの首にぶら下がってるそれだよ」

と、男は少女が首から下げているプレートに指をさす。

「そいつはこの洞窟に入っている間に使うものだ。身に着けている人間から発せられる微弱な魔力に反応して信号を出す。もう1枚をここに預けておくと、洞窟内にあるプレートから出た信号をこっちが受信して発光する。この洞窟は奥に進むとこのプレートに使われてる金属の魔力を増幅する特性がある。するとだ、奥に進めば進むほど、外のプレートの光が強くなる。これでどこまで進んだかもわかる。近くにそれを記録する小屋があって、常に人が詰めてる。1か月入り口付近でうろうろして出てくる奴がいても無意味だ。こいつは、終わった後はお前さんらに返されるが、捨てるんじゃねぇぞ。そいつを首から2枚下げて冒険者の仕事を受けてるってことが正規の冒険者である証でもあるからな」

「なるほど。さっき、戻ってきてないって言ってましたけど、生きてるんですね?」

「いや、記録員の話だと一番奥まで行く少し手前でプレートの光が消えてるって話だ」

「つまり死んでると?」

「あぁ、奥の方の魔物はそれなりに強いから、そういうこともよくある。だが、ここまで戻りが悪いのは初めてだ。今回の連中が外れだったのか、飛び切り強い魔物が出てきたのか、だな。ここまでの話を聞いて、出直すという選択肢は――」

「ありません」

 即答だった。

 食い気味だった。

「おいおい、俺が言うのもなんだが、ろくな装備も残ってないこの状況で行こうなんてよく言えるな」

 少女は困ったように、はにかみながら鼻を掻く。

「はは、実を言うと滅茶苦茶怖いし、不安なんです。でも今戻っても、こんな子供が出来る仕事なんて冒険者以外はたかが知れてますし、私と、村を一緒に出た大切な人が、私が冒険者になるからという条件でギルドの宿舎を使わせてもらうことになってるんです。ここで帰っちゃったら無一文のまま住むところを無くしちゃいます。だから、私は行きます。行かなきゃいけないんです」

 幼さの残る瞳を精一杯キリッとさせて、真っ直ぐ男を見つめる。その顔は多少背伸び感はあるが、立派な冒険者の顔だった。

 男はその意志をしっかりと受け止めて一言、わかったと言った。


 男と少女は共だってテントに入る。

「それじゃあ、お嬢ちゃんのために装備を荷作ろうか!」

「はい! とは言え、これしかないんですよねぇ……」

 男は指を鳴らし、肩を回す。

 少女は返事はしたが、不安げだ。

「まぁ、なんとかするさ。砥石もあるから、刃こぼれしてるのは研げばいい。で、どういう武器が良い?」

「武器自体、扱ったことがないので何とも…… というか、なんでこんな盾だけ余ってるんですか?」

「それはな、元々そいつは片手剣とセットだったんだが、見栄えを気にした奴が剣だけ2本ずつ持って行きやがったんだ」

「つまり?」

「要約すると、二刀流ってかっこいいじゃん? つーわけだ」

「その人は自分の見栄えより、後から来る人のこと考えるべきだと思いますね。おじさんも止めるべきだったかと!」

「止めはしたさ。だが、あぁいう威勢だけいいクソガキは何言っても聞きやしないんだ」

「はぁ、もういいです。無いものを今からねだっても仕方ないですし。ここに残っている武器で一番強いのって何ですか?」

「扱えるとは思えんが、一番強いのはコレだな」

 男は武器の棚に立て掛けてあった大きな鉄板を指した。

「これ武器なんですか!? ただの鉄板だと思ってました。高さ、私の胸くらいまで有りますよ? 男の人でも持てないんじゃないですか?」

「俺でも1枚がやっとだろうなコイツは。そもそもこんな駆け出し連中が来るようなところに置いておく物じゃない」

「で、これなんなんですか?」

「盾だよ」

「また盾っ!! ここが仮に武器屋さんだったとして、今の品揃え見たら間違いなく防具屋さんだと思われますね!」

「否定はできない。まぁ、盾でも角とかで殴れば普通に死ぬしな。重さ硬さは筋力でいくらでも攻撃力に変えられるんだから、ここではコレが一番強い」

まぁ冗談は置いておいてと、この盾について男は説明を始めた。

「こいつはバンカーシールド。鎚盾とも言うんだが、炸薬の詰まった筒を爆発させて鋼鉄の杭を地面や岩盤に突き立てることができる。人だけの踏ん張りじゃ足りなかったりするときにその補助をしてくれるって機構だな」

