第26話 確認と準備
母を失い、残された三人が真っ暗な部屋で悲しみに打ち拉がれながら、学生時代の約束を果たそうとする姿が頭に浮かんだ。それは、サナエが抱えている悩みよりももっと苦しい日々だったに違いなかった。母の死を乗り越えようとするたびに、学生時代の母と対峙することになる。あの時、彼女は、彼は、自分は何を言ったのか、迷った時や壁にぶつかった時、きっとそれを考えたのだろう。そしてまた悲しくなり、乗り越えようと足掻く。サナエにはそんなことができるとは思えなかった。もしカオルが死んでしまったら、きっと自分はただただ泣いて、時が経てばカオルのことを思い出すこともないかもしれない。それでは、やはりカオルは悲しむだろうか。
きっと、父や堀越や河野は、自分の感情よりも母の遺志を優先しているのだ。大脳皮質で起こる悲しみや不安のシグナルを、より強い意思で打ち消してきたのだ。母の死から今日まで。それはこれから先も続く。ずっとずっとだ。
アルバイトの時間まではまだ一時間以上あったが、サナエは「メアリーズ・カフェ」に行くことにした。いても立ってもいられない、ということもないが、研究室で暢気に顕微鏡を覗いている気分でもなかった。
「和田君、私ちょっと早いけどバイト行ってくるね」サナエはバッグに荷物をしまった。
「ああ、分かった。これ飲んでみて。最後に淹れたやつだ。これはいけると思うんだけどな」
カズヤが差し出したカップに口を付ける。今朝よりはずっとコーヒーらしい味がした。苦みも酸味もちゃんと出ていた。
「うん。美味しい。これなら、カオルも満足するんじゃない。先生も誰が淹れたのか分からないかも」堀越が分からないというのは言い過ぎかもしれないが、カズヤはおだてれば木にも登るタイプだから、自信がつくだろう。「じゃあ、お先に」
「ああ、気をつけてな」
研究室を出て、サナエは実験室に向かった。クローバーの様子が気になっていた。昨日成長点に傷をつけてから、まだ一度も見ていなかった。無事でいてくれるだろうかと、心配になってきたのだ。
クローバーは植物を生育させる専用の装置に保管してあった。大きさは人の背丈くらいある。中は上中下の三つの区画に別れていて、サナエが使っているのは一番上の段だ。それぞれの天井には発光ダイオードがずらっと並んでいる。太陽光と同じ波長の光をタイマーで照射する仕組みだった。温度と湿度も任意に設定でき、加水も自動で行う優れものだ。今、この装置の中だけは春うららだ。
サナエはガラス越しにクローバーを観察した。順調に育っているようだったが、昨日の今日ではまだ芽から葉が何枚発生するかまでは分からない。結果が分かるのは早くても来週くらいになるだろう。どういう結果になるにせよ、それがサナエの研究結果を大きく左右するものになるはずだ。
サナエは装置の設定をもう一度確認した。日照時間は設定通りだったし、温度、湿度も問題ない。ここまで来たら、あとは祈るだけだ。
研究は順調だった。サナエだけではなく、研究室全体がそういう雰囲気になっていた。相田の研究だけではなく、青木と中島が行っている光合成の研究も、ある程度の結果が出ているようだった。この間青木が言っていたが、次の夏にある国際会議で研究成果を発表するそうだ。
研究は順調、しかしプライベートの方は絶不調だった。母のことやコウタのこと、そして堀越の言っていたことが気になって仕方がなかった。いったい河野はサナエに何を語ろうとしているのだろうか。堀越に彼らの過去を話すよう指示したのが河野だとしたら、これ以上の秘密というのはいったいどういうものだろうか。サナエには、全く想像ができなかった。
サナエが「メアリーズ・カフェ」に着くと、ダイスケが入り口近くのテーブルで女性と話し込んでいた。
