1.ギャレット ―盟約暦1006年、冬、第3週―

「駄目だ、なんで離れる!」と、ギャレットは努めて二人の騎士を一喝した。


 夜が明けたばかりで、まだ薄暗いブラックウォール城の中庭は冬の空気に満たされ、吐く息は白い。二人の騎士は訓練用の刃を潰して重くした剣と分厚い盾を下げて立ち尽くす。


 周囲には剣と盾がぶつかり合う音が響き、さながら小さな戦場のようである。よろけて倒れ掛かってきた騎士を無理やり押し返してから、ギャレットは二人の所まで歩いて片方の騎士から剣と盾を奪い取った。


「いいか、今のお前の攻撃はまずい手だったが、致命的というほどじゃない」


 そう言って、ギャレットは盾を前に構え、剣を上段に構える。剣先を相手に向けて上から突き下ろすような構えだ。そこからゆっくりと動きを再現して見せる。


 足を踏み出して体重を乗せ、盾で身を守りつつ、上段から剣を突き下ろす。相手の騎士は体重が乗った重い攻撃を受け止めようと盾を前面に出して、剣を持ったままの右腕で盾を持っている左腕を支えた。ギャレットの突きは相手の盾に阻まれ、前に出していた両者の盾がガチンと当たる。


「こうなると、お前の剣はほとんど動かせない。対する相手の剣は盾の後ろにあって、しかも身体の中心近くにある。間合いが取れれば、そこから斬ることも突くことも可能だ。で、致命的な問題になるのはここからだぞ、二人とも。攻撃を止められたお前は後ろに下がりながら剣を突き出した。牽制のつもりだろうが、無視して突っ込んでも鎧で防がれる程度の突きなんて無意味だ。対して、お前のほうは有利な状況になったにも関わらず、追撃しなかった」


 なぜそうなるのか、ギャレットには理由を聞かずとも分かっていた。二人とも剣での勝負にこだわっているからだ。密着してしまうと両者ともに剣は使い難いものとなる。だから距離を取って再び剣の間合いになるよう動くのだ。そういう暗黙の了解がファランティアの騎士同士にはある。


「よく見ておけ。こういう時は……こうするんだ!」


 ギャレットは力を込めて強引に盾で押した。相手の騎士は押し込まれて膝を付く。そうなってしまえば、ギャレットからは相手の頭でも首でも狙える。ギャレットは丸く潰した剣先を動かして、そうである事を示した。


 倒された騎士は侮辱されたと感じたのか、ギャレットを睨みつける。それは良い傾向だ。


「剣が使えない距離になったら、力だ。とにかく力ずくで相手の体勢を崩したほうが勝つんだよ。剣を引き戻せないまま後ろに下がったりしたら、相手に剣を振るうための空間を作ってやるようなものだ」


 そう言って、ギャレットは剣と盾を奪った騎士に返した。それから、膝を付いた騎士に手を差し伸べて立たせる。


「お前も、相手が体勢を立て直すまで待っていては駄目だ。お前の剣が使えるようになった時、相手はまだ剣を使える体勢になっていなかったはずだ。狙える場所はあっただろう?」


 ギャレットに言われて、立ち上がった騎士は苦々しい表情で「はい」と頷く。彼の感覚では、それは卑怯な一撃なのだろう。だが敢えてそれを指摘して、これ以上彼らの自尊心を傷つける必要もない。


「騎士道を同じくする相手との試合ならいい。だが、敵はエルシア大陸の帝国人だ。言葉も通じないし、ファランティアの文化も理解していない連中なんだ」


 そう言い残して、ギャレットは二人から離れた。全体を見渡せる位置に戻って腕を組み、再び訓練を見守る。


 フランツに頼まれて始めたギャレットの訓練は、基本的に対戦形式だった。それには二つの理由がある。一つは、ギャレット自身がそうやって実戦形式の訓練を受けてきた事。もう一つは、参加者の闘争心を煽り、戦意の低下を防ぐためだ。


