第73話 砂糖派、エルネスリ先生。


 今まで、派閥というと、悪いイメージしか持っていなかった。

 足を引っ張り合うとか、影で悪口を言いまくるとか。

 国会でだって、野次を飛ばしたり、怒鳴り合ったりしてるもんね。

 あれ、話し合いっていうより、ほとんど、エゴの張り合いじゃない?


 でも、数は力というのはわかる。

 人ひとりの力なんて、微々たるもので、高が知れてるし。

 それが、同じ考えを持つ人たちが集まれば、いろいろと強化されるのが強み。

 発信力や、影響力。そして、敵対派閥の攻撃から身を守る防衛力も。



「テレサ様は、活動的で、行動力にあふれた、意志の強い女性でございました。竜気も極めて強い方で、統率力にも優れておいででしたよ。ショコラ様は、母君様にとてもよく似ておられますね」


 テレサの元担任だったというエルネスリ先生は、竜眼族には珍しく眼鏡をかけ、杖をついた老女だった。足腰は弱くても、眼光は鋭くて、頭が切れそう。

 目元と口の周りには、深い皺があって、髪は、紺と白が半々で、ごま塩っぽい。竜眼族も、老化すれば、白髪になるんだな。

 肌の色は、くすんだ水色で、ところどころ紫がかった斑になってる。痣なのかシミなのか、はたまた、生まれつきの模様なんだかわからないけど。


 年齢は、123歳。配偶竜を持たない貴族女性の平均寿命は、120歳くらいだから、日本人なら、80歳前後の後期高齢者ってところだね。

 引退しても良いお歳なのに、住み込みの指導教官に応募してくるなんて、頑張るなぁと思ったら、帝竜国では、生涯現役で働くのが美徳とされているんだってさ。


 特に、竜眼族の女性の場合、若いうちは結婚と出産がメインで、フルタイムの仕事を持てるのは、成人義務を果たした後になるから、慢性的な人手不足らしいの。

 ほら、育児休暇を取る女性が多い分、穴埋めする人員の確保も大変じゃない?

 それで、とにかく、働けるうちは働いてもらわないと困るってことなのよ。


 そう言えば、恵ヘレンだって、かなりのお年寄りだもんな。

 あの大神官は、188歳の王族。エルエスリ先生と同世代に見えるけど、実は65歳もの年齢差があるんだから驚きよ。

 竜気が強いほど、成長速度も老化も遅いと習ったときにはピンとこなかったけど、見比べてみると、そりゃもう一目瞭然。これが、王族と貴族の違いか。


 更に、強力な配偶竜を持っている人となると、もっともっと寿命が延びるのよ。

 因業陛下なんか、70歳代のくせして、20歳そこそこの青年にしか見えないもんなぁ。あの外見詐欺ってば、孫ばかりか、既に曾孫までいるんだとさ。

 不公平感が、ハンパないんだけど、とにかく、今は、年齢格差の現実は置いておこう。面接を始めたところなんだから、会話に集中しなくっちゃね。


 わたしは、エルネスリ先生に、お茶を勧めてから、自分でも一口飲んだ。ベールを汚さないように、細心の注意を払いつつ、ゆっくりと。

 今日はお茶会方式の面接で、昨日のサツキの実技試験とは違って、テーブルには、ユーレカ姫も同席してもらってる。姫の指導教官を決めるわけだからね。


 ただし、採用するかどうかは、わたしが最終判断するつもり。

 残念ながら、第一印象が良いとは言えない。自分の生徒となる姫より、わたしの方に興味が向いているのが、あからさま過ぎて。マイナス10点としよう。

  

 それにしても、「母君様に、とてもよく似ておられる」ねぇ。

 ショコラママの元担任が、早世した教え子を悼むのは不思議じゃないとは思う。

 ただ、その思い入れ竜気が深すぎるのが、わたしとしては、ちょっと不安要因。

 『喪失感』が強いってことは、生前それだけ親しかったってことだし……。

 