「そんな踏ん張る場面ってあります?」

「強い敵と戦ってたらそういうこともいずれあるかも知れない。くらいか?」

「そんな、かもしれないのためな機能……」

「まぁそう言ってくれるな。こいつは、国の兵器研究所があらゆる戦闘場面を想定して、性能を突き詰めた試作品だ。贅沢な素材と技術の粋を集めて作った結果、普通の人間じゃまともに扱えない重さになった……」

「それを2つも作ったんですね」

 二人の間に何とも言えない気まずさのような空気が流れた。

「だ、ダウングレードした量産品は既に市場に出回ってるからこれはこれで良かったんだよ!」

 男にとっては精一杯のフォローだったが、少女の心には届いていない様子だ。ハイハイ、良かったですねーと棒読みで返される。

 だが、言葉とは別に少女の足はその大盾の前へと進む。

「これにします」

 男は、一瞬少女が何を言ったのか解らなかった。数秒の間の後、男は少女に慌てて言葉をかけた。

「おいおい! 今までの会話はなんだったんだ!? これにしますって、そいつは、大人の男でも1枚持つのがやっとな物だぞって。お前それを小馬鹿にしてたじゃないか」

「まぁ、そうなんですけどね。でも、ここで一番強いのはコレだとも、おじさん、言ったじゃないですか。ならこれにしようって」

「いや、だから――」

「私、力には自信あるんです!」

「自信あるって言っても、女の子の力なんてたかが知れてるだろ?」

「じゃあ、見ててください」

 言うと少女は盾の取っ手に手をかける――片手で。

 少女が力を入れると大盾はふわりと宙に浮いた。

 少女の顔には無理をしているような表情は浮かんでいない。

 男は文字通り、開いた口が塞がらない。

「思ってたよりは少し重いですね。でも、これくらいならぜんぜん許容範囲内です」

 言うともう一方の手で、残った盾を持ち上げる。

「なんか、鉄壁って感じしません?」

 シルエットだけ見ると、腕の肥大化した魔族に見える。口の端から出かかった言葉を飲み込んで男は肯定する。

 それを聞いて少女はカラカラと楽しそうに笑う。

 クルクルとその場で回る。

「おい、さすがに何か、というか俺に当たったら洒落じゃ済まないから止まってくれ」

「ごめんなさい」

ピタリと止まって男に一礼する。

「しかし、すごい力だな。疑って悪かった」

「いえ、これは実際に見ないことには信じて貰えないと思ってたので」

「いやー、本当にすごい。人間離れしている。いや、悪く言っているんじゃないんだ。気を悪くしないでくれ」

「そんなことで悪くなる気は持ち合わせてないです。村ではよく、男の人たちと混ざって力仕事もしてました」

 男は腕を組んで何かを考え慎重に言葉を紡いだ。

「ひょっとしたら嬢ちゃんの家系に魔族がいるのかもしれないな。昔は魔族と人間で仲良く暮らしてたこともあったらしいし、曾祖父さんとか曾曾祖父さんとか。隔世遺伝というか、先祖返りに近いものかも知れない」

「そうなんですか。でも魔族って人間よりも魔力が多いはずですよね? 私、普通の人より少ないって言われたんですけど……」

「オーガ族っていう魔族がいる。額に角があり、人間と変わらない背丈と体重で、魔力は人間より少ないが、筋力がどの魔族よりも圧倒的に強い種族だ。お嬢ちゃんの家系にはその血が入ってるのかもな。まぁ俺の憶測に過ぎんから、話半分くらいに流してくれ」

