第32話 移動喫茶と自転車

 キャンパスは、サナエの大学と同様、閑散としていた。どの大学でも、三月は一年で一番学生が少ない。しばらく歩くと、サークルの部室があるという建物に着いた。

「一応、入館証です。最近大学側も色々うるさくって」そう言って、木村はゲストと書かれた入館証をサナエに渡した。

 建物の二階にコーヒー同好会の部室はあった。「たぶん、もう後輩たちが来ているはずです」言いながら、木村がドアを開ける。中には二人の学生がいた。木村の挨拶に、二人は代わる代わる挨拶を返した。

「木村さん、そちらの方が」その中の一人がサナエの存在に気づいた。


「飯塚です。すいません。こんな朝早くから」サナエは頭を下げた。「お二人は、サークルの?」

「はい。私が現幹事長の芹沢です。こっちは同じ学年の御影君」芹沢の紹介で、御影はサナエと挨拶をした。木村に促され、サナエは部室の奥の椅子に座った。

「飯塚さん。これ私が淹れたコーヒーなんですけど、飲んでいただいてもいいですか?」芹沢がカップを差し出した。サナエはカップを受け取り、コーヒーを一口飲んだ。

「あ、美味しい」少なくとも、カズヤの淹れたコーヒーよりもずっと美味しい。さすが、河野の手ほどきを受けているだけのことはあった。うかうかしてはいられないと思った。


「本当ですか? ありがとうございます。これ、今度の新歓イベントで出す、私たちオリジナルのブレンドなんです」芹沢の言葉に、御影も頷いた。二人とも嬉しそうだった。コーヒーは人を幸せにする。コーヒーに関わる人は皆、幸せそうな顔をする。父も母も、河野もそうだ。悲しいこともたくさんあった。それでも前を向いて生きていこうと決めた。母の死を無駄にしないために、母のことをいつまでも覚えていられるように。そういう、人を前向きにする力が、コーヒーには確かにあるのだ。

「自分たちでブレンドを? すごいですね。時間かかったんじゃないんですか?」

「そうですね。三月はずっと」大変だという割に、芹沢は得意げだった。

「さ、そろそろ本題に入るわよ」木村は言うと、部室の棚からお菓子の箱を取り出した。しかし、箱はずいぶんと年季がはいっているように見えた。側面はすっかり色褪せていた。


「何ですか? それ」

「これは、うちのサークル日誌みたいな物です。この間、倉庫の中から出てきたんです」木村は箱をサナエの前に置いた。サナエは箱を開けた。そこには表紙の擦り切れた大学ノートが何冊も入っていた。表紙には、漢字で「珈琲」の文字が書いてあり、その下に元号が記されていた。年度ごとに冊子が別れているらしい。一番上にあるのは昭和六十年だ。

「マリコさんが見つけたんです。私たちが書いているのを見て、思い出したみたいで」芹沢が机の上のノートを指して言った。「マリコさんすごく喜んでて、懐かしそうに何度も読み返してました。特に、昭和五十三年の冊子は、マリコさんたちの代が幹事学年ってこともあって、当時熱心に書いてたそうです」

 サナエは箱の中のノートを探った。昭和五十三年の冊子は、すぐに見つかった。表紙を捲ると、四月三日の文章が目に入った。書いたのは河野だ。よく見れば、確かに見慣れた文字だった。その下には、父の書いたと思われる短文もあった。ページをぱらぱらと捲る。


 母の書いた場所はすぐに見つかった。内容は、試験が終わってほっとしたという、本当に何気ない日常だった。確かに母はこの場所にいた。この場所で、父や堀越や河野と同じ時を過ごしていたのだ。

「飯塚さん。飯塚さんのご両親がここのサークル出身だということはマリコさんから聞きました。その日誌、よかったら差し上げます」木村は言った。

 思いがけない提案だった。サナエは手に取った表紙をじっと見つめた。筆ペンで書かれたと思われる「珈琲」の文字は、堀越の字に似ている。四人の歴史が、まさに一ページごと積み重なっている。海底に堆積する泥のように、長い年月をかけて刻まれてきた記憶が、この中には詰まっている。けれど、それはこの場所だからこそ意味を持つのだろう、とサナエは思った。


「いえ、折角ですけど、受け取れません。これは皆さんのサークルの大切な歴史じゃないですか。今のマリコさんに私が出会えたのも、この場所があったからですし、それをずっと継承してください」サナエは頭を下げた。大学ノートを木村に渡した。

