訳ありピアノ演奏者

みほし ゆうせい

第1話 絶望と希望


 小さな町の、小さな市民オーケストラ。どこにでもあるそれには、それなりの人数が参加していて戸高とだかあかりもその一員である。


 この楽団が全国的に見ても小さな楽団であるのは、メンバーもよく分かっている。この町を取り囲んでいる雰囲気は、年代で例えるならば、まさに「昭和」がお似合いだ。

 広がる田畑、遮るもののない空、夏に向けてどんどん元気になる山々、季節毎に虫が湧いて、時期になれば小さな生き物が入れ替わる。年齢層も言わずもがなお高めで、散歩をすれば老人ばかりに会釈をし、時に見ず知らずの老人からそこそこの量の野菜なんかももらってしまうような田舎。

 

 そんな田畑に囲まれた、街の小さな市民オーケストラの新米指揮者が、あかりである。昨年、毎年開催している秋の定期演奏会を最後に、先代の先輩指揮者が引退した。理由が老齢なだけに、誰も彼を止めることはできなかった。彼の弟子だったあかりが楽団指揮者となったのは、当たり前のような流れだった。


 この楽団で大きな権力を持っているポジションが指揮者。楽団そのものの平均年齢は高くなく、年齢層の中心が三十代と若さのあるメンバーが人数の半数以上を占めている。

 あかりは平均年齢よりも掠る程度に若い年齢だ。あかりよりも若い人間もいるが、それほど多い人数ではない。


 年齢が近いからこそ、人数がそこそこそろっているからこそ。どうしても小さないざこざや水面下での権力争いのようなものも継続的に発生している。この楽団の特徴は楽団員の年齢が比較的若いだけでなく、人数の七割程度が女性。

 だからこその地獄のような一面も持ち合わせている。まだまだ経験不足であるあかりの指揮者昇格が気に入らない。しかし、しきたりには歯向かえないからと、いじめ未満の嫌がらせをする人たちも残念ながら居る。


 それに負けないようにと、あかりは先代が引退した後、早い段階で来年の周期演奏会の曲目を決定した。ソリストにもこまめに声をかけ、できる限りの準備をしてきた。

 ホール練習の時間も月一回から週に一回に増やし、ソリストにも声をかけて合同練習も早くから行っていた。

 小さなオーケストラと言っても、歴史がないわけではない。この町の人だってこのオーケストラのファンだという人もたくさんいる。その期待を裏切るわけにはいかないと、あかりは仕事以外の時間をすべて楽団の為に費やして先手先手を打って行動していた。


 しかし、その頑張りが報われることはなかった。

「ソリスト、辞めます」

 彼女からそう連絡があったのは、合同練習を数回していよいよ楽団全体が盛り上がり始めようとしていた七月の始め頃である。

「…え、どうして!前回の練習もいい感じだったじゃない?それに、ここまで来て辞められたら困るよ!」

 辞めるというフレーズを聞いた瞬間、あかりの頭の中は真っ白になった。電話越しで焦る自分の声までも、どこか遠くに感じる。

「は、母親が体調不良で。看病しなきゃいけなくなったので。すみませんがソリストは辞退します。失礼します」

 あかりが口を挟む間もなく、早口で要点だけを言って彼女は電話を切ってしまった。

「ちょっと!」

 声を上げたときには、電話は切れていた。かけ直しても出るはずもなく、数回電話をかけると、着信拒否までされてしまって。

 彼女とはそれ以来連絡が取れず、完全に逃げられてしまったのだった。


 この事態を隠しておくわけにもいかず、彼女が逃げた翌日にあった練習会で、昨晩のことをあかりは団員に報告した。

「看病?そんなわけないじゃん。逃げられたんだよ、あかりさん」

 あっさりと真実を楽団員から突き付けられて、とっさに言い返す言葉もない。

「前回の練習の時も、ホントに練習したの?ってくらい下手だったもんね」

「下手って次元じゃなかったよ。あれで音大生?ってレベルだった」

 口々に楽団員から本音があふれてくる。あかりだってソリストの学生の演奏状態が芳しくないのはわかっていた。

 しかし、どれくらい練習したのか、どんな練習をしたのかなどの、いわゆる突っ込んだ質問ができるほど、あかりは攻めた性格ではなくて。彼女と話さなければいけないなと思っていた矢先の出来事だっただけに、時間が経つにつれて「やっぱり」というあきらめの気持ちも自然と湧いた。


