第2話 彼の音色
アスペルガー症候群。それは脳の機能が定型発達に当てはまらず、社会生活を送るにあたって様々な苦悩を感じることの多いものである。
アスペルガー症候群の最も有名な難点として挙げられるのは、空気が読めないことと暗黙の了解がわからないこと。
しかし、当事者としては空気を精一杯読んでいるし、暗黙の了解についても「わからなければ」という気持ちも十分に持ってい。わかろうと最大限の努力を常日頃からしている。しかし、それが伴わなず、空回ってしまう時もあれば、空気そのものを読むことが難しい場面も日常的にある。
そして、生活の流れを第三者に唐突に壊されることを、とにかく嫌う。これはわがままではない。生活の流れが変わってしまうと、頭の中がショートしてしまうのだ。場合によっては、精神面だけでなく体調も大きく壊してしまいかねない。
この後の予定はどうしよう。やりたいこともやらなければならないことも、一気に入り混じってしまって事の優先順位が咄嗟に浮かばない。これではいけないと焦れば焦るほどの優先順位が混同し、何が正解なのかが全くわからなくなる。
しかし、外見にそれが出るわけではない。ただぼんやりしているだけに見えたり、目を泳がせて何か言い訳を考えているようにすら捉えられてしまうことも多々ある。だから、回答を急かされて、待ってほしいという言葉さえ選択できないままに無理やり答えをひねり出して、それは違うと否定される。
達成感よりも劣等感の多い人生を歩むことになってしまうのは、社会全体の理解が薄い現時点では仕方がないのかもしれない。
あかりの読んでいた発達障がいについて書かれていたものには、その上っ面ばかりがたくさん並んでいた。
協調性に欠け、空気が読めず、自分のルールを厳守する傾向がある。これではただのわがままだと思われても仕方がないような説明と、でもそれは脳の伝達にミスがあるからだという見下しにも取れるような文言。
本に書かれていることが当事者のすべてに当てはまるものではないし、本に書かれていないこともたくさんあるという事実を、あかりは知らずに購入した本に目を通し終えてベッドに入った。
―なんだかよくわからないけど、要するに自分の世界を大切にしていて、ちょっと空気が読めないって感じなのかな。話せばわかってくれると思うけど
同じ人間同士、話せばわかってもらえる。人類みな兄弟!
相手の青年の発達障がいのことよりも、ピアニスト候補の発見の方が、あかりにとっては比重が大きかった。ずっと探し続けていた人材に巡り合える可能性を見出したのだから、それは無理もないことなのかもしれない。
翌日は朝から研修に出向き、帰宅時間は夜も遅い時間帯に入りかかっていた。田舎の学校に勤務していると、出先に向かうだけでもかなり時間がかかる。普段しないしっかりとした化粧をしてきっちりとスーツを着用したフル装備の状態で移動、そして研修先は慣れない街。大神に電話をする体力は残っていないが、そうもいっていられない。帰宅早々さっさと自室入ってベッドの上に脱いだジャケットをポンと投げて、カバンの中から昨日貰ったメモを取り出した。
週末には、また楽団の練習がある。夜21時を回っていたが、あかりは大神に電話をかけた。
二回ほど呼び鈴が鳴って、電話がつながる。
「もしもーし」
電話の向こうの男の声は、低くて太い。
「夜分遅くにすみません。戸高あかりというものですが、大神竜一郎さんでしょうか?」
あかりの心臓が、ヒュンと縮む。声から感じる相手の感情は、不機嫌そのものだったのだ。
「おー!はいはい!南さんが言ってた音楽の先生?市民オケの指揮者って言ったっけ」
大神の声が、大きく明るいものに一変した。
「はい!夜分遅くに申し訳ないです」
相手の声色の変化に、あかりは安堵する。
「んで、そのピアニストってのは条件はある?どこの音大を出てないとダメとか」
「特にありません」
いや、まったくないといえばウソなのだ。本当ならば音大を出て、コンクールの成績なんかもあって、見てすぐにわかる実力のようなものがあるに越したことはない。しかし、そんなことを言っていたら、この話はすぐに破談になってしまうだろう。と、なんとなく肌で感じる。
「そりゃよかった。紹介してほしいって言われたヤツは、中学校も途中で行かなくなってしまったから」
大神の言葉を聞いて、紹介してもらえる青年の最終学歴が中学校卒ということが証明されてしまった。
「それで先生、明日金曜でしょ?もし都合が合えばでいいんだけどさ、朝うちの店に来てもらっていい?電話より直接話したいんだけど」
大神からの提案を飲まない手はない。
