#5

「おはよう」

「おう」

 翌日、いつものように電車内で朱と遭遇する。涼火の住む菊野市は学校から三駅分離れており、朱は同じ路線で一駅離れた駅なので、涼火の方が早い段階で乗車している。こうして毎朝、前から四両目の車両で会うのが日課となっているのだ。

 都会度を十段階で表すなら七、八段階ほどであるそこそこ発展した風景が、窓の外に現れては消える。昨日の雷雨はまだ完全に去ってはおらず、高層マンションやビルが伸びていく先の空は一面銀灰色の雲に覆われている。幸い今のところ雨は降っていない。とはいえ、予報によるといつ降り出すかわからないので、今日は傘を持ってきた。

 今日は金曜日だ。平日最後の曜日、最も人が疲れているであろう日。車両内の他の学生やスーツ姿の大人達は、心なしかいつもよりも気怠げに見えない事もない。

「明日は休みだから屋敷調べ放題だな」

 通学路の途上で朱が言った。ちょっと道を変えればその屋敷が視界に入る。

「一日中いてもやる事ないんじゃない? ギャリギャリ男が都合よく屋敷にいて、なんか面白そうな事でもしてないとさ」

「もうすっかりギャリギャリ男で定着しちまったもんだな」

 その男が少し哀れだ。思いもかけないところで、見知らぬ紅蓮の他人から勝手に奇怪なあだ名をつけられているのだから。もし私が誰かからギャリギャリ女という名を付けられていたら……と涼火は想像してみる。そいつを殺す。

 だからと言って、実際にそのギャリギャリ男が自分のあだ名に立腹して涼火へ怒りのメールを送るなどという事はありえない。涼火は今、一見してそれに近いメールを受信したのだが、きっと悪戯か何かではなかろうか。

『二度とあの屋敷に近付くな。あの死体と同じになりたくないならな。お前を見張ってるぞ』

 画像も添付されている。あの時あの部屋で見た死体と、その首元に包丁が突き付けられた写真だ。無表情というよりは、力の抜けた表情筋が重力によってめちゃくちゃにかき回されたかのような混沌とした表情をした死体。それを指す包丁は、こうなるぞと示しているのか、殺して尚さらに傷付けるという残忍性をアピールしているのか、どちらとも取れる。包丁を持つ手は写っていない。

「どした?」

 ショッキングなスマホ画面をじっと見つめながら立ち止まった涼火につられて、ぐらりと揺れながら立ち止まる朱。謎のメールを表示した画面に小さな水滴が落ちた。空は束の間の休息を終え、再び世界を濡らす仕事を再開したらしい。

「うーわ降ってきちゃったよ」

「待って俺傘持ってねえ」

「鞄頭に乗せてガードしろよ」

 周囲の声は左耳から右耳へと素通りし、脳を経由しない。涼火は今視神経を刺激している物が何なのかを噛み締めた。私達があの家を探索したのは誰にも知られていないはずなのに、知られている。

 送り主のアドレスは、金券の登録番号のようなでたらめな英数字の羅列であり、名前という情報を一切与えようとしない意志を感じる。

「朱。昨日あの屋敷に入った事誰かに教えた?」

 答えは半分見えつつも涼火はそう問うてみる。そしてやはり親友は想像通りの返答を寄越す。

「え? いや誰にも。仄めかすような事さえ言ってない。なんで?」

「あー……うん、なんかすごいユーモア溢れるメールを頂いてね」

 隠す意味もないので涼火はスマホ画面を見せた。それを見つめる朱の精悍な顔はより精悍になっていき、読み終えると顎に手があてがわれた。

「マジで?」

「うん」

 脅し文句と画像からすると、送り主はあの屋敷に巣食っている者だろう。もしかしたらギャリギャリ男かもしれない。彼がそこで何をしているのかはわからないが、人に知られたらまずい事をしているのは確かだ。何しろ人が死んでいるのだから。

