第2話 朝の一コマ

 森の朝は早い。太陽がまだ地平線から顔を出したばかりだというのに、そこかしこで鳥たちが鳴いていた。


「くうー!」

「ん、うぅーん!」


 家から一歩外へ出ると、俺たちは大きく伸びをして、爽やかな朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。

 隣で妻の豊かな胸がふるんと揺れる。思わず吸い寄せられた視線を慌てて上方修正したところでばっちり目が合ってしまった。


 気まずい。

 何が気まずいって妻の顔が悪戯っぽく微笑まれていたからだ。きっと口を開けば「見たいのなら遠慮なく見ればいいのに」くらいの台詞が飛び出してくることは間違いないだろう。


「見たいのなら言ってくれればいいのに。私たちは夫婦なのだからいつでも見せてあげるわよ?」


 実際に発せられたのは俺の予想をはるかに超えた爆弾発言だったが。


「勘弁してくれ。そんなことになったら今日一日が君を抱きしめるだけで終わってしまう」


 そう返すと妻の顔は一瞬で真っ赤に染まってしまったのだった。少しだけ長く尖った耳の先まで赤くなっている。

 彼女の家に居候を始めてから二年、結婚してからも一年が過ぎようという今日、ようやく一矢報いることができたようである。


「そ、それはそれでとても素敵な一日だと思うわ……」


 ……前言撤回。まだまだ妻には勝てそうもない。

 真っ赤な顔で俯いてぽそぽそと呟く彼女を見て、俺はそう確信したのだった。


 余談だが、自堕落な一日に突入することを防ぐために、俺はなけなしの理性を総動員する羽目になった。


 二人して柔軟体操をしながら気持ちを落ち着かせた後で、日課である修練を始める。

 十歩ほど離れた場所で向かい合う妻は、練習用の木剣を手に気負いもなく優雅に佇んでいた。

 対する俺は同じく木で作った練習用の槍を構えているのだが……、


「ヒュート、腰が引けているわよ」

「分かってる。分かってはいるんだが……」


 体が言う事を聞かないのだ。


「アリシア、せめてもう少し威圧を弱めてくれないか」


 妻、アリシアは泰然と立っているように見えて、その実とてつもない密度の威圧を放っていたのだった。


「ダメよ。今弱めてしまったら心が甘えることに慣れてしまう。そうなったらせっかく今まで頑張ってきたことが台無しになってしまうわ」

「だけど、これは……。前に出られないんじゃ訓練にならないぜ」

「うーん……。それじゃあ、これを頑張ってクリアできたら、ご褒美をあげるっていうのはどうかしら?」


 妻がそう言った瞬間、体の奥底から力が湧き上がってくるのを感じた。

 現金だ?言わないでくれ、俺自身頭の隅でそう思ってしまっていたのだから。


「それと、私に勝てたなら今日は一杯ご奉仕してあげる」

「はああああ!」


 体中に気合を張り巡らせて勢いよく飛び出して行く。


 届け!熱きこの想い!!


「いい攻撃だったけど、少しばかり単調に過ぎていたわ。動きに緩急をつけるなりしないと、実践では通用しないわね」

「はい……。」


 結果、呆気なく返り討ちにあった。

 彼女と訓練を始めてからの連敗日数も六百八十八日に伸びてしまっている。ちなみに連敗記録となると軽くこの十倍以上になるので、訓練開始から三日目で数えるのをやめていたりする。


「ご奉仕はまた今度になってしまったけど、ご褒美の方は期待していいわよ」

「随分とご機嫌だな?」

「だって全力の私の威圧に耐えてくれたどころか、攻撃までしてきてくれたのよ。これでようやく本気を出すことができる」


 ……どうやら妻はこれまで余力を残したまま俺の訓練に付き合ってくれていたらしい。

 以前彼女からこの世界でも稀有な実力の持ち主であると聞いたことがあったので、その可能性はあるとは思っていたが……。

 現実を突きつけられると、夫としては若干凹むものがあるのだ。

 それと、明日からの訓練がこれまで以上に厳しいものになるということについては……、今は考えない方が精神衛生上良さそうだ。


「さあ、そろそろ上がりにしましょう。私は朝食の支度をしているから、あ、あなたは汗を落としてきて」


 未だに『あなた』という呼び方に慣れない初心な妻の姿にほっこりしてしまう。

 練習用の槍を預けると、玄関から中へと入っていくアリシアとは別れてぐるりと家の外を回って裏手へと向かう。

 石組みの井戸に近寄ると蓋を開けて、桶を放り込む。すぐさま引っ張り上げてザバッと頭から被る。初夏を迎えようとするこの時期、冷たい井戸の水は火照った体に心地いい。


「ぶはっ!」


 大量の水を含んで落ちてきた前髪をかき上げる。

 ふと気になって水をくみ上げると、桶の水面に映る顔を覗き込んでみた。黒目、黒髪で、この世界でも、そして元の世界でも精々がそこそこ止まりの顔がそこにはあった。

 浮かび上がってきた焦燥感に駆られるようにして再び水を被る。


 既に二十歳を過ぎていて、お世辞にも美男子とは言い難い。お世辞抜きに美女だと言い切れる妻と釣り合いが取れているかと聞かれれば、十人中九人は間違いなくノーと答えるだろう。

 それでも彼女は俺を選んでくれた。俺に応えてくれたのだ。


「ざまあみろ」


 一体誰に対してのものなのか自分でもよく分からない優越感に浸りながら、俺は裏口から中へと入っていった。

 ずぶ濡れの体のまま家に入ったことで、アリシアに叱られた上にご褒美が延期になってしまったことは言うまでもない。

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