#3

 幅の広い階段を上がり、一つ上の階へ到着する。踊り場から横へ続いている通路の片側は吹き抜けになっていて下の階のホールへ飛び降りる事もできるが、もちろん自重する。涼火は朱の一歩先を歩き、何となく子供部屋へ赴いてみた。

 この家で暮らしていた時、最後まで自分の城としていた空間。十年前の自分の幻覚が鮮明に見えてきそうだ。ただ、涼火のあとにこの部屋を使った他人の痕跡も感じる。ベッドに使われているシーツが涼火の好みと違う色だし、枕の位置は涼火が足を向けていた側に置かれている。涼火は片付いてすっきりしている学習机に近寄り、その表面を撫でた。

 その時足に何か当たった。

「……?」

 伸ばした足を引っ込め、涼火は机の下に目をやる。机の下に何かあるのだろうか。

「どした?」

「いやなんか今……」

 涼火は屈み、机の左半分を占めるサイドワゴンの底へ下に手を伸ばしてみた。何か硬い物に触れた。なんだ? この形は。涼火は慎重にそれをつまみ、見えるように引っ張った。

 肌色が見えた瞬間、上の階から軽い衝突音が聞こえた。

「! ……聞いたか?」

「私が難聴系主人公じゃないなら聞こえないはずないよね」

 涼火は天井を見上げる。この厚い壁の向こうで、明らかに何かが動いた。自然に物が崩れただけの音である可能性もあ……いや、そんな事を考えている間にも次々と物音が発生する。

「マジかよ」

 どういう種類の笑みかは不明だが、ともかく朱は口元に笑みらしき歪みを持たせている。気持ちはわかる。まさか本当に誰かしらがいるとは。

 涼火は今さっきちらと見た足の指については一端忘れようと考えた。見えた瞬間は正直心臓がピクリとしたが、どうせただの模型か何かだろう。明らかに本物の指の触感ではなかった。それと、朱は不意に不気味な物を目撃しても悲鳴をあげるタイプではない……が、念の為あの指は再び机の下に押し戻した。今大きい声を出すのはまずい。

「誰かいるっぽいね。どうする?」

「とりあえず小声でしゃべろうぜ……あとスマホのビデオカメラをオンにしとくか」

「強かさだなおい」

 突っ込んでいると、またしても物音。今度は階段を降りてくる足音と、何か重い金属製らしき物をギャリギャリ引きずる音だ。子供部屋に緊張感が走る。隠れなければならない。

 部屋の扉を閉めに行こうとした朱のブレザーをひっ掴み、涼火は急いでスマホのメモ画面に指を走らせた。

『閉めるな』

 その画面を見せたあと、続けてまた文字を打つ。

『その扉は開いてたからそのままにしとこう。閉めたら誰かがここにいるってバレるでしょ』

 朱は頷き、部屋の奥へと移動した。涼火もどこか身を隠せる場所を探す。カーテンは扉の外から見える角度にしかないし、白くて透けるから駄目だ。クローゼットは小さいし呼吸ができない。涼火は机の下に潜り込んだ。

 すぐ右に密着しているサイドワゴンがその下に隠している物へ意識が向く。一体どうすれば実寸サイズの足の模型なんて物体が、かつて私が使ってた学習机の下に仕込まれるとかいう事態になるんだ?

 足音と耳障りなギャリギャリ音は次第に大きく、近くなってくる。朱は隠れる場所を見つけられず、部屋の隅に貼り付けていた。外にいる誰かがこの部屋に入ってさえ来なければ見つからない箇所だが、入って来られたら一瞬で見られる。

「どうするかー。もうちょい多くした方がいいのかねえ」

 足音の主らしき声が聞こえた。男の若い声だ。十代か二十代辺りだろうか。

「あんま無駄使いしたくはないよな。数はいくらでも余裕あるけどな」

 男は独り言と取れなくもない物言いをしている。足音は一人分だが、電話で誰かと会話している可能性もある。多くした方がいいとか、無駄使いはしたくないとか、何の事だろうか。私の家で何してんだ。