 ため息をついて落ち込めればよかったのかもしれない。でも、そんな暇はない。

「ソリストどうするの?私たちの中に今回のコンチェルトのピアノパートなんて弾ける人、いないよね…」

 困惑気味に発した女性楽団員のその言葉に、ほかの楽団員たちから絶望の息がこぼれる。そうなのだ。今回演奏を予定しているのは、ピアノコンチェルト。今いる楽団員の中に、ピアニストはいない。少し弾ける程度の技術ではどうしようもない、有名な作曲家リストが作った大曲。それを七月からから練習して楽団と併せ、九月の演奏会に参加してくれるような都合の良いピアニストなんて、現時点では誰も心当たりがない。

「ポスターも早めに印刷して張り出しまでしちゃったし、曲目の変更となるとポスターの回収だけじゃなくてデザイン料とか印刷代とかもかかってくるよね…」

 この楽団は、裕福ではない。人数だって豊富ではない。決して恵まれているという状況ではないのは、あかりだけでなく楽団員全員がわかっていることだ。だからこそ、この時期にいざこざを起こしたくなかった。

「私、できる限り探します!ピアニストを探して、共演してもらえるように掛け合います!」

 ただでさえピアニストから逃げられて士気が下がっているのに、ここで楽団に大きな亀裂が入ってしまっては今のあかりの度量では全く手が付けられない。


 ―なんとか楽団の人を一つにしないと…!


 楽団員全員に頭を下げたあかりの中にあったのは、この思い一つだった。

 ピアニストに当てがないわけではない。学生時代の友人にはピアニストもいる。何とかなると、あかりは信じていた。何とかなる、何とかしたい。もう頭の中は回転しているのか止まっているのか、あかり自身把握が追い付いていなかった。

 無理でしょ。内心そう思う人もたくさんいたし、あかりの発言を信用していない人も少なくない割合で楽団に居る。新米指揮者を助けようという風は微風だった。

 数名「自分も心当たりをあたってみる」と言ってくれたことだけが、あかりにとっての救いだった。


 練習終了後から、あかりは手あたり次第友人のピアニストを当たった。ピアノの先生や学校の先生として働いている人にも、声をかけた。技術としては、全く問題ない。しかし、話はそう簡単に進むはずはなかった。

 人にはそれぞれ故郷があり、生活する場があり、生活サイクルもある。あかりは卒業した音楽大学がある県ではない、いわゆる他県民。

 他県の人たちが進学してくるのが大学なのだ。あかりだってそうだった。そして、あかりの地元に近い友人でさえ、明かりが住む場所までは車で片道1時間以上かかる距離に住んでいる。それでもいろいろな人に声をかけて、その都度共演できないと、断られる。それを何度も何度も、めげずに何日も繰り返し続けた。


 一番近いピアニストの友人の電話番号を、携帯の液晶の出した。彼女は、昨年結婚して今年子どもが生まれた。育児に専念している様子はSNSで確認している。夜泣きで眠れない日々を過ごしていることも知っていたし、今はゆっくりピアノを弾ける環境ではないこともわかっている。

 頼りたい。でも彼女には頼れない。責任感が人一倍強い友人であるからこそ、彼女に声をかけようとは思えなかった。

 独身の友人もいて声をかけたが、やはり田畑の広がる小さな町の小さな市民オーケストラに参加するという人はいなかった。



 必死にいろんな人にコンタクトを取っていた間にも、時間は無情に過ぎていく。時間が経てば経つほど楽団の士気は下がり、ピアノ協奏曲の練習をする時間は楽団員の表情は曇りっぱなしだった。ピアニストの席がぽっかりと空いたままの状態では、楽団員の気持ちも高まらないのは当然である。