「残念なことに、わたくし、半年より前のことは、何も覚えていませんの。母のことも、何ひとつ……。もしかして、エルネスリ先生とも、以前にお会いしたことがあったのでしょうか?」


 そう、わたしに、ショコラの記憶は全く残っていないのだ。不便なことに。

 現状、わたしの周りにいるのは、魔物襲撃後に出会った人ばかりだから、問題がなかったけど、以前のショコラを知ってる人だと違和感を覚えるかもしれない。


 ショコラは、4歳で第七王寮に入るまで、母のテレサと一緒に暮らしていた。

 エルネスリ先生は、テレサのお茶会によく招かれていたというし、ショコラが懐いていた可能性だってある。親しい関係なら、気性や癖なんかも知ってるはず。


 更に問題なのは、エルネスリ先生って、ニキータ教授と同じで、【心話】と【交感】が使える[中震門]なのよ。つまり、嘘を見破るのが得意だってこと。

 だとすると、ショコラの中身が別人に変わっていると気づかれるかもしれないわけじゃない? 


 まぁ、思考を読む【心話探査】を犯罪者以外に使用するのは、当人の合意が必要で、普通の【心話】は、内緒話に近いから、それほど心配する必要はないけどね。

 問題があるとすれば、わたしの竜気制御ね。まだまだ自信がないからさ。

 最初の頃みたいに、思考を駄々洩れさせたら、一貫の終わり。そこまで行かなくても、動揺して、感情波を垂れ流すくらいはしかねないんだよなぁ。


 わたしが転生者だってことは、トップシークレット。今のところ、外帝陛下とソラとヒールしか知らないし、できる限り知られたくもないの。

 もしかしたら、マイケル師は、外帝陛下から直に聞かされてるかもしれないけど、他の人たちには、バレてないと思う。今のところは。

 平和な生活をキープするためには、これ以上、騒がれるようなニュース種になってはいけない。既に手遅れの気もするけど、たゆまぬ努力が肝心なのよ。


 とにかく、わたしとしては、変に疑われてバレなきゃいいなぁと内心ヒヤヒヤしながら、記憶喪失なのよアピールをしたんだけど、エルネスリ先生の反応は、至極あっさりしていた。拍子抜けするくらいに、詮索されずにすんだの。

 

「何度かお会いしたことはございます。ですが、わたくしのことを覚えておられなくても、どうぞお気になさらないで下さいませ。ショコラ様が記憶を失ってしまわれたということは、伺っております。さぞかし恐ろしい思いをされたのでしょうね。母君様のことも、無理に思い出そうとなさらなくてもよろしいのですよ。もちろん、お知りになりたいことがおありでしたら、ご質問していただければ、何なりとお答えいたしますけれど……」


 エルネスリ先生は、『労り』の竜気を振りまきつつ、優雅にお茶を飲んだ。

 良かった。どうやら、この人は、おせっかいな熱血教師じゃないみたい。

 この分なら、相談しなさいと圧力をかけられなくてすむかな。

 

「ありがとうございます。母のお話は、ぜひ伺いたいと思いますけれど、今日のところは、ご遠慮しておきますね。主人となるユーレカ姫の方から、先生に伺いたいことがありますので。どうぞ質問を始めてちょうだい、姫」


 わたしは、ココア風味のクッキー(サツキ謹製、砂糖使用)を手に取りながら、隣りにおとなしく座っているユーレカ姫に指示した。

 ニキータ教授を首にした一件から、姫は落ち込んだままなんだよね。せっかく積極性が出てきていたのに、委縮してしまった感じで、また暗くなっちゃったの。

  

 前任者の教授は、内帝府の間諜で、姫を成長させようという意識がまるでなかったでしょ。わたしを懐柔するのに、うまく利用しようとするだけでさ。

 わたしとしても、前回の採用方法については、反省してるんだわ。

 ユーレカ姫は、わたしの側仕え。その姫の側仕えなら、わたしの身内も同じ。いくら忙しくても、面接もせずに、管財人に丸投げしたのはまずかったって。


 おかげで、間諜が入りまくる羽目になったし、あの二の舞は絶対に避けたい。

 姫には、しっかり導いてくれる指導教官をつけてあげたいと思うし、安易に縁故採用はしないぞ。いくら、ショコラママの知り合いでも。

 