「おお、サナエちゃん、早かったね」サナエが挨拶をすると、ダイスケは顔を上げ、手招きをした。「こちらは、明後日のイベントでピアノを演奏するMAIさんだ」ダイスケが紹介すると、MAIはサナエに笑顔を向けた。きれいな人だった。年齢は自分とさほど変わらない気がした。毎回のことだが、ダイスケはどうやってアーティストを探してくるのだろう。
「それで、彼女がさっき話してた飯塚さん」
「初めまして。ってダイスケさん、MAIさんに何を話してたんですか?」
「何って、イベントの進行役は君なんだから、当日の流れとか、君との掛け合いの部分とかさ。そういうのを代わりに話していたってわけ」ダイスケはさらりと言った。まるで太陽は東から昇るのだと言っているようだった。
「進行役ですか? 私が?」初耳だった。当日の客の世話くらいやればいいと思っていたサナエは面食らった。進行役といったら、台本を覚え、イベントの流れを把握しておく必要がある。「そんな、急に言われても無理ですよ」サナエは手を顔の前で動かし、抗議の狼煙をあげる。
「すまん。今回はサナエちゃんの方がいいと思って。悪いけど、引き受けてくれよ」ダイスケは平謝りをした。「この通り」そう言って、両手を合わせている。
「ええ! じゃあ台本は?」
「もちろん、これからだ」ダイスケは開き直る。さっきまで低かった腰はもう元どおりだ。「今、MAIさんと演奏する曲順を決めているところだから、それが終わったら、考える。さあ、サナエちゃんも座って」
サナエは、目の前が真っ暗になった。イベントはもうすぐなのに、このバタバタは何だというのだろう。サナエは言われるがまま、ダイスケの横に座った。
「大丈夫なんですか? こんな調子で。明後日ですよ、明後日」
昨日のダイスケの様子を思い出していた。イベント前なのにやけに静かだと思ったら、準備が思うように進まず、悩んでいたのかもしれない。遅れを取り戻す算段を考え、それがサナエに司会をさせることだったのだろう。
「大丈夫だよ。機材の用意はすべて終わっているから、曲順さえ決まれば完璧だ」ダイスケは、完璧というところを強調した。
「完璧って、普通一週間前にはこういうのって決まってるんじゃ」いつもなら、だいたいそうだった。最後の一週間は宣伝をする期間だ。最近はホームページやSNSの告知をするようになって楽になったが、これにも時間を取られるし、やらないと客が来ないのだから、重要な準備の一つだ。
「今回はな、色々あったんだ。まあ、宣伝の方はマリコさんに手伝ってもらって、そっちも大丈夫。順調に閲覧数が増えているし、いい兆しだよ」
サナエは大きく溜め息を付いた。
「サナエさん、だったわね。ダイスケさんの言う通り、大丈夫よ。なんか、文化祭的なノリって私好きだし、ピアノさえあれば、あとはなんとかなるわよ」
MAIの言葉は、サナエをさらに不安にさせた。この人も、ダイスケと同じようなタイプの人間なのかもしれない。サナエは、なんとかなるという言葉が苦手だった。楽観的な思考は嫌いではないが、何の裏付けもないまま事態を放置することはしたくなかった。なんとかするために、何か策を講じる方が建設的で、好ましいように思う。
空に向かってあげた狼煙はすでに誰の目にも止まらないくらい、薄くなっていた。サナは腹を括った。
「分かりました。やります。その代わり、今決まっていることを全部教えてください。台本も、今皆で作りましょう」なんとかするためには、自分がやらなくては仕方がない。
「お、サナエちゃんやる気になったな」
「自分でやらないと心配なだけです。どうせやるなら、失敗したくないですから」
「サナエさん、改めてよろしくね」
MAIのあっけらかんとした態度に少しだけイライラしたが、こうなったら背に腹は代えられない。やるからには真剣にやらないと、自分の気が済まなかった。
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