最後の竜騎士と黄昏の王国

権田 浩

プロローグ

プロローグ

 頬に風を感じてランスベルはぴくりと反応した。髪がふわりと舞い上がるのを感じる。

 やがて風が吹き付けてくるのではなく、自分が風を切って進んでいるのだと理解できるようになると、ゆっくり目を開いた。


 目と同時に耳も開いたかのように、静寂の世界に音の奔流がやってくる。耳元で風がごうごうと唸り、空気をはらんだ翼のはばたく音がする。


 目の前には金色の体毛が乱舞していた。念のため竜騎士の篭手をつけているか確認してから、ランスベルはその金色の体毛を手で撫で付ける。それは人間の毛髪のように細くて柔らかいが鋼よりも硬いので、もし特別な篭手をせずにそんな事をすれば腕はバラバラになってしまうだろう。金色の体毛は獅子のたてがみのように続き、ドラゴンの長い首から角の生えた頭部まで続いている。


 金竜が身体を傾けたので、その背にいるランスベルの身体もぐらりと傾いた。いつもなら竜鞍の上にいるはずなのに、今日は直接ドラゴンの背に乗せられている。


 わっ、と声を上げてドラゴンの身体にしがみ付く。その声は風がうねる音でランスベル自身にも聞こえない。体毛の下の鱗に手が触れて、ランスベルはぞっとした。鱗の間に指でも挟もうものなら、たとえ竜騎士の篭手をしていても大怪我してしまう。


『どうすればいいの?』

 ランスベルはいつもそうしているように心の中で話しかけた。だが、金竜ブラウスクニースからの返答は無い。


 仕方なく金のたてがみを掴み、両足でドラゴンの首の付け根を力いっぱい挟みこんで落ちないようにする。どうにか姿勢を安定させることができたので、周囲を見回す余裕も得られた。


 金竜ブラウスクニースの背に乗って、ランスベルはファランティア王国の王都ドラゴンストーン上空を旋回していた。


 ほぼ正確な五角形をした王都は、レッドドラゴン城を中心に五つの門からそれぞれ幹線道路がまっすぐ伸びている。城を中心に小さな円と大きな円があって、それら環状道路は幹線道路と交差していた。真南にある白竜門、南東の紫竜門、北東の赤竜門から通じる幹線道路は城まで伸びているが、南西の黄竜門と北西の金竜門は内側の小さい円――内環状道路――に合流したところで途切れている。


 このように美しく設計された都を、ランスベルは他に知らない。しかしその美しさを真に理解できるのは空を飛ぶものだけだ。地上からでは、まっすぐ伸びる幹線道路の坂道と、その先にある城、そして主要な道路で区画整理された町並みを見る事しかできない。

 レッドドラゴン城と城下町は竜騎士によって作られた。上空からの見目を意識して作られているのもそのためである。


 王都の北には平原が広がり、人の手で管理された木立や森が点々としている。その先にあるギザギザした稜線の山は王都の人に〈王冠山〉と呼ばれていて、そこを越えると森はより深く、鬱蒼としたものになっていく。


 王都のすぐ南にはハスト湖があり、今も日光を反射させて白く輝いていた。そこから東に向かって帯のように伸びているのはソレイス川だ。貴婦人のように優雅で穏やかに流れる川で、王都からファランティア東部を横断して〈貿易海〉にまで続いている。その河口にはランスベルの故郷である港町ホワイトハーバーがある。ランスベルは七歳の頃から王都で暮らしているので、もう一〇年も帰っていないことになる。


 大きな翼で、しゅーっと風を切りながらブラウスクニースは上昇を続けた。

 ファランティア西部の入口とも言えるゴツゴツした岩だらけの高原や、南部へ続く〈黄金の道〉が山裾に沿って曲がりくねって大きな谷に入っていくところまでも見え、ちらりとホワイトハーバーの町さえ見えたような気がした。回転しながらどんどん上昇し、王都は小さな模型どころか、点のような大きさにまでなってしまった。地平線の丸さが、世界は球体であり、地面はその表面だと証明している。