 7月も中旬に差し掛かって、いよいよ曲目を決定しなければ手遅れになる時期がきてしまい、毎週末夜に行われている練習を早めに切り上げて楽団員全員で話し合いを行った。

 このままピアニスト不在の状態が続き、打開策も見つからないのであれば、第一部で予定しているピアノコンチェルトは昨年演奏した曲に差し替えることになった。

「あかりさんが必死なのはわかるけど、必死に頑張れば絶対に報われるってわけじゃないのはわかるよね?」

「これ以上ピアニストだけを待ち続けるのは、楽団全体にも良い影響を与えない」

「ほかの人も探してくれてるからもう少し様子を見るけど、このままだと前年に演奏した曲になるかもね」

 楽団員の声は、厳しいものが多い。しかし、理不尽な意見ではない。厳しい言葉をかけたのは、あかりの性格上、むやみやたらに声を荒げたり歯向かうことがないということも手伝っているのかもしれない。

 昨年まで楽団員を引っ張っていた指揮者の時には起きることのなかったハプニングであり、楽団としても困り果てている状況だからこそ、言葉にとげが生まれている可能性も十分にあった。

「わかりました。では今月中に候補を見つけることができなければ、曲目を変更しましょう。ポスターのことに関しては、ピアニストが見つからなかったときに再度話し合いを行うということで」

 言葉を振り絞るあかりの心は、針金で締め上げられて二つに割れてしまいそうなくらい締め上げられていた。

 情けない。自分が頼りにならないことが歯がゆかった。

 楽団員が全員帰って、ホールの鍵を事務所に返して駐車場にとぼとぼ歩きながら、あかりは声を押し殺して泣いた。憎いくらいに、夜空の星が美しい夜だった。




 楽団で作ったポスターには、楽団員が演奏している時に撮ってもらった写真が中央に大きく掲載され、その下に小さな文字で曲目が記載されている。この楽団は、ソリストを毎年シークレットとしていて名前を掲載しない決まりになっているのが、今のところ唯一の救いだろう。演奏者の名前まで掲載していたら、現段階でポスターを作り直さなければならない事態に陥っていたのだから。


 あかりの職場である山の上の中学校にもそのポスターは廊下の掲示板に貼ってあり、職員室前のそれを眺めるたびにあかりは自然とため息がこぼれる。

 学校は夏休みに入り、時間のある楽団員が校舎の清掃と引き換えに練習をさせてもらっている音が職員室にも響いてくる。この学校は全校生徒数が少ないため、部活動は行っていない。子どもたちが夏休みに入ると、大人だけの職場となる。

 とはいっても毎日学校に教師全員が出勤しているというわけではない。勉強会に出向く機会の多い期間だから、不在の教員が多いのだ。あかりも勉強会には参加することもあるが、この日は学校での作業を予定していた。


 山の上の中学校は、この地域では一つしかない中学校である。子どもの人数はもともと多い地域ではなかったが、近年は過疎化が進み三学年すべて合わせても生徒数が100人に乗るかどうかという状態である。

 子どもたちがいる学校は、やはりにぎやかだ。中学生という多感な時期だからこそ感情も豊かであり、様々な感情のこもった声が木造の古い校舎に毎日響く。

 終業式を迎えてしまうと、学校は途端に静かになり、子どもの声の代わりにうるさいセミの声と市民オーケストラの練習音が校舎にこだまする。この時期だからこそ聴くことのできる音。この学校だからこそ耳にするそれは、職員たちには夏を象徴するものとなっていた。


 夏の太陽が輝きを増す前に、あかりは学校に到着。朝出勤時間よりも早く出勤して体育館裏にある砂利の駐車場に車を停めると、すでに車が一台停まっている。どんなに早く出勤しても、あかりは先に留まっていた車の持ち主より早く出勤できたことがない。

 ショルダーバッグを持って車を降りて、職員室のスライドドアを右から左にを引く。するとそこにはみなみ教頭が、自分の席に座ってパソコンで何かを打っていた。どんなに早く出勤しても、南教頭はいつも一番に学校に居る。

