海の娘と旅をした。

雨降空(アマブリ クウ)

絹のようにやわらかな風が吹く。日の光を受けて一層鮮やかな緑を見せつける草々がなびく。空にはどんな海よりも澄んでいるだろうと思わせる青が一面に広がり、雲一つない。そんなに豊かで芸術的なまでに美しい自然風景の中で、僕は途方に暮れていた。なぜなら、無一文だからだ。しかも、旅の仲間などおらず、たった一人。頼る人さえいないのだ。僕の心の中は、色彩豊かな彼らと対照的に、灰色の一色だった。

事の発端は、先日訪れた街の宿屋で財布を盗まれたこと。これは途方に暮れていた時聞こえてきた旅人達の会話で知ったのだが、あの街は治安が悪く、安い宿では旅人がよく盗難に遭うらしい。しかし、これのせいで無一文になった訳では無い。僕は非常用の金銭を肌身離さず持つようにしているため、生死に関わるようなことはなかった。とにかく、非常用とは言ってもこの先の旅路を安心して過ごせるほどの額ではないし稼ぐ必要があると思った。だがこんな治安の悪い街だと知ってしまっては何が起こるか分からないし、また金を盗まれて本当に無一文になってしまうかもしれない。だから、とりあえずはこの金銭を使って馬車に載せてもらい、隣町まで行こうと思った。そこで早急に─なるべく詐欺に合わなさそうな─馬車を探し、どうにか見つけた。にこにこと笑う人の良さそうなおじいさんの御者で、これは信用できそうだと思い、乗った………のだが、そんな都合のいいことは全くなかった。隣町までの道程、半分にも到達していない所で、無理やり降ろされた。きちんと料金を払っていたのに何故こんなことをされなければならないのか聞くと御者のおじいさんは


「街の外は別料金になってんだ!あんたの金じゃここまでだ!あとは自分でどうにかしな!」


と吐きすてて、馬車は街の方へ戻って行った。そんな説明は一度もなかった。いや、思い返してみると、おじいさんは妙だった。僕が「この街までいくらかかるか」と聞いたのに「ああ、大体○○kmならこの料金だね」と答えたのだ。たしかに距離しか答えていない。しかも、どの場所において、この料金になるとも言われていない。付け入る隙があるといえばあるのだが、こちらにも隙があるのも確かなこと。そして何より、とっくに街についているであろう彼には、もう何も文句を言えない。

そうして、今、無一文の状態で途方に暮れているのだった。太陽はもう僕の真上に来ている。夏ではないとはいえ、春の日差しもこう当たっているといささか喉が渇いてきた。朝から何も食べていないため、腹も減っている。近くに人がいる気配もなく、たとえ人がいたとしてまた騙されてしまうのも怖くて声がかけられないだろう。何もなすすべがないのだ。こうなればいち早く隣町を目指して歩くのがいいのだろうが、この日差しと喉の乾きのまま歩いて倒れてしまわないかという心配もある。どうにかもう少し暮れるまで寝て、涼しい中を歩くのはどうだろうか。それならば安全な気がする。そうして、僕は午睡に落ちたのだった。


──鼻歌と、何かを擦る音が聞こえる。音がしているのはすぐ隣。僕が寝ている間に誰か旅人が来たのかもしれない。目を開くと、あまりの近さに驚いた。青い髪の女性が私のすぐ隣に座っている。何か木炭で絵を描いているらしい。そのままでいるのはあまりにも気まずく急いで体を起こしたが、その時、旅人はすぐ隣にいないということがわかった。すぐ隣ではなく、でかいのだ。実際は二歩分の隙間が空いていた。それでも近いが。寝ぼけ眼では、大きさが判別できなかった。何より、巨人という種族を見るのが、初めてだったのもあるのだろう。僕の体二つ分ほど上空に頭がある。この位置からは顔が見えないが、その頭から垂れ下がる長い青い髪が、私の目の前でさらさらと風に揺れている。今動けば物音がして気づかれるかもしれない。別に取って食われるような存在でないことは知っているが、如何せん初めて接する種族はあまりにも未知で気まずい。そうしてぐるぐると頭の中で考えていた時、少し強い風が吹いた。目の前で揺れていた髪が僕の方へ流されてくる。顔に当たりそうになったため、手でいなした。すると、巨人の動きがぴたっと止まり、頭上にある頭が、私の方を向いた。綺麗な顔だった。触り心地のよさそうな白い肌。少し大きな切れ長の目は濃い青色で、キツネや猫を想像させる。鼻筋はとても整っていてよく磨かれた石のようになめらか。唇は薄くほんのり薄桃色。少し冷たさを感じるような美人だが、僕と目が合うなりあっと驚いた顔をした。