 周囲はどんどん暗くなり、日没後の空のような色に変わっていった。吐く息は氷の粒が混じった白い帯となって流れる。高く上れば上るほど、太陽に近付くのだから暑くなるとランスベルは思っていたが、それは間違いだと教えてくれたのはブラウスクニースである。上に行き過ぎると逆に、凍り付くほど寒くなって呼吸ができなくなり、生物は死んでしまうと言っていた。二人はその領域に近づきつつある。


『ブラウスクニース、どうしたの!?』

 ランスベルは必死に呼びかけた。

『ブラウスクニース!』

 しかしブラウスクニースから返ってくる反応は、ひどく鈍くて、弱かった。

『聞こえないよ、ブラウスクニース!』


 世界は一変し、今や異変ははっきりと、ランスベルの眼前にあった。

 見上げた天には、ぽっかりと黒い穴が空いている。黒いというよりも、それは無だ。恐怖がランスベルの全身を貫き、身動きできない。息苦しさにあえぐ。


 上昇していたはずのブラウスクニースとランスベルは、いつの間にかその穴に向かってぐるぐる回転しながら落ちていた。

『ランスベル、我が騎士よ……』

 微かに、最後の力を振り絞るようにして、ブラウスクニースの思念が伝わってくる。

『すまぬ、お前と共に本物の空を飛びたかったが……それは叶わぬ』


 ブラウスクニースの夢の世界は崩壊し、消え去ろうとしていた。

 ファランティアの景色はどろどろに溶けて灰色の奔流になり、無に落ちていく。


 この時が来ることをランスベルは覚悟していたはずだった。しかし今、その覚悟はまるで役に立たなかった。幼子のように力の限り金竜の身体にしがみつき、その名を叫ぶ。その身体はぴくりともせず、風に翻弄される布切れのようだ。


 ついにランスベルは回転する金竜の身体から振り落とされた――が、すんでのところで体毛の先を掴む。

『ランスベル、教えたとおりに、意識を切り離せ。でなければ、お前の心も死に飲み込まれる。お前にはやらねばならぬ事がある。分かっていよう』

 死にゆくブラウスクニースの声は、それでも威厳に満ちたものだった。

『分かってる、分かってるけど……』

 二人の身体が引き離されたことで、ランスベルはブラウスクニースの目を見ることができた。大きな青い瞳には、慈愛の光が瞬いている。

『さらばだ、我が騎士。〈盟約〉を……最後まで……頼んだぞ』

『ブラウスクニース、待って!』

 ブラウスクニースは最後の力を使って、ランスベルの身体を、とん、と指で押した。


 夢の世界から現実に戻ってもランスベルの感覚は混乱したままで、自分がどんな状態なのか、上も下も分からなかった。混乱は徐々におさまり、自分が床の上に倒れているのだと分かった。瞼を開けながら半身を起こすと、激しい熱と光が眼球を刺す。


 ランスベルは炎と灰の中にいた。


 ドラゴンの炎が金竜の身体をあっという間に燃やし尽くして灰に変えていく。

 ドラゴンの炎は、ドラゴン自身に害を為すことはない。絆を結んだ竜騎士もそうだ。しかしその死後は、自らを焼き尽くして灰に変えるのだ。


 その事を知識として知っていても、目の当たりにするのは初めての事で、ランスベルはただ目を見開いて眺めていることしかできなかった。熱と光と灰はランスベルの目を刺激して涙を流させたが、涙の理由はそれだけではない。


 やがて炎は金竜の肉体を灰に変え、蝋燭が燃え尽きる瞬間のように、しゅっと一筋の白煙を立ち上らせて消えた。

 残された灰の山に、ドラゴンの巨大な白骨が横たわっている。その灰の中に腰まで埋まったまま、ランスベルは巨大な白骨に触れた。まだ熱を帯びているかと思われたが、まるで氷のように冷たかった。


 ブラウスクニースが死んでしまった。


 否定しようのないその事実を前に、ランスベルは子供のように声をあげて泣いた。

 巨大な肋骨の間、心臓があった位置に残された〈竜珠ドラゴンオーブ〉が、一人残された最後の竜騎士を慰めるようにチカチカと瞬いていた。

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