「はい!明日は学校に出勤なので、早い時間にお伺いすることになってしまいますが、大丈夫でしょうか?」
早起きなんかいくらでもするし、ある程度の条件ならば飲むとあかりは決めていた。
「出勤前なら…、8時までの店に来てもらえればいいか。店は6時には開けてるから、都合のいい時間に店に来て声かけてくれ。店の場所はわかる?」
「はい!商店街の中の牛乳屋さんですよね」
「そうそう!じゃあ明日待ってまーす」
「はい、よろしくお願いいたします」
「はーい」
失礼いたします、というあかりの最後の言葉を聞かずに、大神の電話はプツンと音を立てて切れてしまった。
勢いのある人だったな。と、あかりは少し息をついた。明日もしかすると、ピアノを弾く青年に会えるかもしれない。そう思うと心が軽くなるし、どこかホッとした気持ちにさえなった。
―ピアノの子と会ったら何から話そうかな…
話したいことや聞きたいことが一気にあかりの頭に浮かんできて、がぜん明日が楽しみになってきた。
「よし!」
小さくガッツポーズをして、来たるべき明日に向けて、頭の中を整理しつつ脱ぎっぱなしになっていたジャケットを手に取ってクローゼットを開けたのだった。
翌日、早朝6時半。いつもよりも少し早く家を出て、駅前のパーキングに車を停めた。駐車が完了してすぐに大神に電話を入れて、訪問OKをもらった。あかりの気持ちは踊っていたし、表情だって緩みっぱなしなわけで。誰がどう見ても、彼女が上機嫌なのが見て取れる。
商店街を歩いて数分後、大神牛乳店の立て看板が姿を現した。お店は以前足を運んだ喫茶店に負けない、年季を感じる木造家屋である。スライドドアの向こうは真っ暗で、本当に入っていいのか戸惑っていると、あかりの背後から女性の声がした。
「中学校の先生?」
声につられて振り向くと、中年の小柄な女性があかりのすぐ後ろに立っていた。
「は、はい!」
声をかけてきた女性があかりの想像以上に近距離にいて、若干驚いたが元気な声でごまかす。
「じゃあお父さんに用事ね。入って入って」
彼女は、なかなか開きにくそうなスライドドアを女性はこじ開けて、室内の電気をつけて大きな木造の作業台の下にあった丸椅子を引っ張り出してあかりに勧めた。
「ありがとうございます」
丸椅子もそうだが、作業台も傷だらけで、店内も外装に負けないくらい歴史の香りを肌で感じる。店内はクーラーが入っているのか、なんとなくひんやりとしていた。
大神が現れるまでの時間、あかりは椅子に座ったまま遠慮する心を持ちつつも店内を見回す。牛乳店と言うだけあって、大きな業務用の冷蔵庫があり、時折ゴーっと唸り声をあげる。おそらく冷蔵庫も年代物なのだろう。冷蔵庫の隣に積まれた、学校でよく見る牛乳が入ったコンテナも山積みになっていて、つい周囲をキョキョロしていると。
「お待たせしました」
店の奥にある暖簾の向こうから、大神竜一郎が姿を現した。想像に反することのない、大柄で筋肉質な中年の男性だった。大神の声を聞いて、あかりはパッと立ち上がる。
「戸高先生、だっけ」
「はい!」
「実は今日、牛乳の集金で昼前に学校まで行くんだ。その時なら、あいつのピアノを聴かせることができるんだが」
話の流れとして、その時に紹介してもらえると。あかりは根拠もないのに確信していた。
「和也には近寄るな。今の和也は、俺以外の人間の気配を感じた瞬間に、ピアノを弾かなくなる。無理に接触したら、絶対に和也はオーケストラとは演奏しない選択をする」
大神からのそれに、あかりの思考回路がぴたりと停止した。クーラーの風が、冷たく感じる。掛け時計の秒針の音だけが、数秒間だけ室内に音を立てていた。
「でも、」
「あんたに時間がないのは聞いてる。でも、それはあんたらの事情だ。和也には関係ない。あんたらと同じように、和也にも事情があるんだよ。絶対に無理な接触はせず、適度な距離を保つ約束を今ここで約束してもらう」
大神のまっすぐな視線の向こうには、鋭い何かがぎらぎらと輝いている。あかりが僅かに決行しようとしていた特攻を見抜き、それを抑え込む眼力にあかりは息をのんだ。
「はい、お約束します」
従わなければ、この話は流れてしまう。大神がそうするつもりでいるのが、ビリビリとあかりの全身に伝わる。
「…なら和也のピアノを聴く方法を教えよう」
大神はあかりのひるんだ表情を見て、釘を刺しておいて正解だったと内心思いつつ、あかりにピアノの立ち聞き方法を伝授したのだった。
大神の指示は、簡単なようで難しいものだった。それは「絶対に気配を悟られない」という一点のみ。青年は他人の気配を感じた瞬間、演奏を終了して逃げていくのだそうだ。