「はい、それでは……、エルネスリ先生は、語学に堪能とお聞きしておりますけれど、三ノ宮国語もおできになるのでしょうか?」


 ユーレカ姫が、直接に質問を始めると、エルネスリ先生も、茶器をテーブルに置いて姿勢を正した。姫の方に心持ち身体を向け直して、視線を合わせる。

 そう、二人の視線が合った。特に、竜気が反発することもなく。

 これは相性が良さそうだな、と安心するうちも、質疑応答は続いていく。

 

「えぇ、一通りは。わたくしは、比較文学が専門ですので、読み書きの方が得意でございます。日常会話程度でしたら、宮国群の言葉は全て話せますけれど、通訳の資格は持っておりませんし。文書や文法については、自信を持ってお教えできますが、外交や謁見の場では、あまりお役にたてないと存じます」


 普通、初等科の教官は、小学校の先生と同じで、複数の教科を担当するものなの。そして、広く浅い知識を優しくわかりやすく教えるのが基本なわけ。

 だけど、個人に仕える指導教官は、雇用主の要望に応じて、教える内容やウエイトの置き方を変えることになる。生徒の性格や資質に合わせる形で。

 たとえば、才能を伸ばすために、子供の頃から専門教育を施すこともあるし、不得意科目を補習する家庭教師的な役目を担うこともあるのね。


 姫は、帝竜国に来てから独学していたから、『文書』、『歴史』、『地理』あたりは苦手で、『作法』や『教養』で習うべきなのに知らないことも多い。

 一方、三ノ宮国では英才教育を受けていた王族なので、『計算』の上の『経理』まで修得済みで、宮国群の言葉には堪能だし、『音楽』もかなり得意。

 現状では、知識や技能に、ものすごく偏りがあるわけよ。

 そして、この先は、側仕えとして必要な能力を伸ばしていく方針にしている。必修科目は、最低限に履修すればいいと割り切ってね。


「それでは、帳簿関係は、いかがでしょう? 計算はお嫌いですか?」


 ユーレカ姫は、既に、わたしのお小遣い帳を管理してくれているほどで、暗算もかなりできる。今更、加減乗除なんか教わる必要はないのだ。

 切実に必要としているのは、帳簿関係を任せられる補佐役の方。姫付きのアンジェリは、秘書官としては駆け出しで、全然その水準に達していないんだって。


「計算……でございますか。一応、簿記はできますけれど、得意とまでは……」


 総じて、竜眼族は、計算が苦手みたいね。王族や貴族は、お財布も持たないし、帳簿をろくに見もしないで、財産管理を管財人に丸投げする人が多いらしい。

 エルネスリ先生も、御多分に漏れないようで、たじろいだように口ごもった。

 

「実は、わたくし、ショコラ様の顧問官を拝命いたしまして、三ノ宮国との個人貿易の窓口を務めておりますの。側仕えには、その交渉のための実務を分担していただく必要がございます。計算が苦手でしたら、資料の作成や記録の複写などをお願いすることにいたしますけれど、指導教官の職務以外のお仕事もしていただくことにはなります。それでも、よろしいでしょうか?」