 秋が終わり冬になっても、籠城を続けるブラックウォール城への攻撃は一度も無い。一つの地域あるいは王国を支配するという事は、拠点となる城や城砦都市を手に入れるという事であるから、戦争の基本は拠点の奪い合いである。


 物心つく頃には戦場にいたギャレットも当然、城を巡る戦いに参加した経験がある。しかし、これほど長期間に渡る籠城を経験した事はなかったし、攻め手の準備が整ったにも関わらず、戦いが始まらないというのも初めてだった。


 傭兵団〈みなし子〉の一員としてアルガン帝国に雇われていた間も、何もせずただ包囲を続けるという戦術は見た事がない。被害を避けて兵糧攻めしているだけなのか、他に狙いがあるのか。


 もし帝国軍の狙いが城内にいる兵士の戦意喪失なのだとしたら、それは成功していた。


 ギャレットが行っている朝の訓練は日増しに参加者が増え、最も多い時で五〇〇人近くにまでなったが、今では一〇〇人にも満たない。徴用された農民兵はほとんど戦意を喪失している。その理由は明らかだ。


 毎日の食事は貧しいし、ずっと城に閉じ込められ、自分の家がどうなっているかも分からない。兵士以外の非戦闘員も収容しているため、一つのテントを複数の家族で使っている所もある。味方の援軍は姿を見せないし、連絡用の鳥は射落とされてしまうので外部の情報は全く知れない。


 包囲軍のほうは準備万端で、いつでも攻撃できる状態だ。そして時々、隊列を組んで行進する。ついに来るかと身構えていた兵士たちは緊張感を高めて攻撃に備えるが、敵は行進するだけ。兵士たちは何とも言えない嫌な気分のまま待機に戻る。


 そんな事を繰り返されれば、兵士たちは神経をすり減らしていき、やがて緊張感を失ってしまうものだ。〝どうせまた行進だけだろ〟と、のんびり歩いて集合する兵も増えている。


 もしも今ブラックウォール城の門が開かれたなら、兵士の多くは敵に向かわず散り散りに逃げ去ってしまうだろう。


 籠城について年長の傭兵から聞いた話では、門塔や城壁が突破されて落城するよりも内側から門が開かれるほうが多いという事だった。それはギャレット自身の経験でもそうだ。城内の裏切り、兵糧攻めの末、という事もあるが、多くは交渉の結果である。


 戦乱の続く地域では、城や砦の所有者が移り変わる事は良くある。攻撃側が優先する目的は拠点の奪取であって、守備側の皆殺しではない。城壁に守られて有利なはずの守備側が負ける原因として最も多いのは、孤立して援護が受けられなくなってしまったという場合だ。そのような状況で籠城を続けても、壁の内側で餓死するという悲惨な結末になるだけだ。


 それなら命と引き換えに城を明け渡し、〝いつか再び我が手に取り戻すぞ〟と雪辱を誓ったほうがましである。だが、一年以上という長期間に渡って籠城を続けたという話もある。攻撃側の目的が城の入手ではなく中の人々を皆殺す事だったので、籠城していた人々は負ければ自分たちがどうなるか理解していたからだという。


 ファランティア人は何世代も戦いを経験していないから、勝った事も負けた事もない。負ければ土地と財産を奪われ、自分の命さえ他人の手に委ねられてしまうという事態を、想像はできても実感が持てないだろう。


 彼らにとって戦争は古い歴史書の中のものだ。あるいは遠い外国で起こっている悲惨な出来事という認識だったものだ。


 ブラックウォール城に籠城した当初は誰もが戦々恐々としていた。だが、良くも悪くも人は恐怖にさえ慣れてしまう。緊張状態も長くは続かない。そうなれば、平和を当たり前のものとしてきたファランティア人の気質が顔を出す。


 実際に家を焼かれ帝国軍に追われた経験のあるサウスキープの人々は、帝国への恐怖と怒りからまだ戦意を維持している。〈クライン川の会戦〉に参戦し、仲間を失った騎士や兵士も同様である。