今日は職員室には誰もいないと、大神があらかじめ青年に話しておくらしい。職員室に南教頭だけだとわかると、青年もピアノを弾きに行きやすいとのことだった。
青年が弾くピアノは、体育館にある老齢のグランドピアノ。ピアノは年数を重ねてもしっかりとメンテナンスをしていれば音の鳴る楽器だ。体育館のピアノも音はしっかりと鳴る。しかし、調律を行う寸前の一番音が狂っている状態だから、音程そのものが少しずれてしまっている状態だ。
あかりの場合、どんな曲を弾くとかではなくて、しっかりとピアノを弾けるのかという点が気になって仕方がない。素人の言う「上手」と、あかりたちが求めている「上手」では、レベルが全く違っている。
大神と約束をして店を出て、あかりは急いで学校へ向かった。今日はほかの職員は休みとなっていて、あかりは学校で二学期の資料作りを予定していた。職員室に入ると、やはり南教頭は仕事をしていたし、彼は今日も変わらずにこやかだった。
大神との約束の話をすると、「やっぱりそうだね」と南教頭はうなずき、あかりに全面的に協力すると言ってくれた。
「ありがとうございます」
彼には頭が上がらない。学生の頃からお世話になりっぱなしだ。
「いいえいいえ。彼らが来る時間はちょうどお昼時だし、早めのお昼休みということで。和也君はいろんなものを見てるからね。車はどうしようもないけど、靴と荷物は隠しちゃった方が無難だから、机の下とかに入れとくといいよ」
アドバイスしている南教頭の笑顔は、やはりあかりの目にはどことなく寂し気に映る。
「戸高さん」
「はい」
名前を呼ばれ、自分の席についてすぐにあかりは南教頭に視線を向ける。
「和也君はね。ピアノがとっても上手だよ。あんなに上手にピアノを弾く人は、僕は彼と彼のおじいさんしか知らない。和也君はその辺の音大生や技術不足のピアニストなんかよりも、高い技術を持っている。おそらくコンチェルトの曲も、曲によっては既にきれいに弾きこなすことができるのかもしれない」
南教頭の職員歴は長い。送り出した学生の中には音大に進学した人もいると、昔言っていた。趣味もクラシック音楽の鑑賞で、持っているCDは演奏者にこだわっていることを、あかりは知っている。
南教頭が絶賛する青年の演奏は、そんなに技術が高いのかと興味が湧いて仕方がない。
「技術だけじゃなくてね、和也君のピアノは不思議な音色なんだ。全く型にはまっていない、どうしてこのピアノでこんな音色が出るのか不思議に思ってしまうような、キレイで中毒性の高い音を出すんだよ」
南教頭の言葉に続ける言葉は、あかりの口から出なかった。ミンミンシャーシャーとせわしなく叫ぶセミの声が、二人だけの広い広い職員室に響き渡る。クーラーがまだ完全に利いていないからまだ蒸し暑いはずなのに、あかりのこめかみから落ちた汗は少し冷たかった。
昼が近づいてきて、あかりは少し早めに身を隠すことにした。机の下に靴とカバンを押し込んで、夏の暑い熱気がこもる廊下に出る。むっとした濃密な熱のこもった空気は、吸っても吐いても熱くて、あまり呼吸をしている感じがしない。その上掃除をしているとはいえ職員トイレにこもるのは、あかりが想像しているような生易しいものではなかった。
ただのかくれんぼではないのだ。気配を絶って、青年から気づかれないようにしなければならない。トイレの窓は開いていて、できるだけ窓近くにある個室に入った。いくらきれいに掃除していても、トイレはトイレ。学校のトイレ特有の、何とも不快な臭いはどうしても漂ってくるわけで。
―暑いし臭いし、できるだけ早く来てくれないかな…
演奏を聴くこととは別の意味で、大神たちの到着が待ち遠しい。
彼らが到着したのは、あかりがトイレにこもって数分後。早めにトイレに引き上げておいて正解だった。砂利の駐車場に車が一台停まり、ダン!ダン!と二つドアを閉める音が聞こえた。朝聞いたばかりの、大神の少し大きな声だけが聞こえてくる。
何も知らなければ、彼が大きな声で独り言を言っているようにさえ聞こえる。待っても待っても、青年の声は全く聞こえてこなかった。
大神の声が一旦途絶え、少しして声が聞こえてきなのは、職員室前の廊下で話す声だった。彼らとの距離が縮んだことを肌で感じると、あかりの緊張も急に高まる。
しかし、足音の様子が、少しおかしい。一人はスリッパをはいている音だが、もう片方の足音がよく聞こえない。大神の大きな声で聞こえにくくなっている足音を聞くため、耳に神経を集中させる。あかりは耳が良い。聞き分ける力もある。目を閉じて耳に神経を集中させると、わずかにペタペタという音がしている。
―待って。もしかして裸足!?