「おはようございます」

 教頭に挨拶をすると、彼はいつもと変わらない朗らかな笑顔とあいさつを返してくれた。

 南教頭は、あかりがこの中学校に通っていた頃からここに勤務している古株。あかりが卒業して一度転勤があり学校を出たが、数年後に帰ってきた。それから長い年月、この学校で生徒と向き合っている。

「戸高先生」

 南教頭から声をかけられ、あかりは書きかけのノートからペンを離して顔を上げた。

「はい」

 あかり自身でもわかるくらい、彼女の顔が疲れきっていた。声にも張りがない。

「なにかあったの?」

「仕事のことではないので…。すみません、疲れた顔してしまって」

 にこりと笑ってみたものの、それさえもうまくできない。そんな自分が、情けなくて仕方なかった。

「今日仕事終わって時間があるなら、お茶にでも行こうか。山を下ってすぐ商店街に出るでしょ?あそこに美味しいコーヒーを入れる喫茶店があってね。駅前のパーキングに車停めて、歩いて5分くらいのところにあるんだよ。仕事の話じゃないなら、仕事を終わってから話してくれれば力になれるかもしれないから」

 南教頭は優しい。少しでも元気がないと、こっそりチョコレートをくれたり、声をかけてくれる。その優しさが、今の明かりの心に温かく染み込んでいく。

「…はい」

 楽団の件を誰にも話さずにずっと一人で背負い込むには、あかりの年齢では限界だった。

「いつも元気な戸高さんが、ここ最近撃沈だったもんね。学生の頃から元気一番だったから、何かあったとは思ってたんだけど、僕も仕事が立て込んでてね。もっと早く声をかけてあげればよかった」

 学生時代からずっと目をかけてきた自分の教え子が、何か問題を抱えているのはわかっていた。助けられるのであれば助けたい。自分のできる事は何でもしたい。そんな思いを抱いているのは、南自身の過去がそうさせているのかもしれない。

「南先生」

 泣きたくない思いとは裏腹に、あかりの瞳からは大粒の涙がこぼれていた。

「迷惑かけて…、すみません…」

 迷惑をかけてはいけないと思う反面、南には話を聞いてほしいと思う気持ちもあるわけで。

「何言ってんの。長い付き合いじゃない」

 そう言って優しく笑う南に、あかりは深く頭を下げた。




 その日の業務が終了し、あかりは南の軽自動車の後を追って車を走らせていた。山道と田んぼのわき道を走るには、軽自動車が一番使い勝手が良い。上り坂ではエンジンがうなってしょうがないが、細い道が多い地域なのであかりも戸惑いなく軽自動車を購入した。

 山道を降りて、アスファルトを敷いているのにガタガタの田舎独特の田んぼの横道を走って駅のパーキングを目指す。商店街もあるので、山さえ下りてしまえば道路はそれなりに整備されている。

 駅近くのパーキングに車を停めて、南教頭に連れられて商店街の中に入った。あかりは今隣町に住んでいるが、もともとこの商店街の近くにある古い住宅密集地に住んでいた。そこに住んでいた頃からすでに古かった商店街は、今も古いまま姿を変えずに元気なまま残っている。


 古い商店街はシャッターが閉まっている店が多いと昨今のニュースではよく言っていが、この商店街はシャッターが閉まっている店が少なくて活気がある。衰退する気配のないこの場所は、この地域の年配者だけでなく、子どもの遊び場であり主婦行きつけのお店もたくさん立ち並ぶ。

 大きいとは言えないが、朝や夕方の賑わいを見るとこの商店街が潰れるという想像がまず湧かないような場所なのだ。

 商店街の中には肉や魚や青果を主に扱っているお店だけでなく、軽食屋や小腹が減った時に立ち寄りやすい屋台や駄菓子屋もある。どれもこの商店街の古株ばかりで、常連客もたくさん抱えている店ばかりだ。あかりも学生時代はここで遊んで、ここで買い食いをして育った。


