#2

「そういえば不法侵入なんだよねこれ。自分の家だった場所なのに。すげー不思議な感覚」

 呟きながらも涼火は、不法侵入という軽犯罪を犯す脚を止めはしない。

 庭は記憶と異なる姿でかつての主人を出迎えた。門のすぐ横に植えてある大きなオリーブは荒れており、葉の色も枝の長さも滅茶苦茶だ。錆びた門の影が伸びる石畳の先には、扉の開きかけた玄関が待っている。玄関の両脇を彩っていたワイヤープランツは鉢ごと消え失せ、よく見ると細かい葉がいくつか地面に散っている。

 家は特に荒れているというわけではない。それでもどことなくよそよそしい雰囲気を発しているように感じるのは、不吉な前情報と悪天候のせいだろう。意識してそういった先入見を排して見てみると、家はむしろ、涼火へ向かっておかえりを言っているようにさえ思える。

「扉ちゃんと閉めろよ……勝手に入る奴」

 勝手にこの家に出入りする不届き者がいるというのは噂に過ぎないが、いるという前提で涼火は悪態をついておく。そして半開きの扉に手をかけた。

「まぁどうせ今から入るんだけどな」

 後ろから朱が苦笑しているらしき声音で言う。

 半開きの扉を引くとキュウゥゥ…… ン……と軽く軋む音が響いた。涼火達はその内側に入り、扉をしっかりと閉めた。

 肩を打つ鬱陶しい雨の感覚がぴたりと止む。雨音は厚い壁の向こうの遠い響きとなり、静寂が鼓膜を圧迫する。朱が折りたたみ傘を閉じ、水を切って鞄に仕舞った。制服から雫が零れ、ぴちょんと軽い音がした。生まれつきうねっている天然パーマのボブヘアが、水分により更なる曲線を描いている。

「ちょうど学校の近くにお前の屋敷があってよかったな」

 言いながら朱はタオルを渡してきた。涼火はそれを受け取り、髪と肩を拭く。

「私のじゃないけどね。いやいずれまた私の物になるんだけどね」

「これを? 夢でけえんだな」

 わかってる。もはや富豪でない涼火が再びこの物件を永続的に所有したいとなれば、再び富豪になる必要がある。簡単な事ではないが、まあ問題ない。

 欲しい物があればどういう手段を使っても手に入れる。したい事をして、したくない事をしない。自分の欲にはひたすら忠実に。そういった感じの活力を持っている涼火は、この屋敷を取り戻したいというのを別としてもどうせ将来は金持ちになるつもりしかない。

 それまでに買い手は現れてしまうだろうが、幸いなのか何なのか、実際に訪れた買い手二組はこの屋敷を訪れるなり早々と引き払っていったという。屋敷が涼火の手へ戻る前に他者の手へ渡ってしまうという事態を防いでくれる何か、それが何なのかは調べてみておきたい。

 現実的かどうかはともかく、真っ先に思い浮かぶのは、心霊的な現象か。

「朱」

「なんだ」

「あんた幽霊とかお化け的なそういうの怖がるタイプなわけないよね」

「回るのか」

「話が早くて結構」

 涼火は懐かしい心の故郷を探索し始めた。十年ぶりの我が家。何とも言えない郷愁が胸を襲う。埃の載ったタンスを見ただけで喉の奥がツンとする。

 埃が積もっているという事は、最後にこの家に住んだ者が去ってからそれなりに時間が経っているという事だ。

 もともとは雨宿りの名目でこの場に来たわけだが、今や涼火の関心はこの家の探索だけに向けられていた。雨が今すぐ止もうがあと一ヶ月降り続けようがどっちでもいい。

 玄関ホールからすぐ左へ向かい、居間に到着した。ダークブラウンのテーブル、黒いソファ、テレビ、本棚、絵画。ここで両親とバニラクリームのゴーフレットを食べながら映画を観ていた時の記憶が、海馬からシャベルでバリボリ掘り起こされる。そんなしんみりとした情緒が泡のように弾けたのは、テーブルに置かれたお菓子に着目してみた時だ。

 テーブルはそこそこ埃を被っているが、そこに乗っているビスケットのパッケージには埃が全くついていない。涼火はそれを手に取ってみた。製造日は2019年の4月となっている。朱の怪訝そうな顔が、涼火のこれも怪訝そうな顔のすぐ横にひょこっと現れた。