 姫の質問に、エルネスリ先生は、『驚愕』の竜気を放ち、顔色を変えた。くすんだ水色の肌が更に白っぽくなったせいで、紫の斑が浮き上がって見えるな。


「少々お待ちくださいませ。三ノ宮国との個人貿易と申されますと……、まさか、お砂糖を輸入なさるおつもりですの、ショコラ様?!」


 エルネスリ先生は、わたしの方を向いて、叫ぶように問い詰めてきた。

 それで、確信した。あぁ、やっぱり、この人は、[砂糖派]だなって。

 三ノ宮国の主要輸出産業が、砂糖だと知っている人はいても、ここまで貿易に過剰反応する人は限られるでしょ。

 しかも、『非難』ではなくて、『恐怖』の竜気をまき散らしてるとなると、テレサが暗殺されたと気づいてて、自分も身の危険を感じてるってことだよね。


「えぇ、そうですわ、エルネスリ先生。わたくし、砂糖菓子が好きなものですから、お砂糖をできるだけ多く仕入れたいと思っておりますの」


 わたしが、敢えて無邪気ぶりっこして肯定すると、『危機感』を募らせたエルネスリ先生は、一度、瞼を閉じた。動揺しきった感情波を抑えるために。

 数拍後、目を開けた先生は、覚悟を決めた様子で、わたしを見つめてきた。ベール越しではあるけど、この上なく真剣な竜気が、ひしひしと伝わってくる。


「いくらお好きでも、お砂糖を輸入するのは危険でございます。どうぞお止めになってくださいませ、ショコラ様。この国では、お砂糖を危険な麻薬とみなす[竜糖派]が主流なのでございます。とりわけ保守的な狂信者の中には、同族殺しを厭わぬ者たちすらおります。ショコラ様も、お命を狙われてしまうことになるのですよ」


 必死に忠告してくれる姿に、好感度がアップした。同志加算で、20点プラスしてあげよう。この先生なら、姫を利用したりせず、真面目に仕えてくれそうだしね。


「母と同じように、ということでしょう? それは理解しておりますわ。忠告して下さった方もおりますし。それでも、止めるつもりはありませんの。わたくし、母のことは覚えておりませんけれど、母が[砂糖派」であったことは知っているのです。ですから、母の遺志を継いで、わたくしが、この国にお砂糖を広めてみせますわ」


 わたしの決意表明に、エルネスリ先生は、竜眼をぎょろりと見開いて固まった。しかも、両手を両頬にあてたポーズで。

 ほら、ムンクの有名な絵と同じ格好。まさしく、叫ぶ人ってフリーズ画面よ。

 心配してくれるのはわかる。それはわかるし、ありがたいとも思うんだけどさ。

 あまりにも、おどろおどろしくて不気味チックすぎる。いやはや、怖いぜぇ。 


「テレサ様とて、ショコラ様が危険な目に遭うことなど、お望みになられないはずでございますよ。まだ、そのようにいとけなくておいでですのに。ご遺志を継がれるとしても、せめて成人なさってからになさいませ」


 1分少々で解凍したエルネスリ先生は、竜気を振り絞るようにして、忠告を始めた。わたしを何とか思いとどまらせようと、そりゃもう必死こいてる。

 でも、ごめんね。砂糖の輸入は決定済。議論をする余地なんて残ってないの。


「わたくし、危険な目には既に遭っておりますのよ、エルネスリ先生。まだ何も知らないうちから、暗示力者の誓神官に、【誓縛】をかけて拉致されかけましたし、護衛の応募をしたときには、暗殺者を送り込まれそうになりましたもの。とっくに誓神教国から敵視されているのに、成人するまで放置しておけるわけがないでしょう? 反撃しなければ、殺されるのを一方的に待つだけではありませんか」


 今回の暗殺の標的は、サルトーロとユーレカ姫だったみたいだけど、わたしだって、誓神教国のブラックリストに載ってるに決まってる。

 誓ダルカスを撃退したときは、個人的な犯行だと言い張ってすませたけど、暗殺者を捕獲したあとは、誓神殿も強制捜査されているからね。

 わたしからすれば、自業自得の一言だけど、誓神教国むこうから見れば、忌々しい元凶の餓鬼。さぞかし逆恨みされているだろうなという自覚はある。


 そのへんの詳しい内情は、姫を含めて、わたしの側仕えにも話してない。帝家から一般公開されてる情報を別にすれば。

 ただ、帝竜国内にいる過激派は粛清されたと言っても、誓神教国おおもとを根絶したわけじゃないから、万事解決と安穏としていられる状況ではないの。

 だから、暗殺者に狙われる危険があることは、はっきり認めておかないとね。

 