「はい。まぁ、心の片隅程度には置いておきます。しかし、なんですね。こうして同じ武器を両手に持つと、片手剣を二本持って行った人達の気持ちも解らなくもないですね」

「お嬢ちゃんとじゃ、持ってる武器のスケールが段違いだがな…… じゃあ、武器はそれでいいんだな?」

「二つ持って行っていいんですか?」

「どうせ誰も持てないんだから良いよ。好きにしな」

「ありがとうございます!」

「んじゃ、防具だな。武器がそれだから、いくらお嬢ちゃんが力持ちっつっても多少は加減するべきだろう」

 男は少女の驚く早さで防具を見繕っていく。一式をあっという間に選び抱え、着てみろと少女を促す。

 さすがプロだと感心して奥の更衣室に入った。

 入ったはいいが、初めての防具装着でいくつか着け方の分からないものがあったので、カーテンから装備と腕だけ出して何度か訊きながら着替えた。

 出ると、男に間違っているところはないかと訊きながらゆっくりと回って見せた。

 男は、気になる箇所を見つけると、手早く少女の防具の着付けを直した。

 直しは主に、緩く着ていた箇所をきつめに締めるものだったため、少女には少し着心地が悪く感じられた。

 一通り直し終わると、男は腕を組んでよし! と言った。

「それが基準になる。少し窮屈に感じるだろうが、後は実際に動いてみて、特に気になった箇所だけ自分で調節しろ。入口付近から2日くらいの地点ならそれくらいやる余裕はあるはずだ」

 分かりましたと少女が応えると、男はバックパックを少女の前に置いた。これが最初に言った荷物なのだろう。そして最後にと、男は金属製の箱を取り出した。それは? と少女が訊ねると、少し長くなるがちゃんと聞けと注意し、話し始めた。

「これは、弾倉って言ってな。この盾の杭を撃ち出すための火薬の筒が1つにつき、12個入ってる。つまり、この弾倉1つにつき、12回杭を撃ち出せるってことだ。グリップの先端に付いてるレバーを握り込むと杭が撃ち出される。杭は刺さらなかったり、刺さっても盾が固定できるような硬さじゃなきゃ勝手に元のポジションに戻って再射出可能になるが、十分な硬さの所に刺さると盾を固定してくれる。コイツを元に戻すときは、刺さったまま持ち上げ、杭を伸ばし切って、もう一度下ろす。すると杭の固定ロックが外れて戻る。火薬の筒は撃つと一緒に燃えて無くなる。中で使うことはあんまり無いだろうが、念のため4本くらい持たせてやる。火薬は町の武器屋でも売ってるから、戻ってきたら買って、空になった弾倉に詰めろ」

「空になった弾倉は持ち歩いていた方がいいんですね?」

「そっちのが多少安い。薬莢式っていう筒が金属の火薬もあってそっちの方が生産コスト的にさらに安いが、お嬢ちゃんのには対応してないから注意な。『鎚盾用の火薬をケースレスで』って言や通じる。給薬機っていう弾倉に火薬詰める機械もあるんだが、ここにはない。自分で買うか借りるかしてくれ」

 そう言った後、弾倉交換のレクチャーをした。

 説明を終えると、男は、弾倉を少女のそれ用に誂えたと思える上着ポケットに入れた。そして小さくため息をして、俺からは以上だ。と、少女を真っ直ぐ見据えた。

 少女は、ありがとうございますと一礼をし、バックパックを背負った。


 洞窟の入口は、大きな鉄の扉で閉ざされている。

 実際の出入口は一番下にある小さな扉だ。

 男が扉を開ける。

 中は思ったよりは明るいようだ。

「昨日、2人組が入った。急げば追いつけるかも知れないぞ。ちなみに、片手剣2本持って行ったのがその2人の内の1人だ」

「それは急がなくちゃ。行ってきま――」

「待て待て。タグを1枚渡してくれ」

 そうでしたと少女は、タグを外して渡す。

 行ってきますと挨拶をし直し、洞窟へと歩き出した。

 中に入ったことを確認すると、男はゆっくりと扉を閉めた。

 男は少女から受け取ったタグを見つめる。

「ディティス=アンカー、か」

 タグに刻印された名前を口にする。お互い情を移さないために、決して名乗らないし、名乗らせない。当然ドッグタグも見ない、そう男は誓っていた。冒険者たちが還ってきても来なくても、男自身の心の平静を保つためである。自己保身、身勝手だと叱責を受けることもあったが、していなければとっくにこの仕事は辞めていただろう。

 だがこの日、男は旅立った少女の名前を、冒険者の名前を確認した。お互い名乗ってもいなかったのに、あのやりとりの中で思いがけず、男は彼女に情を移していたのだ。

 そういえば、あそこまできっちり一人の冒険者の面倒をみたのは新人の時以来か。と男は追想した。

 還ってこい、還ってきてくれと、今まで思ってこなかったわけではないが、この仕事を続けてきて久しぶりに特定の個人に向けて強くその思いを抱いた。

 男は、今旅立った少女、ディティス=アンカーのタグを、初めてのお使いに向かう少年の持つ硬貨のように握りしめて、記録所へと持って行った。

 そして、少女、ディティスの物語はここから始まる――。

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