 -変わらないな。この場所は。


 引っ越して長くこの場所には足を向けていなかっただけに、全く変わっていない商店街の中を歩くと、自分が学生だった時の気持ちにタイムスリップしているような気分をあかりはこっそりと味わった。


 南教頭の後について歩いていくと、ほどなくして喫茶店に到着した。商店街の中にあるだけあって、木製の外装を見ただけで年季を感じる。

 南教頭が店のドアを引くと、ドアの上部からからカラカランと優しくて太い鈴の音がふわりと降ってきた。それと同時に、二人の鼻に香ばしい珈琲の香りが届いた。

 入店してすぐに横向きにカウンターバーが置いてあり、椅子が4つほど並んでいる。カウンター席の左に進むとボックス席が4つ。広い印象は持てないが、店内は明るくて雰囲気も良い。どちらかと言えば女性向けの雰囲気で、お友達とおしゃべりにながらお茶をするにはぴったりの場所という印象である。

 カウンター席の奥の暖簾がかかっている場所から、腰にエプロンを巻いた中年の女性が出てきた。顔を上げるなり、彼女の表情が一気に明るくなる。

「こんにちは、奥さん」

「南さん!お久しぶりですう。後ろのお嬢さんは…?」

 何か面白いものでも見つけたように、彼女はあかりの方に視線を送る。おばさん特有のそれが、あかりはあまり好きではなくて。ひきつった笑顔で軽く会釈を返す。

「職場の後輩ですよ。元教え子でね、今中学校で一緒に働いてるんです」

 彼女は悪い人ではないと、南教頭の声色から察することはできる。

「あらそうなの?かわいらしい方ね。カウンター席でいいかしら?今お冷持ってきますね」

 暖簾の向こうに向かう彼女は、にこりとは笑っていたが、何かあるんじゃないの?という彼女の疑いの目や雰囲気は、同じ女性であるあかりにはじんわりと伝わった。

 南教頭に勧められて、あかりは彼の隣の席に座った。カウンター席の上に置かれたメニューを開き、南教頭は小さな声であかりに話しかけた。

「ここの奥さんにはわからないように話を進めるから。女性の人脈の広い人だと聞いてるからね。他のお店も考えたんだけど、ここの珈琲が一番おいしいから」

 南教頭の小さな声を割るように、店の奥にいたはずの彼女がカウンター席に戻ってきてお冷を並べた。

「珈琲と一緒にケーキもいただきましょう。疲れている時には、美味しい珈琲と相性のいいケーキで元気が出ますよ」

 南教頭は今の話にさりげなく蓋をして、メニュー表に再度視線を落とす。

「僕はいつもので。戸高さん、決まりましたか?」

「は、はい!」

 とんとん拍子にメニューをオーダーすると、女性は珈琲の準備を始めた。どうやらこの店のバリスタらしい。ある程度の準備を済ませてバリスタの女性は、また暖簾の向こうに消えていった。


 彼女が席を外して、あかりは自分の楽団の今の状態を南教頭に話した。

「それは大変でしたね。で、お目当ての方は全く見つからない状態なの?」

「知人友人、すべて当たったけどいい返事はもらえませんでした」

 苦笑するあかりの前に、注文したチョコレートケーキとカフェモカが小さな音を立てて置かれた。

「…ピアノですよね」

「はい」

 南教頭は、うーんと唸り声をあげた。

「心当たり、なくもないんです。でもね…」

「心当たりがあるのであればぜひ!紹介してください!」

 あかりの弾んだ声に、カウンターにいるバリスタの女性が徐々に距離を詰めてくる。

「彼には少し事情があるんです」

 そう言って南教頭は、古い手帳を取り出して白紙のペンを走らせ始めた。

「多分聞いたことはあると思うんだけど」

 手帳に何か書いて、それをあかりの方に向けた。


 そこに書かれていたのは、アスペルガー症候群という文字だった。


 以前南教頭は飲み会の時に、自閉症スペクトラムという表現法が嫌いだと話していた。自閉症スペクトラムとは、アスペルガー症候群や多動性、広汎性発達障害や自閉症を一つにまとめた総称である。南教頭は、特徴の違うものを一つにまとめてしまう根性が気に食わないと言っていた。