「そうですか、分かりました。今のは忘れてください」木村は小さく笑い、箱を元の棚に戻した。「飯塚さん、今度は、外に出ましょうか。私たちの移動喫茶を紹介しますね」

「え、これからですか?」急な展開に少し戸惑った。一方で、河野が遠く仙台の地で母校の学生と何をしているのか興味があった。きっと、これは河野の考えたことに違いなかった。

「行きましょう。今日は勾当台公園、市役所のそばにある大きな公園なんですけど、そこで出店する許可を貰ってるんです」芹沢が嬉々として言った。「私たちの活動、実は地域の活性化に貢献しているんですよ」

「その移動喫茶って、軽自動車とか、そういうやつですか?」まさか、おでんの屋台のように皆でリアカーを引いていくとか、そういうことはないだろうが、念のためだ。それはそれで、面白そうではあるが、大変そうだ。

「もちろん。車ですよ。最近よくある移動販売の一種で」御影が言った。

「さ、百聞は一見にしかず。早速行きましょう」木村は言った。芹沢と御影も既に荷物を整え始めていた。




 木村に連れられてキャンパスを歩き、駐車場に辿り着いた。普通の乗用車に混じって、茶色と黄色のまだら模様に塗られたワンボックスタイプの軽自動車が目に留まった。

「あれですよ。あれが私たちの移動喫茶です」木村はそのキリン柄の軽自動車を指して言った。

「目立ちますね」ぎょっとする配色ではないが、目を引くのは間違いない。移動喫茶の車両がどうしてキリン柄なのか、サナエは首を傾げた。

「ええ、遠くからでも気づいてもらえるようにって考えて、キリン柄にしたんです。でも、一応意味はあるんですよ」


「茶色はもちろんコーヒーですけど、黄色はマリコさんが幹事学年の時と、私が幹事学年の時、両方のイメージカラーなんです。うちのサークルは毎年幹事学年の色を決めてるんですけど、たまたまそれが一緒だったので」木村は車体の黄色い部分を指でなぞる。運命といえるほどの物ではないのかもしれない。しかし、震災がきっかけで結びついた過去とのつながりを、より強く感じた瞬間だったのだろう。

「そうなんですね。ただマリコさんの好きな色ってわけじゃなかったんだ」サナエは笑った。てっきりそうだと思っていたのだ。


「まあ、決めたのはマリコさんでしたからね、本当はそうなのかも」木村もつられて笑った。色なんて、本当はどうでもいいのだろう。河野と木村たちが出会い、自分たちにできることを模索した結果が今目の前にある、それが一番大切なのかもしれない。

「さて、ここで残念なお知らせです」芹沢がイベントの司会者のように、全く残念でなさそうに言った。「この車、コーヒーを作ったりするので定員が二人なんです。運転は御影君がするので、乗れるのはあと一人」


「ここから公園までってどのくらいなんですか?」

「だいたい車で十分かからないくらいです」

「じゃあ、歩いたら一時間くらいかかちゃう感じか」

「大丈夫、レンタサイクルもありますから。飯塚さんはどうしますか?」

「私は自転車で大丈夫です」

「じゃあ、御影君だけ車で、あとは皆自転車にしましょうよ」芹沢が言った。

「え、僕だけ?」

「そうね、そうしましょう」


 グループ内に男子一人というのはきっと苦労するに違いない。サナエは同情した。とはいえ、さすがに自分だけ車に乗るわけにもいかない。

 木村を先頭にして、三人で大学本部のあるキャンパス中央に向かう。御影は先に行って準備を始めると言って、早々に出発してしまった。

「大学内にレンタサイクルがあるってなんかすごいですね」

「ええ、これは大学の取り組みっていうよりは、仙台市の行政サービスの一環らしいですけど」


 仙台市にはレンタサイクルの貸し出し所が十カ所ほどあり、借りた場所とは別の場所に返してもよいという。一回の利用で料金は百円というから、リーズナブルだ。

「へえ、便利ですね」

「街中を散策するにはちょうどいいです。あそこが貸し出し場所です」芹沢の指差す先に、自転車がずらっと並んでいた。かご付きの自転車だ。普通のものより一回り小さい。

 利用券を買うと、割り当てられた自転車の鍵が自動で外れる仕組みらしい。サナエも自分の自転車を取り出し、荷物をかごに入れた。

「さあ、出発しますよ」木村の号令で、皆一斉にペダルを踏んだ。

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