 しかし、それもいつまで続くか分からなかった。戦意の低下は病のように伝染し、いずれ城内に蔓延するだろう。


 〈みなし子〉の傭兵は、現地の空気に飲まれないよう訓練されている。

 〝こいつらが生きようが死のうが関係ない〟と無関心に徹することができる。


 道端で膝を抱え暗い目をしてため息をつく農民兵を見ると、訓練されたギャレットは反射的にそう考えてしまう。傭兵の目には、彼らはもう死が確定している無意味な存在に思えるのだ。だがその度にギャレットは、その考えを頭から締め出そうと努力した。


 今のギャレットは傭兵ではないし、彼らの生死に無関心であってはならない。だから何とかしなければと思うのだが、良い方法が思いつかないのだった。


 早朝の自主訓練はギャレットにとっても、そうした苛立ちを忘れられる唯一の場だ。今も訓練に参加している者たちも、もしかしたら同じ気持ちかもしれない。ただ剣を振るい、汗を流して、怒ったり喜んだりする。


 できることなら一日中続けていたいものだが、帝国軍が攻めてくる気配はないとはいえ、ここで体力を使い果たすわけにはいかない。


 だから朝日が城郭の塔の先端を照らす頃には訓練を終えなければならなかった。それは同時に憂鬱な一日の始まりでもある。


 訓練に使った武具の片付けまで見届けて、ギャレットは最後にその場を離れた。


 農民兵やその家族たちが顔見知り同士で集まっている中を、朝食代わりに干した果物を口に含んで歩く。食料の支給は一日一回、正午に行われるので、昨日受け取った物を各自で工夫して食べているようだ。


 彼らはひそひそと何事か話していたが、ギャレットの姿を見てぴたりと話すのを止めた。そのまま気付かぬ素振りで通り過ぎると、背後で彼らは再び囁き始める。耳を澄ませば「帝国が……」とか「王都が……」とか言うのが聞こえた。また根も葉もない噂話をしているのだろう。それもどうにかしなければならない問題の一つだ。


 人々は何の根拠もないまま、〝すでに王都は陥落している〟とか、〝テイアラン王はもう死んだ〟とか、〝この城の外はもう帝国に占領されている〟などと噂している。それを放置すれば戦意の低下よりも深刻な事態に発展するかもしれなかったので、グスタフ公は無責任な噂の流布を禁止した。


 それでも噂は絶えず、ついに先日「根拠のない噂話を口にした者は鞭打ちの刑に処する」とまで言わなければならなくなった。


 フランツはこの問題をかなり深刻に受け止めている。人々の敵意が、壁の外にいる帝国軍ではなく、門を閉じている城主や貴族に向くのではと懸念しているようだ。彼は数日前に各門の守備隊長をベッカー家に忠実な近衛に代えるよう進言し、自らも正門の門塔に住み込むようになった。外の帝国軍はもとより、内部に対しても警戒を強化するようにと密かに指示を出している。


 城主のグスタフ公から布告が出ている以上、ギャレットは騎士として彼らを捕縛すべきだったが敢えて聞こえないふりをして、そのまま歩き去ろうとした。火に油を注ぐような真似はしたくない。


 その時、彼らの話の中に〝ヴィルヘルム〟と名前が出たような気がして、ギャレットは思わず振り向いてしまった。農民兵たちはぎょっとして、慌てて解散して逃げ去っていく。


 ヴィルヘルムが姿を消した件について、怪我の具合が良くないからと嘘を付いたのは失策だったかもしれない。もし今、その事が彼らに知られれば「城主は自分の息子だけ安全に逃がした」と言われかねない。


 そうなればグスタフの権威は失墜するだろう。現状に不満を募らせた人々が暴徒化することもあり得る。そう思うと、何とも言えず不安になるのだった。


 憂鬱な一日が繰り返された日没後、ギャレットはエッドと共に城壁の上にいた。周囲には他の兵士も警戒に立っているが、二人からは少し離れている。


 篝火に照らされた城壁の上は、帝国軍の陣営からは闇夜に浮かんで見えるだろう。逆に城壁の上から見る帝国軍の野営地は、暗闇の川に隔たれた向こう岸にある小さな町のようだった。野営地にぽつぽつと灯る明かりは、日常的な光景になりつつある。