 わからないのは、涼火が昨日屋敷へと踏み込んだ事をどうやって知り、どうやって涼火のメールアドレスを知ったのかだ。

 もう周囲には同じ学校へ歩く生徒は一人もいない。完全に取り残されたようだ。雨足はゆっくりと強まっていく。涼火は傘を広げ、頭と空の間を遮る。

「お前の住んでた家って監視カメラでもついてんのか?」

 気味悪そうに朱が聞いた。

「なわけないでしょ。って言いたいけどギャリギャリ男が……設置した可能性……いや、でも監視カメラなんか見当たんなかったよね? あった?」

「そんなもん意識して探したりしなかったけど、どうだろうな。とりあえずあたしは全然心当たりねえ」

「仮に監視カメラで私達の姿見たんだとしても、なんで私にメールなんか送ってこれるの? 私のアドレス知ってる誰か?」

「でもメール送ったのってギャリギャリ男の可能性が高いよな? だって内容的にこれ、あそこでなんかやってる奴が送る脅し内容だろ」

 涼火は海馬を探り、昨日聞いたギャリギャリ男の声を過去の記憶と照合してみた。あの声に聞き覚えはないかどうか。……全く覚えがない。ギャリギャリ男が知り合いだとは思えない。

「んー……? じゃあマジで誰これ?」

 始業のベルが迫っている事も忘れ、涼火は雨の中、今までで最高に不思議なメールを携えて立ち止まっていた。恐怖心よりも好奇心の方が遥かに強い。

「とりあえずさ、学校行こうぜ」

 朱の暖かい手が、涼火の人並みより冷たい手を引いた。そうだ。とりあえず学校には行っておこう。

 数分後に到着する自分の教室を意識した時、思い浮かぶ物があった。

竹田たけだ

「え?」

 半歩先を歩いていた朱が不思議そうに振り返る。

「記憶障害にでもなったか? あたしは五十嵐だぞ。もっと言えば、お前からは下の名前で呼ばれてる」

「わかってるよ。あんたを呼んだわけじゃないから」

「じゃあ何だよ竹田って」

 ブレザーの下に着たパーカーのフードを被り、頭部を防護を強化しつつ涼火は一人のクラスメイトの顔を思い浮かべた。

「同じクラスにいるじゃん。竹田優馬ゆうまっていう男子。そいつからそもそも聞いた話なんだよね、私の元家に関する噂」

「あー……いたなそんな奴。一年の時は別のクラスだったし全然接点ないからよく知らんけど」

「とにかくそいつにもっと話聞いてみる。私が例の屋敷に関心持ってるって知ってるのは、あんた以外にはあいつぐらいだし」

「へえ」

 雨粒が傘を攻撃するバラバラという音を耳のすぐ上で聞きながら、涼火は大股で学校へと歩いた。

 十月も中盤に差し掛かりそろそろ残暑も無くなってきたところに、大量の水分を抱えた雲が空に居座るこの数日は、油断するとすぐに肌寒くなる。とはいえ、真夏や真冬よりは実地調査に向いている。あの屋敷に目を付けたのが一月や八月でなくてよかった。

 小綺麗な白い校舎が視界の中で肥大化していく。私立桜花高等学校。エリート過ぎず偏差値は悪くない、家からの距離もそれほど長くないという理由で選んだ学校。朱とつるみ始めたのは一年生の夏辺りだったか。

「じゃ青木さんは地元この辺じゃないんだ?」

 竹田優馬は机の上で手を組みながら言った。

 昔はこの街が地元だったが、わざわざ言う必要はないだろう。竹田との雑談は別段楽しくはないので、無駄に長引かせる理由はない。

「まあね。で?」

「俺は生まれも育ちもこの近辺だから、例の家についてはほんとによく色々聞くんだよね。そこの一家の旦那と奥さんが死んでからだな、そういう噂がひらひら舞うようになったのは」

 涼火の斜め後ろというお気に入りの立ち位置で、朱は腕を組んで聞いている。

「そこの……えーと娘さんだったかな? は俺らと同じぐらいの歳らしいんだけど、引っ越したとか聞いたな。で、空いたその家にはしょっちゅう色んな連中が不法侵入してるんだよ。そりゃあんな絵に描いたような成金趣味の家が空の状態で放置されてたらな、色んな目的のお客様がたが伺いに行くだろうな」

「んで、不法侵入する奴らの中で特に怪しいのは?」

 そろそろ予鈴が鳴りそうではあるが、竹田は時計に気が向かず手の上でシャーペンを回す。

「やっぱあれだろうな。若い男二人、片方は車椅子に乗ってる」

 涼火は振り返り、朱と顔を見合わせた。ネットで見かけた情報と同じだ。

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