「私のせいで起きちゃいました?気持ちよく寝てるところを邪魔してしまってごめんなさい。」


そう言って彼女は僕の顔を見つめる。巨人にはどう接すればいいのだろうか。あんなに高くに頭があって普通に声を出しても相手に届くだろうか。しかし耳も大きい筈だから、小さな音も拾うかもしれない。そうこう考えていると、


「あ、あの。何か、不快にさせてしまいましたか?もしかして鼻歌うるさかったでしょうか。それとも、何か別の」


と言って巨人が僕の顔を覗き込む。慌てた僕はすぐに答えた。


「いや、そんなこと、ないです。大丈夫、です。」


僕の言葉を聞くと、巨人は安心したように笑って一言よかったですと言った。意外にも表情は豊かなようだ。会話はそれで一段落着いたが、僕も巨人も移動することなく、時間だけがすぎていった。僕はあてもなくさまようわけにもいかず動かない。巨人は絵を描いているために動かない。何か話すようなことも無い。何より僕は人見知りで、初対面の人間…ならまだしも、初対面の巨人という種族相手に声をかけるなんて出来ない。そうして、一言の言葉も交わされることないまま、まるで止まっているような時間が過ぎていく。動くのは日だけ。

日がそろそろ落ちるだろうかという頃になって、ようやく巨人の手が止まった。しばらく手元を眺めている。どうやら絵を描き終わったらしい。その姿を観察していると、巨人は急に私の方を向いた。目が合ってしまった。


「あ、まだいたんですね!ちょうど良かった。絵を描き終わった所なんです。見てくれませんか?」


嬉しそうな顔をしてそう言うと、手招きをする。どうやら、見せに来てくれるわけではないらしい。ここで断るのはあまりに気まずいし、何より絵が気になるので恐る恐る巨人に近づく。手の届きそうな距離まで近づくと、改めてその大きさを再確認する。巨人という名の通り、本当に何もかも巨大だ。


「私が描いた所から見てもらうと、どこを描いたとか分かりやすくていいと思うんですけど、ちょっと、私の目線まで持ち上げてもいいですか?いやなら、やめますけど」


そう言って巨人は私の方へ手を向ける。まるで大人が子犬や赤ん坊を抱っこする時みたいな手つき。大きさでいえば人間と子犬と何も変わらないのだろうが、それでも恥ずかしさがある。答えを言い淀んでいると、


「やっぱり、見ず知らずの人に持ち上げられるのは厳しいですよね。ごめんなさい。あの、絵を立てておくので、どうぞ私の絵を見てみてください。」


と言って持っていた絵を私の前に突き立てた。木炭で描かれた風景スケッチ。私が途方に暮れながら見ていた景色が、モノクロになって目の前に再現されたと言われても驚かないほどに自然な絵だった。上手いだとか、精密だとかではなく、自然。草が生え、風が吹き、空は青い。ごく自然のことが絵の中でも当然のように生きていた。

僕の視界の端には、感想を期待して目を輝かせる巨人の顔が映っている。


「すごい、ですね。絵が、生きていますね。何と言えば伝わるのか、分からないですけど、その、絵の中の、草とか、風とかが、現実と変わらないように存在している、というか。」


考えながら、しかも初対面の相手に話しかけるのだから、上手く話せなくて当然だ。そう自分に言い聞かせながら、ぶつ切りで滑らかさの欠けらも無い感想をなんとか伝えた。ちらりと巨人の顔を見ると、心底嬉しそうな顔をしてにこにこと笑っていた。


「すごいですね。私の絵にそんなこと言ってくれたのは、あなたが初めてですよ。皆、白黒でつまらないとか、上手いねって一言だけとか、そんなのばかりです。こんなに具体的に、しかも絵が生きてるなんて、こんなに嬉しい褒め言葉ないですよ!本当に嬉しい!」


あまりにも素直に喜ばれて、僕も少し照れてしまう。巨人はその後も、噛み締めるように、嬉しいという言葉を言った。そして、僕を見つめる。巨人は何かを思いついたような顔をすると、絵を置いて、僕にぐんぐんと近づいてきた。


「ねえ、握手してくれませんか。あっ、あと名前も教えてください。覚えておきたいです」


そう言うと、目の前に大きな手がぐんと迫る。真っ白ですべすべした手。同じサイズなら綺麗だとか可愛いだとか思えただろうに、このサイズだと迫力ばかりが目立つ。大きさの違いをひしひしと感じながら巨人の右手人差し指を握って、名前を教えた。


「ハクアです」

「私はシルです」


巨人も名乗ると、指を少し振る。だが、それは巨人にとっての少しで、私はそれなりに腕をぶんぶんと振る羽目になった。しかし、巨人の嬉しそうに笑う顔を見ると、別にいいかと思えたりした。