 エッドは長弓ロングボウの具合を確かめたり矢羽を確かめたりしていたが、ふいに口を開いた。


「あ、そうそう。隊長に言っておこうと思っていた事がありまして」


 その口調は傭兵時代から変わりが無い。飄々とした態度は正規兵に嫌われたが、傭兵仲間には好かれていた。


「ん?」と、包囲軍の野営地を眺めていたギャレットは振り向いた。


「隊長には、感謝してます。ファランティアに連れて来てくれて。今はこんな事になっちゃってますけど」


 皮肉っぽいが嫌味のないエッドの物言いに、ギャレットは思わずニヤリとさせられる。


「どうした、突然」


「いえね、明日の朝日は拝めないかもしれないじゃないですか。今まで話す余裕も無かったでしょ。時間がある時に話しておこうと思っていたんです。俺にとっては、突然というわけでもないんですよ」


 これから命がけの戦いでも始めそうな文句だが、エッドの口調に深刻さはまるで無い。しかし、ふいに真剣な表情に変わる。


「隊長、俺――」


 その時、わっと城壁の下、城の中庭で騒ぎが起こった。ギャレットはエッドの言葉を手で遮って城壁の上から見下ろす。


 松明を持った衛兵と騎士に囲まれて、一人の男が引っ立てられているのが見えた。その集団の先頭に立つのはフィリベルトだ。松明が怒りの表情を照らし出している。引きずられて行く男は服装からして平民のように見えた。両手を後ろに縛られ、口には猿轡さるぐつわをはめられて唸っている。貴族と平民の別なく、大勢の人がその様子を見ていた。


「あの男……」と、隣でエッドが呟く。


「知っているのか?」


「確か、デニスって名前だったかと思います。例の禁止された〝根拠のない噂話〟を熱心に話してたので覚えてます……って、あ、隊長に言わなかったの、まずかったですか?」


「いや、報告して欲しければそう言っていたさ」

 ギャレットは立ち上がり、走って城壁を下った。


 男が引っ立てられていく様子を眺めている人々の列から抜け出して、騎士たちに大股で近付く。


「フィリベルト卿、何の騒ぎです!?」


 フィリベルトは怒りの滲んだ目でギャレットを一瞥してから、前方を睨んで言った。


「グスタフ公の布告した〝流言禁止〟に違反した者を逮捕しただけだ。布告に則り、明日、鞭打ちの刑に処する」


 温和なフィリベルトらしくない強い口調だった。単に通報を受けて逮捕したというわけではなさそうだ。


 そこへ前方からフランツが慌ててやって来る。


「父上、何の騒ぎです!?」


 フィリベルトは同じ説明をしたくないのか、フランツなら言わずとも分かると思ったのか、簡単に「〝流言禁止〟の違反者だ」と答えた。


 フランツはギャレットに視線を送った。詳しい事情を知っているか、とその目が問うている。ギャレットは首を左右に振った。


「私も同行します」


 フランツはフィリベルトに並んで歩き出し、ギャレットには視線でそれとなく後方を示す。示された方向に目をやると人々の向こうに見知った顔が見えた。フォーゲル家の従者が数人、不安げな顔をしている。彼らから事情を聞け、という事だろう。


 フィリベルトたちを見送った後、フォーゲル家の従者から話を聞いたギャレットは天守キープでフランツを探した。


 フランツは大広間へと続く廊下の途中で壁を背にして腕を組んでいた。ギャレットを待っていたらしく、先に口を開いた。


「まずい事になった。あれだけの人に見られてしまっては、いまさら解放するわけにもいかない。明日、鞭打ちの刑はやらざるを得ない。父上も少し冷静になってくれたが、逮捕したのは自分だから自分で刑を執行すると言っている」


 命令や規律に違反した場合、裁かれるのは傭兵団でも同様である。多くの場合、罪の重さに応じて決められた回数、最前列に立たされる。もし生き残れば罪は消える。戦場において規律は重要だ。いつ死ぬか分からない戦場で死刑は効果が薄いので、続く違反者が出ないよう充分な見せしめにする必要があるのだ。


