詩集 椅子

佐久 乱

存在するだけの者

 小さなバーのカウンターの隅にある、その椅子には誰も座らなかった。黒い本革張りの座面には、随分前から、店のチラシが入った箱が置かれているばかりで。

 椅子は毎夜、隣に座る客の声を聞いていた。大抵はひとり客で、ため息を吐いたり、鼻歌を小さく口ずさむ。

 椅子はため息とため息の間の、音にならない声を聞く。


   死んだほうがマシだよ

   帰りたくないなあ

   疲れた 疲れた 疲れた

   あんな会社辞めてやる

   殺す 殺す 殺してやる


 椅子は黙って聞いている。ここしばらくは、掃除もされず、埃がうっすらとかかり、座面が少し固くなった。椅子は黙している。


   なんでこんなに辛いんだろう

   別れたほうがいいのかも

   いっつも いっつも いっつも

   フザケンナって言えば良かった

   うるせえ うるせえ うるせえ


 椅子のスチールの足先は汚れて曇っていた。椅子は黙り込んでいる。そこに在る。

 ある夜、若い女性客が震えながら入ってきた。泣いているようだ。靴も履かず、スカートが泥で汚れている。


   怖い 怖い 怖い

   誰か助けて 誰か 誰か

   言えない 言えない 言えない

   あの男 あんな男 きたない男

   けがされた けがれてしまったんだ わたし

 

 椅子は黙っていた。そこに在るだけだった。

 バーテンダーは女性をチラッと見たが、視線を外してシェイカーを振った。マスターは常連客と笑談中。


 若い女性はカシスソーダを前に、声を殺し、しかし激しく怒り、泣いていた。そうして炭酸の泡が消えてしまっても、グラスの向こうに、ひとりそこにはない何かを見つめ、涙をこぼした。


 椅子は存在するだけだった。小さなバーの片隅に、本来の機能を忘れられて、ただ在る。そういう物になっていた。

 悲しみも苦しみも苛立ちも怒りも嘆きも虚しさも、ない。

 いつの日か思い出されることを望みもしないで。ただひたすらに、その椅子は在った。




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