握手を終えても巨人は僕の顔を見つめたままだった。まだ何かあるのかと不思議に思って首をかしげてしまった。


「ハクアさん。もしよければ、一緒にご飯を食べませんか。もう日も暮れてきて危ないですし、ちょうどいいでしょう?」


こんな所で救いに出会うとは思ってもみなかった。しかし、手放しで喜ぶようなことはしなかった。考え直してみれば、巨人は、僕が一文無しで食料さえもっていないことを知らないはずだ。僕にご飯を分けてくれるという保証はない。だが、この巨人はあまりにもいい笑顔を浮かべる。少しくらいなら分けてくれるかもしれないと、そう思えた。


「それは、いいんですけど……残念ながら、僕は、食料を持っていないんです。本当に申し訳ないんですけど、もし、よければ、ほんの少しだけでもいいので、分けてはもらえないでしょうか。」

「全然いいですよ!私は、その、おおきい、ですから!お好きなだけ食べてもらっても問題ないですよ!」


勇気を振り絞って頼んだわりには、あっさりと受け入れられた。大きいと言う時に少し言い淀んでいたのは、巨人でも、乙女心というか、自分自身のことを大きいとは言いたくなかったのだろうか。少し可愛げのある内面を持っているのかもしれない。

だが、受け入れられたはいいものの、食べた後に料金を請求されたりしないだろうかと新たな心配事が生まれてきてしまった。


「それは、本当に、ありがたいです。でも、その、僕は今、一文無しでして、食料を分けてもらっても、あの、その、代金は、お支払出来ないんですけど、いいんでしょうか?」


あまりにもおこがましいのではないかと内心怯えながらも、頑張って質問した。しかし、今回はすぐに返事が返ってこない。巨人の顔には驚いた表情のまま黙っている。食料を分けてもらってお金も払わないような人間には、さすがに驚いてしまうのも無理はない。呆れられただろうか。


「ご飯の代金なんて全然いらないですよ!でも、食料もなくて、お金もないなんて、大丈夫なんですか?何か事情があるんでしょうか?少しくらいなら、力になれるかもしれませんよ」


この巨人は、とても優しいみたいだ。人間なんかよりよっぽど優しい。心配していることが、顔全体から伝わってくる。事情を全て話したら、何か助けてくれるかもしれない。隣町に着くまで何でも助けてくれるということは無いだろうが、一日分の食料くらいなら有り得るかもしれない。そうしてほんの少しの希望を持ち、無一文になるまでの経緯を話した。


「大変だったんですね。それじゃあ、私と一緒に隣町まで行きましょうよ。私もちょうど向かっている所でしたし、私と一緒なら馬車よりも少し遅いくらいで着けちゃいますよ!ご飯だって毎日分けてあげます!」


あまりにも人が良すぎる。こんなに優しくされるとは思っていなかった。


「ありがとうございます。隣町についたら、すぐにでもお金を稼いで、頑張って恩返しします。だから、その、よろしく、お願いします。本当に、すごく、嬉しいです。」


僕はそういった後に、もう一度、ありがとうございますと言った。こうなってしまったら、この人に縋るしかない。頼るしかない。一体どれだけの恩が返せるかわからないけれど。


「大丈夫。大丈夫!困ってる時は助け合わなくちゃダメですよ。それに、あなたは絵をたくさん褒めてくれた人なんですから!助けなきゃ!」


そう言って巨人はにっこりと笑う。そして、ごはんにしましょうと言って、大きな食材達をカバンの中から取り出した。救いだ。途方に暮れていた時がまるで昔に思える。

大きなパンを僕に食べやすいようにちぎり、それにチーズを削ってのせる。一つのパンが食器くらいの大きさだ。だがパンであることは変わらず、口の中の水分を奪われる。元から喉が渇いていたのもあって、パンを喉につまらせそうになって苦しんだ。それを見ていた巨人は、自身が飲み終わった水筒をそのまま僕の方へ持ってきてくれる。これは異種族間の間接キスなのではないかと一瞬過ったが、そんな考えは無視して、大きな水筒に苦戦しながら水分を得た。

巨人と共に食事を終えると、


「今日はもう寝ましょうか。明日は早くに起きて沢山進んで、隣町に少しでも近づくようにしましょ」


と言って巨人は寝袋を用意し始めた。


「さすがに寝袋には入れてあげられませんよ?」


と言うとえへへと笑ってみせる。そして僕には巨人の持っていた小道具入れの巾着を貸してくれた。巨人のサイズともなると、巾着のサイズでも十分な寝袋になった。たまにもぞもぞと巨人が動いていること以外は、特に気になることも無く夜が過ぎた。

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