 そういう意味では、鞭打ちの刑も同様である。先端が複数に分かれた革の鞭は皮膚を切り裂き、剥ぎ取る威力がある。その見た目の残酷さもさることながら、傷が癒えるまでの長い間、受刑者は地獄の苦しみを味わう。


 恐怖は人を抑えつけるが、それはやがて怒りか諦めか、あるいはその両方に変わる。特に戦場のような場所では、どうせこのまま死ぬのならいっそ――という自暴自棄な考えにもなりやすい。ギャレットはそれをよく知っている。


 このまま戦場に散るくらいなら、平和な世界を見られる可能性に賭けよう――そう決心した時の自分がそうだった。脱走に失敗して捕らわれるのも、当時はまだ人外魔境であった〈魔獣の森〉で喰われるのも、死ぬという意味では変わりない。ならば他人のために他人の命令で死ぬよりも、自分のために自分の命を賭けたほうが良いと思った。


 そういう選択をしなければならない状況に人々が追い詰められてしまうのをフランツは心配しているのだろう。


「無責任な噂話くらい、聞き流せなかったものか。父らしくもない。これで事態は次の段階に進んでしまうかもしれない」と、フランツは言った。


 グスタフ公は、貴族に対して流言禁止令の真意について事前に説明していた。鞭打ち刑という罰をちらつかせる事で、無責任な噂が広がって士気が低下するのを防ぐのが目的であり、力で平民を抑えつけるのが目的ではないという事だった。


 もし平民が貴族に敵意を向けるようになれば、その時こそ流言禁止令を存分に活用すれば良い、とも。


 ギャレットはこの話を聞いた時、小賢しいと思った。誰が進言したのかとフランツに問うと、それは彼自身であった。これは平民だけでなく貴族にも意味がある、と彼は説明した。貴族たちにいざとなれば流言禁止令という武器を使えるのだと思わせておけば、無責任な噂話を聞き流すくらいの余裕が持てるだろうと考えたらしい。


 フランツは見るからに苛立っていた。彼の心配を無視した行動を、自分の父がするとは思っていなかったのだろう。


「いや、フィリベルト卿はグスタフ公への忠誠心が篤い人だからな。運が悪かったとしか言いようが無い」


 ギャレットはフィリベルトを庇うつもりは無かったが、フォーゲル家の従者から聞いた話を聞く限りでは、こう言うしかなかった。


「どういう意味だ?」と、フランツが問う。


「エッドの話によるとデニスは以前から噂話をよくしていたらしいが、それくらいならフィリベルト卿も見逃したかもしれない。同行していた従者たちの話では、今晩は噂話程度では済まない発言があって、運悪くフィリベルト卿がそれを聞いてしまったということだ」


「なんとなく想像はできるが……どんな発言だ?」


「グスタフ公への批判と侮辱。特に、姿を見せないヴィルヘルムに対して〝自分の息子だけ特別扱いしている〟というような事を言ったらしい」


 実際にはもっと酷い言い様だったそうだが、ギャレットもそこまでは聞いていない。フランツは大きくため息をついた。


「それは……私でも、その場にいたら見過ごせなかっただろう。父が軽率だったというわけではないか。特にヴィルヘルムに関しては、我々は後ろ暗いところもあるからな……」


 ヴィルヘルムが一人で城を脱出していた件については今でも一部の者以外には真実を伏せている。それが失策だったと後悔はしても、〝後ろ暗い〟などとギャレットは思わない。だから痛い所を突かれたとは感じない。