「クッキーがどうした? 食いたいのか?」

「クッキーじゃなくてビスケットだけど、その気になれば食えるよ。ほら、賞味期限」

 朱にそれを見せた。すると彼女の切れ長の目はさらに細められる。

「製造日つい最近じゃねえか……ここの正式な住人が遺した物じゃねえのは確実だな。ここに出入りしてる奴が置いといてんのか? あとクッキーとビスケットの違いわかんねー」

「誰かがここでくつろいでやがる」

 涼火はビスケットを曲線を描かせながら床に放り捨て、探索を続行した。

「しかしほんとに広いなおい」

 涼火がダイニングのテーブルから床にかけて広がる蜘蛛の巣を足で引き千切っていると、朱が呆れたような羨むような声を出した。

「あたしん家は人権に敏感な人らが見たら気絶しそうなほどアホ狭い家だから羨ましい」

「そうなの? そういえば朱ん家に遊びに行った事なかったね」

「それでいいしこれからも来なくていいよ。てか来ないでくれ、ガチで恥ずかしいから」

 家の大きさは財力と比例するわけでもない。恥じる事などない。そう言おうとしたが、こんな家に住んでいた者に言われても白けるかなと涼火は思い止まった。いや、今は叔母のそれほど広くもないアパートの一室に住んでいるのだが。

「狭い方がいい、家族と一緒にいられて絆が云々とかドラマでよく言うけどよ、ペテンもいいとこだ」

 ダイニングルームを出ながら朱は自分の家を呪い続けた。

「実際にはクソ耳障りな咳やら鼻すする音やらが五秒毎に聞こえて、かと言って避難する自室もなく、気が狂いそうになって自分の皮膚を噛んで正気を維持しようとするしかねえんだよ。卒業したらぜってえ一人暮らししてやる」

「生々しいわ」

 こういった話は新鮮だった。涼火は両親と上手くいっていたが、もし狭い家で育っていたら違ったのかもしれない。成金趣味でもなんでもいい、やたら巨大な家を建ててくれてありがとうお母さん、お父さん。あんた達の事を嫌いにならずに済んだ。

「そんで家族みんなで一部屋に集結してる空気に耐えられないのか、わざと咳払いしたりするしな。わざととかマジでざっけんな、ただでさえ出来るだけ静かさに気い遣うべきなのに。って何度言ってもやめねえしクソが。クソが」

「その話まだ続くんかい」

 朱の桜色のぷるぷるした唇はひっくり返されたバケツのように、溜まっていたものをとめどなく吐き出す。

「クソが。一人暮らししたらもう二度と帰んねー。正月とか盆休みにもだ」

「いやもういいって」

 涼火は宥めるように親友の肩に手を置いた。

 水滴とくもりによって外界を拒む窓はしかし、影だらけの屋内では貴重な光源となり、暗い光をぼんやりと運んでくる。それは朱の暗鬱な表情を照らし、彼女こそがこの屋敷に棲まう亡霊かとさえ思わせる。

 いや思わんから。

 そろそろ本物の亡霊出てこいよ。亡霊がいるのかどうか知らないけど。この屋敷に関する噂を聞く限り、何かしら忌まわしいものが存在しているかもしれないのだ。霊の類に限らず、ホームレスや殺人鬼といった生きている人間も、その候補に入る。

 どれであるにしろ、遭遇してしまったら困る事になる。なるのだが、ワクワクもするし憤りもする上、恐怖心は人並みよりも鈍いので、放っておくという選択肢は最初からこの世に存在しない。勝手にこの屋敷を我が物顔で歩く者を放置しておくつもりはない。

 一階を隈なく周り、最終的に風呂場に到着する。

「……なんかここだけ……雰囲気が露骨にさぁ」

「わかってる。統一感ないよね」

 朱が何とも言えない顔で風呂場の左端から右端へと視線を平泳ぎさせる。洋館気取りの趣向に対し、この空間は妙に浮いている。そんなダサさも懐かしい。

 涼火はシャンプーを手に取ってみた。重みからすると中身はまだある。まだ残っているのにもう使われる事のなくなった中身。無性に切なくなってくる。

 さあ、感傷にばかり浸っていないでそろそろ二階へ行こう。

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