「――まぁ、そんな。なんてことでしょう……」


 エルネスリ先生は、ショックをうけたようで、もう一度、竜眼をきつく閉じた。身体が震えて、口元がわなないている。

 お年寄りの心臓に良くない話だとは思うけど、雇用条件については、きちんと理解してもらわなくちゃならないので、心を鬼にして説明を続けることにした。


「当然、わたくしの近くにいると、さまざまな謀略に巻き込まれる可能性があります。特に、ユーレカ姫は、お砂糖を輸入する要。わたくしと同様、間諜や暗殺者に狙われるかもしれません。エルネスリ先生には、そうした危険があるということを踏まえた上で、姫に仕えるかどうか決めていただきたいのです」


 わたしは、言葉を切って、エルネスリ先生の反応を伺った。

 こりゃ、駄目だな。処理落ちフリーズしたままで、返事が返ってきそうにないわ。

 一応、話は聞いているみたいだから、言うべきことだけは言っておくか。


「更に、姫は、お飾りの補佐官なのではありません。先月から、わたくしの秘書官について、側仕えとしての実習に入っているのです。そのため、学業と仕事を両立させなければならず、非常に多忙な毎日を送っております。指導教官には、何よりも先に、姫が過労で倒れないように、スケジュールを調整していただく必要があります。また、他の側仕えたちの手が回りきらないときには、実務の分担をお願いする場合もあるでしょう。要するに、時間割通りに授業をこなすのではなく、状況を見ながら、臨機応変に対応して、姫を全面的にサポートして欲しいということです。一般的な指導教官の職分を越えたことを求めているとは承知していますが、その分の対価はお支払いするつもりでおります。ただし、体力的にも、竜気的にも、かなりのご負担をおかけすると思われますし、もし自信がないようであれば、ご無理はせずにお断りいただいて結構です。どうぞ、よくお考えになってから、管財人宛てに、ご返事くださいませ。姫、他に何かお伝えしておくことはなかったかしら?」


 この「お伝えしておく」という言い回しは、あらかじめ、ユーレカ姫と決めておいた合図なの。「採用しても問題なし。自分で決めていいよ」という意味のね。

 姫は、「わかりました」と、両目で一回瞬きしてから、口を開いた。


「お願いしたいことは、ショコラ様が全てお話しくださいましたが、わたくしの方から、あとひとつだけ申し上げておきたいことがございます。エルネスリ先生、わたくしは、20歳までに、でき得る限りの知識と技能を身につけたいと思っております。ショコラ様の側仕えとして、恥ずかしくないよう成長したいのです。そのために、経験豊富な先生のお力をお貸しいただければ、大変ありがたいと存じます。良いお返事がいただけることを心から期待しております」