 だがフィリベルトは違うのだろう。フィリベルトの忠誠心にはグスタフに対する尊敬が感じられる。尊敬する人物の陰口を叩かれて頭に来ないやつはない。


 ギャレットは「どうするんだ?」と尋ねた。フランツは肩をすくめる。


「どうしようもない。鞭打ちの刑は執行するしかあるまい」


 そして、壁から背を離して付け加える。


「これまで以上に、人心には注意を払う必要がある。君も注意してくれ」

 そう言い残してフランツは立ち去った。


 翌日の午前中に、中庭で刑は執行された。


 デニスの両手を縛っている縄は、打ち立てた木の柱の裏で固定されているので、柱に抱き着いているような姿勢になっている。口には丸めた布が詰め込まれた。

 執行者であるフィリベルトは無表情な仮面で温厚な顔を隠し、手には先が九つに分かれた革の鞭を持って罪人の背後に立つ。


 ギャレットは何度も鞭打ち刑を見ているので、その光景は珍しくない。むしろ珍しかったのは観衆のほうだ。


 こうした刑の執行は、抑圧された状況にある平民にとって緊張感のある残酷な見世物になる。だから執行場所は広場のような場所を選ぶのだが、溢れるほど観衆が集まるのが普通だ。しかしこの場にはわずか三〇人程度の平民しかいない。やはりファランティア人はギャレットの知る世界の人々とは違うのだ。


 刑の執行時間になって、フィリベルトは緊張した面持ちで鞭を振るい始めた。最初は躊躇いがちに、やがて熱心に、鞭を振るう。


 鞭が振るわれる度にデニスの背中は傷つき、血が飛び散って、剥がれた皮膚が垂れ下がる。口に詰め込まれた布のせいで、くぐもった悲鳴しか上げられない。冬の冷たく乾燥した空気の中では相当な苦痛のはずだ。


 一〇回ほど鞭を振るってフィリベルトも汗をかき、上着を脱いだ。食事の量が減って少し痩せたとはいえ、弛んだ中年太りの腹が露になる。巨漢のグスタフと一緒にいる時は目立たないが、痩せたデニスと比べれば充分に太って見える。まるで痩せ細った農民を鞭打つ太った貴族のように見えてしまって、これはまずいなとギャレットは思った。


 平民のうち半分は五回も鞭打った頃には立ち去っていた。見ていられないという顔をしていて、飽きたから帰ったというわけではなさそうだった。残った平民のうち、面白がっているのはその半分しかいない。それ以外はぐっと口元を引き締めた険しい表情で刑の執行を見つめている。


 規定の二〇回に達して、フィリベルトは鞭打ちを止めた。デニスは立っていられなくなり、ぐったりと柱に寄りかかっている。背中は血で真っ赤に染まり、剥がれた皮膚の一部が垂れ下がっていて酷い有様だ。真っ青な顔に対して、充血した目は涙を流している。


 反対に顔を赤らめたフィリベルトは、深く息を吐いた。


 悔い改めなければ、デニスはこのまま日暮れまで放置されるとギャレットは聞いている。許しを乞い、罪を認める告白ができるようにと、口に詰め込まれた布が取り出された。


 返り血を拭き取りながらフィリベルトが鞭打ち台から降りようとした時、デニスの口から言葉が漏れる。


「……てない」


 フィリベルトは足を止めて振り返った。その場が、しんと静まり返り、その瞬間を待っていたかのようにデニスは突然大声で叫ぶ。


「帝国には勝てない! 城門を開けて降伏すれば俺たち平民は助かる! だが、お前ら貴族どもは串刺しにされるだろう! そうなったらグスタフ、そしてフィリベルト! 貴様らには火をつけて、豚の丸焼きにしてやるぞ!」


 中庭に響き渡るような大声だった。その傷ついた細い身体のどこにそんな力があるのかと驚くほどの。


 フィリベルトは恐らく反射的に、再び鞭打ち台に戻って鞭を振るった。


 遮るもののないデニスの口から、恐ろしい絶叫が上がる。見ていた平民たちの顔が一瞬で恐怖に染まった。


 恐怖に染まったのは平民たちだけではない。ギャレットはフランツを見た。その顔ははっきりと恐怖に歪んでいる。


 なぜなら、決定的な言葉を言われてしまったからだ。一度は脳裏を過った者もあろう、しかし口には出さなかった一つの可能性を。


 城門を開いて貴族を差し出し、降伏すれば平民は助かるかもしれない――という可能性がある事を、デニスははっきりと口にしてしまったのだ。

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