 だからだろうか、自閉症スペクトラムは書かずにアスペルガー症候群と書いてあかりに手帳を渡したのだった。

「僕の知っているピアノが上手な青年は、こういう名前の付いた脳の回路を持った人物でね。彼が中学生の頃、僕が担任をしました。様々な事情があって、僕と彼は数年間言葉を交わしてなくて、僕から彼を紹介することはできない。彼が信頼している人物に僕からコンタクトを取ってみるから、その人から今の彼のことを詳しく聞いてみて。ピアノは弾けるし上手だけど、無理して彼に会うのはおすすめしないかな。逃げていっちゃうからね」

 あかりの知らない“ピアノの上手な彼”の話をする南教頭の横顔は、どことなく寂しげだった。


 喫茶店のケーキも珈琲も、南教頭の言う通りとてもおいしかった。古い商店街に入っているにはもったいない、上品で何度でもいただきたくなる魅力的な風味だった。

 疲れた心と体に染み入る適度で濃厚な甘さのケーキと、ケーキとの相性の良い珈琲はまさに絶品と言える。だがこの店の難点は、すぐに浮き彫りになってしまうのがとても残念でならない。

「秘密のお話は盛り上がったかしら?またどうぞ」

 レジでバリスタの女性の余計な一言さえなければ、多分この店はもっと繁栄したんじゃないかと、あかりは内心思う。


 お店を出て南教頭から手渡されたメモには、先ほど言っていた連絡先が書いてあった。


 ―大神牛乳店店主、大神竜一郎おおがみりゅういちろう


 あかりが仕事をしている中学校に毎日給食の牛乳を配達している、商店街の中にある小さな牛乳店の店主の名前と携帯の電話番号。

 何度か何かの名簿で見たその名前を、今こうして改めてみることになるとは思いもよらなかった。

「大神さんとは長い付き合いでね。ピアノの弾ける彼が、今一番信頼している家族以外の人が大神さんだよ。大神さんには、僕から戸高さんの事情も話しておく方向でいいかな?」

「…はい!お願いします!ありがとうございます」

 牛乳店の店主と話すことになるとは思っていなかったから、メモを眺めていて返事が遅れてしまった。これでなんとかピアノ協奏曲が破綻せずに済みそうだと、あかりの表情は自然と明るくなる。

 それを横目で見て南教頭が立ち止まり、どうしたのかと少し前を歩いてあかりも立ち止まって南教頭の方に振り向いた。

「彼はピアノが上手だよ。でも彼が多くの人の前に立ったり、初めての人と会話をするってことは、僕たちが想像しているよりも多大な体力が必要なんだ。だから、もしかすると戸高さんの希望に沿う返事をすることができないかもしれない。それでも彼を咎めたり、無理やり楽団に引き入れるようなことはしないと約束してほしい」

 南教頭の声は、いつものように柔らかくて優しくて。表情だって、いつもと変わらないのに。今まで彼から感じたことのなかった、何とも言えない圧をあかりは感じた。

「…はい」

 歯向かう気なんて、最初からなかったのに。なのになんだか心臓の鼓動が制限されたような、狭苦しい鈍痛のようなものを感じずにはいられなかった。


 その日あかりは帰宅途中に本屋に立ち寄って、発達障がいについて書かれている本を数冊購入した。実家暮らしだから、家に帰ると家庭の温かさがあかりを包み込む。

 家族と仕事の話をして、少し雑談をして、入浴して部屋に戻って先ほど購入した本を読みはじめた。大学時代に少し勉強した分野だが、どこか他人事だったし、今までそういった人に出会ったことはない。勉強は嫌いではないし、相手の青年の特徴を押さえておけば、もしかしたら思っているよりも簡単に話が進むかもしれない。


 あかりはのんきに、そして何とも明るく未来に期待を寄せていた。


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