パティシエとクリスマスケーキとプロポーズ

綿柾澄香

オラ、はスペイン語だよ

 雪が重力に引かれて落ちる途中、風に吹かれて一度舞い上がって、また重力に従って落ちていく。まるで、桜の花びらのように。


 ああ、でも凍えるように寒いから、やっぱり今は冬なんだ。


 と、白い息を吐き出して思い出す。駅前のベンチに腰掛ける僕の身体は芯まで冷え切っている。


「クリスマスケーキ販売してまーす」


 駅の向かいのケーキ屋の前で、サンタクロースの帽子をかぶって、ベンチコートを羽織った女の子が鼻を赤くしながら叫んでいる。


 僕がここに来てから三時間が経つけれども、彼女はずっとあそこに立っている。けれども、ケーキはあまり売れていない。三時間もここに居たのは、別にその女の子のことが気になって、じっと見つめていた。なんて、変態的な理由ではない。ただ、待ち合わせをしていたのだ。二年前にフランスへとパティシエの修行に行った会社の元同僚と。


 二年前、彼女は突然会社を辞めた。昔からの夢だったパティシエになるためにフランスへ行くのだと言って。突然のことだったけれども、会社のみんなは夢を追いかける彼女を応援した。ささやかな送別会を開き、その送別会の帰り道、同じ方向の僕と彼女が一緒に駅まで向かっている時だった。


「ねえ、二年後のクリスマスの日、この駅前で待ち合わせしようよ」


 と、彼女は切り出した。


「え?」

「二年後のクリスマスの日、フランスで修業してパワーアップした私のケーキをここに持て来るから。ここで待ち合わせ」

「ああ、なるほど。それで僕に毒味をさせるわけだ」


 僕のその言葉を聞いて、彼女は少しムッとする。


「失礼な。今でも十分においしいくらいなのに」

「はは、ごめんごめん」

「それに、毒味じゃなくて、プロポーズだよ」


 彼女はひらり、と軽やかに振り返る。その頬は少し赤い。それは寒さのせいか、酔っているせいか、それとも今の言葉のせいか。彼女のその言葉の意味をうまく飲み込めなくて、僕は立ち止まってしまう。プロポーズ、とは?


「二年後のクリスマスの日に、ケーキを持って君に言うんだ。結婚しようって。気付かなかった? 私、ずっと君のことを好きだったんだよ?」


 僕は首を振る。言葉は出てこない。


「だよね、まあ、知ってた。君って鈍感だもんねー。けっこう私なりにアプローチはかけてたつもりなんだけどなー」


 と、彼女は悪戯っぽく笑う。


 正直、僕にはまったく身に覚えがなくて、困惑する。けれどもきっと、彼女が言っているのは、そういうところなのだろう。


「それじゃあね、二年後のクリスマスだよ。絶対に覚えておいてよね。アディオス」


 そう言って、彼女は駅へと入っていった。

 アディオスはスペイン語だよ、というツッコミはそのとき咄嗟には出なかった。





 それから二年後のクリスマス、つまり今日、僕はこうして駅の前で待っていたというわけだ。けれども、彼女が現れる気配はない。僕も、別に期待していたわけではない。二年もあれば、色々とある。フランスで素敵な出会いがあったのかも知れないし、二年の間に僕のことなんか忘れてしまったのかも知れない。そもそも、あの時の彼女は酔っていたし、ただのノリで言ってしまって、本人すら覚えていない可能性だってある。彼女の連絡先は聞かなかったから、あれ以来、一度も連絡さえ取っていない。それでも、こうして待っていたのは、僕も、実は彼女の事が好きだったからなのかもしれない、と今更になってようやく気付いた。


 日が暮れてきて、イルミネーションが輝きだす。

 きっと、彼女は来ない。まあ、でもこうして昔のことを少し思い出すきっかけにもなったし、悪くない一日だった。サンタ帽とベンチコートを羽織ってずっと頑張っていた健気な女の子の元でケーキを買って、家路に就いた。




   *   *   *




 翌年のクリスマス。

 その日も僕は駅前のベンチに座っていた。


 今年もこうしてベンチに座っているのは、微かな希望に期待して、とか彼女に未練がある、とかそういうわけじゃない。ただ少し疲れたから休憩をしているだけだ。

 それに、ここでこうして座っていれば、彼女のことを思い出せる。年に一度、クリスマスの日にここでこうして、彼女のことを想うのも悪くはない。


 駅の向かいのケーキ屋では、女の子がサンタ帽をかぶって、ベンチコートを羽織り、クリスマスケーキを売っている。彼女は去年と同じ女の子だろうか。同じ子だと言われれば、そんな気もするし、違う子だと言われれば、そんな気もする。


「オラ♪」


 と、不意に背後から声を掛けられて、僕は思わず飛び跳ねそうになる。

 聞き覚えのある声。間違えるはずもない。この声は、彼女の声だ。


「いやぁ、二年で帰ってくるつもりだったんだけど、向うの支配人に気に入られちゃってさぁ、どうしてもあと一年だけって言うからさ、帰ってくるのが遅くなったんだよ」


 振り返ると、そこには懐かしい顔。その顔を見て、無意識の内に零れ落ちそうになった涙を、何とか堪える。


「どうして?」

「え?」


 彼女のその問いの意味がわからなくて、僕は首を傾げる。

 少しだけ、彼女が泣きそうな表情を見せたのを、僕は見逃さなかった。


「どうして待っていてくれたの?」


 ああ、そのことか。と思わず苦笑してしまう。


「別に、たまたまさ。本当にたまたま、このベンチに座っていただけ。去年は、ちゃんとここで待ってたんだよ」


 そう言うと、彼女の表情が少しだけ、明るくなったような気がした。


「そうなんだ、ふーん」


 そんな彼女に、今ここで僕が言わなければいけない言葉は、わかっている。この言葉しか、ありえない。


「おかえり」


 と、できるだけ誠実に言ったつもりだけれども、うまく彼女に伝わっただろうか。

 彼女の表情は、より一層輝きを増したように見えるけれども、僕の気のせいかもしれない。


「ただいま。で、これがケーキ」


 彼女は手に持った袋を差し出す。


「で、結婚しよう」


 そう言って、彼女は微笑む。ああ、そうだ。彼女はこういう風に笑うんだった、と思い出す。

 僕は、彼女の手から袋を受け取り、言う。


「オラ、はスペイン語だよ」

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パティシエとクリスマスケーキとプロポーズ 綿柾澄香 @watamasa

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