 これは、やる気があるなら、採用するよって意味だね。

 どうやら、姫は、エルネスリ先生が気に入ったらしい。真面目で信用できそうな人だし、姫とタイプが似ていて波長は合いそうだし、いいんじゃないかな。

 あとは、先生ご当人の覚悟次第だけど……。


「もったいないお言葉でございます、ユーレカ様。この通りの老骨ではありますが、できましたら、ご成人まで、誠心誠意お仕えさせていただきたいと存じます」


 二人して視線を向けると、エルネスリ先生が、深呼吸してから頭を下げた。

 へぇ、管財人宛てに返事すればいいと言ったのに、即断するとは意外。受けるとしても、もっといろいろ質問してきて、納得できてからだと思ってたよ。


「ありがとうございます、エルネスリ先生。どうぞよろしくお願いいたします」


 ユーレカ姫の竜気が、『安堵』で、ふっと緩んだ。この子、結構人見知りな性格してるし、かなり緊張してたんだね。

 でも、エルネスリ先生の方は、まだ緊張が解けてない。と言うか、さっきより気脈が尖ってるよ。まなじりもキリリとつり上がってるし、眼力の怖さが増し増しだわ。

 まるで、玉砕ぎょくさいする覚悟を決めたみたいじゃないの、先生。いくらなんでも、そこまで悲愴な決意がいるほど、危険な職場じゃないのにな。


「快諾いただけて、良かったわね、姫。それでは、早速、契約してしまいましょう。書類の用意はできていて?」


 わたしは、敢えて朗らかな声を出した。その調子に、姫も乗ってくる。


「はい、ショコラ様。どうぞ内容をご確認くださいませ、エルネスリ先生」


 姫の指示を受けて、応接室の隅に控えていたアンジェリが、トレーに乗せた契約書をエルネスリ先生の前に置いた。

 内容については、こちらの要望をベースに、当人の希望も加味した上で、双方が合意した条件で作成してあるから、特に問題はないでしょ。

 

 実際、エルネスリ先生は、書類にざっと目を通しただけで、サインした。

 姫とわたしは、既にサインしてあるから、これで、契約は無事完了。

 うん、思ったより早くスムーズに終わったね。まぁ、引っ越して来てもらわないと、仕事自体は始まらないわけだけど。


「こちらへ移動するのは、いつ頃になりますか、エルネスリ先生」


 新しく入れ替えたお茶を飲みながら聞くと、砂糖入りクッキーを食べたエルネスリ先生が、何やら少し考え込んだ。


「できましたら、8日ほどお時間をいただきたいと存じます。それと、もう一点、ご相談したいことがあるのですけれど……、わたくしが後見している甘味職人をひとり、こちらで召し抱えていただけないでしょうか。まだ24歳と若い匠族ではありますが、進取の気性に富んでおり、以前から、砂糖菓子を作りたがっているのでございます。わたくしでは、お砂糖を入手できませんし、危険だと止めてもいたのですが、実は、その子の父親は、[砂糖派]の豪族に仕えていたことがございまして、秘伝のレシピを継承しているので、どうしても諦めきれないようなのです」


 ヒャッホー、秘伝のレシピだってさ! 

 いいぞぉ、もちろん、雇っちゃうよ、カモン、シュガー!

 [砂糖派]の同志よ、我がもとへ来たれ! 共に戦おうではないかっ!

 

 歓びに気分が盛り上がり、またまた竜気が一人増幅しそうになったけど、今回は何とか制御することができた。

 偉いぞ、わたし。一応は経験値を積めてるね。

 

「まぁ! わたくし、ちょうど甘味職人の求人を出そうとしていたところなのですよ。貴族の甘味研究家の下で、修業していただくことになりますけど、それでよろしければ、採用いたしましょう」


 サツキの生徒兼助手として、甘味職人を4人雇うことにしたばかりだからね。昨日の今日の話で、まだ管財人にも連絡してないので、採用枠は丸々空いてるよ。


「甘味研究家、でございますか?」


 知ったばかりの甘味研究家について意気揚々と説明すると、興味を引かれたようで、エルネスリ先生の気脈が和らいでいった。


「レシピを公開して、指導してくださるとは、素晴らしいお話でございますね。さぞかし希望者が殺到することでしょう。他にも信頼のできる甘味職人の心当たりがございますし、ご紹介することをお許し願いたいと存じます」


 「信頼できる甘味職人」っていうのは、[砂糖派]の同志って意味だろうね。

 先生の縁故で、必要な人数が集まるなら、その方が安全だろうし助かるよ。


「エルネスリ先生にご推薦いただく方ならば、安心できますわね。どうぞよろしくお願いいたします」


 

 この年、エルネスリ先生の紹介によって、採用される運びとなったサツキの生徒たちは、4人とも、実に個性豊かな甘味職人たちでありました。


 後に、引く手あまたの脚光を浴びる『甘味塾』一期生は、こうして人知れず誕生することになったのでございます。



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