耳を疑ったが、聞けば聞くほど明らかに裸足で歩く音なわけで。小さな子どもなら未だしも、ある程度大人に近づいているのにスリッパを履いていないということに、あかりは若干驚いてしまった。
職員室のドアが開く音がして、南教頭と大神の話し声がし始めて。比較的すぐ、また職員室のドアが開いた音がした。今度は先ほどよりもよく聞こえる裸足特有の足音が、職員トイレの方に近づいてきてそのまま通り過ぎていった。
この学校の体育館は、職員室の向こうにある外廊下の先にある。外廊下を歩いた先に体育館があり、大神と南教頭が話をしている時は、許される時だけ彼は体育館のグランドピアノを弾いて大神を待っているらしい。
大神が提示した彼のピアノを聴く方法は、彼がピアノを弾き始めてしばらくして、体育館と校舎の中間地点くらいの位置で十分な距離を保ってピアノを立ち聴きするというものだった。
そんなに厳重じゃないといけないのかと、正直疑ってしまったが、疑ってみたところで何かが変わるわけでもない。まして約束を破ってしまうと、この話はなかったことになってしまう可能性だってあるのだ。約束は守るに越したことはない。
彼のものと思われる足音は体育館の方向に消え、少しして体育館の鍵が開いた。それからすぐに、体育館の鉄の扉が重い音を鳴らしながら開いて、体育館の足元にある小窓も開く音がする。生徒がいる時には響かない些細な音さえも、人のいない校舎に響いてくる。
トイレの個室から出てきたあかりの心臓は、高鳴っていた。今か今かとピアノの音を待ちつつ、校舎を出て外廊下に出た。体育館の古いピアノは、調律前でほわほわと妙な響きさえも感じるようなコンディション。しっかり聴かなければ、本当に高い技術があるのか聞き分けられないからと、自然と肩に力が入る。
木々がもくもくと生い茂り、セミばかりが叫ぶ、山の中の小さな中学校の古い体育館。そこから流れてきた、ピアノの音色は、今まで聞いたことのない音だった。
ラヴェル作曲
水の戯れ
深い山奥の上流を静かにせせらぐ、光り輝く小さな小川。周囲の森そのものを美しく照らし、静かながらも強い生命力を感じる音色。
水の戯れは、リズムの変化を嫌う。均一の速度で演奏することが重要となる曲であるために、音の多さに踊らされてしまったり、曲そのものを無意識のうちに急いで演奏してしまう可能性のある難曲。かなり高度な技術を持っていなければ、音を拾うことも難しい。
その曲を、今体育館に入って行った裸足の青年は、どんな顔をして弾いているのだろうか。
本来噴水をイメージして作られた曲なのに、誰も立ち入ることを許さない神聖な森林と小川がイメージとして張り付く。
人の侵入を許さない、深い森に命を与える小さな川。時折木々の間を通り抜ける、強い風。揺れる木々の葉から、パラパラとこぼれる無数のしずくが、風でなびいた川面に小さな穴をあけて落ちていく。
『どうしてこのピアノでこんな音色が出るのか不思議に思ってしまうような、キレイで中毒性の高い音を出すんだよ』
南教頭の言っていたことが、あかりの中で紐溶けていく。彼の奏でる音色は、あまりにも美しい。美しすぎて、触れることを許されないような気持になる。
音楽大学に在籍していた時、色々な人の演奏を聴いた。ピアニストの演奏だって、数えきれないくらい聞いて勉強した。
彼の音色は、勉強した音色とは全く異質なのだ。光り輝く高音も、身体を通り抜けてゆく心地の良い低音も。
呼吸を忘れ、息をのむ。無意識に開いていた口の中からは、水分が飛んでいた。
うるさいはずのセミの声も、熱いはずの気温も、ピアノの音色に流されていて。演奏が終わって、ゆっくりと我に返り始めた時、一気に全身の毛穴から汗が噴き出した。
「これが
いつの間にか歩いてきていた大神が、あかりの隣を通り過ぎる時に低い声でそう言って、二ッと笑った。
大神は体育館のドアまで行きつくと、中にいる和也に声をかけた。
「帰るぞー!」