「つーか雨降ってんのかよ……折りたたみ持ってきてねえよ。もちろん折りたたみじゃない方の傘も」

 どうでもいいところで男とダブってしまった。

 足音と引きずり音は遠のいていく。

 数分振りの静寂が舞い戻った時、涼火はそっと机から首を出した。続いて体。念の為まだ物音は立てないようにしながら立ち上がる。

 上の階で何か行われていたのだろうか。涼火は朱の方へ顔を向ける。彼女は恐らく涼火が今しているであろう表情と同じそれをしていた。そしてスマホを操作し、それを見せる。

『上行ってみるか?』

 今度は涼火が頷く番だった。

 二人はしゃべらず、なるべく無音を意識して階段の踊り場へ戻り、三階へ向かう。

 父と母の最後を見たその階にあるのは洋室だけだ。そのうち一つは物置。あとは両親の各小部屋。さっきここを出て行った男はどの部屋で何をしていたのかわからないが、一部屋ずつ調べていくしかない。涼火は朱の手を取り、階段から進んですぐそこの部屋へ行こうとした。

 すると呻き声が響いた。

 突然だったので涼火の胸に熱が走った。幽かな声だが、この階から聞こえる。まさかまだ人がいるとは。さっきの男に放置されたのか? なぜあんな哀れっぽい声をあげている?

 涼火は朱を引っ張り、多少足音がするのも構わず廊下を突き進んだ。角を曲がると窓から差すぼんやりとした光に晒される。下の階よりも太陽に近いせいか、光の白みが強い気がする。廊下に配置されている木製のタンスを一つ二つ三つ通り過ぎ、その奥の部屋に近づくと、呻き声も近づいた。

 閉められた扉を堂々と開け放つ。

 そこには声の主がいた。

 今にも死にそうな顔色をした中年の男が、ワインレッドのカーペットの上で悶えている。カーペットには、吐瀉物と思われる汚物が広がっている。カーテンが全て閉められ、電気もついておらず、陰鬱な陰影が部屋中を不気味に彩っている。

 男は涼火達に気付くと、助けを乞うように手を伸ばした。涼火は視界の端にも何かを捉えた。部屋を見回すと、ぴくりとも動かない人間が一人倒れていた。まさか死体なのか?

 今苦しげな声をあげているこの男もそれになるのだろうか。

「……あんたは……誰? 何があったの?」

 色々な思考や感情が交差する意識の脇に佇む冷静な部分を用いて、涼火は男のそばに屈み込み、静かに問いかける。男は返事の代わりに断末魔の声を寄越す。

 涼火は死んだ人間なら見た事がある。しかしまさに死ぬその瞬間を見るのは、これが初めてだった。男は瞼を半分閉じ、全ての筋肉を弛緩させ、その体を完全に重力に委ね、一切動かなくなった。

「さっきのギャリギャリ男がやったのか?」

 涼火の斜め後ろに立っている朱が、茫然とした低い声で呟いた。

「ギャリギャリて。まあ十中八九そうだろうね」

 涼火はもう一つの方の死体へ再び目を向ける。肌の色は自分達と変わらない。死んでからほとんど時間は経っていないようだ。

「私の家で勝手に殺人を起こしやがって」

 涼火はそれほど正義感が強い方ではないので、殺人自体への義憤はとりあえずまだ出番ではない。殺人という事態への衝撃の出番はもう来ているはずだが、あまり非現実的なものを目の当たりにすると少し冷静になる。

 涼火は立ち上がり、朱と肩を並べた。いや、朱の肩の方が遥かに高い位置にあるのだが。

「あんたマジででかいよね。身長いくつよ」

「なんだ急に。175だけど」

「すげえ。私は162だよ。これでもそんなチビじゃないはずなのに10センチ以上も差あんのかよ」

 突然明後日な方向の話をしたくなったのは、何かの防衛本能かもしれない。何しろ、まさかこの場で見知らぬ人物による殺人が行われているなんて、あまりの事態だ。血管の中で血が燃えるように走り、色んな種類の興奮が引き起こされる。

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