やはり応答はなかったが、開いていた窓が体育館の内側から次々と閉められていって。体育館から姿を現したのは、細身で肌の白い長身の少年だった。彼はあかりを見るなり、ビクリと肩を震わせて目を泳がせ、さっさと体育館のドアと鍵を閉めて大神の後ろに隠れてしまった。
何か声をかけたいと思っていたのに、あかりの喉は働かず、ただ茫然と彼を見ることしかできない。
大神に連れられて、和也は逃げるように校舎へと戻って行った。
あかりはしばらく動くことができず、立ち尽くして地面と自分の足の先を眺めていた。先ほどのピアノで停止していた脳が、徐々に働き始める。体育館のピアノは、調律前の最悪のコンディションだった。調律していたとしても、音が割れやすくて扱いやすいものとは言い難い。
あのピアノがあれほど澄んだ音を出しているのを聞いたのは、あかりがこの中学校に赴任して以来初めてである。この学校はあかりの卒業した中学校で、在籍していた時からあるピアノだが、中学生だった当時からあのピアノは扱いにくかったものだ。
―あの子は一体なにをしたんだろう…
同じピアノとは思えない音色。和也が奏でるとあんな素晴らしい音を出すものなのかと、不思議で仕方がない。
「彼は、本当に中学校卒業が最終学歴なんでしょうか…」
昼休みも終わりが見えてきた時間。職員室の自席でお弁当を食べ終えて、あかりはぼんやりとしながら南教頭に投げかけた。
「和也君?」
「はい」
「あの子は多分、先生に習うってことが難しいからね。それは本人もわかってるから、進学は最初から視野に入れてなかったみたいだよ。ピアノでお金をもらうつもりはないって言ってたし」
どうやら南教頭と彼は、いつだかわからないが会話をしていたようだ。
「何歳なんですか?あの子」
中学校卒業というのであれば、15歳よりも上になる。彼を見た瞬間、あかりは彼が中学生に見えた。
「18歳かな。今年19歳になるはず」
南教頭の言葉がなかなか理解できず、あかりは眉間にしわを寄せたまま一瞬フリーズしてしまった。
「…え?」
19歳と言えば、もう成人が目前ではないか。中学生にしか見えない顔立ちと雰囲気だったため、つい南教頭に問い返してしまった。
「幼く見えるよね。18歳だよ。背が高いから背姿は大人なんだけどね。かわいい顔してるから、とても年相応に見えないけど」
彼は優しく微笑んでいた。
「彼は今日、一度も言葉を発しませんでした。声をかけたかったけれど、怯えた目で見られてしまって…」
声をかけていい雰囲気ではなかった。彼の怯えた目。おそらく目が合った瞬間、彼は息をしていなかった。大神の後ろに隠れてしまって、声をかけられないように、自分の視界にあかりが入らないようにと必死だった。そんな状態の人に声をかけるほど、あかりは鈍感ではない。
しかし、のんびりしている場合でもないのは、やはり事実なわけで。どうすれば和也と話ができるのか、ずっと考えていた。
「私、思うんです。彼の音色がこのまま誰にも聞いてもらえないままだったら、すごくもったいないって。彼はそう思ってないかもしれないけれど、でも演奏を聴いて、私は彼の音色には不思議な力があるんじゃないかなって感じました」
和也のピアノを聴くにあたり、あかりは彼の技術のみに重点を置いていた。技術が十分ならば声をかけようと、無意識に上から彼を見下していた部分があるのかもしれない。
彼の演奏は、そんなものを無に返し、人の心に染み入ってくる言葉にできない輝く何かがあると、あかりは感じたのだ。
「そうだね。どうしても彼と話がしたいのなら、大神さんに相談してみるといいよ。大神さんなら和也君と話す術を持っているかもしれないからね」
あかりの目の色が、和也の演奏を聴く前と全く違った輝き方をしているのを、南教頭は見逃さなかった。
―この子なら、もしかすると和也君を少し日の当たる場所に連れて行くことができるのかもしれない
あかりのまっすぐで輝くまなざしに、南はほんの少しの希望を感じたのだった。
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