雨上がりのプリズム
遠野
第1話 雨と喪服
閉店間際のレンタルビデオショップは客もまばらで、先程やって来たサラリーマン以外誰もいない。店員もカウンターの前に一人いるのみで、店内は酷く閑散としている。
原田裕太はレジの前でぼうと立ち尽くしながら、間抜けな顔で欠伸をした。サラリーマンは、痛みきった金髪で両耳にピアスをつけた裕太を見ると、逃げるようにカーテンをくぐって行く。
外はひどく荒れており、店内のBGMを掻き消すように、雨と風の音が轟々と響く。残り十五分、こんな様子ではもう誰もやって来ないだろう。裕太は時計を見遣り、ふたたび欠伸をした。
ガシャン、自動ドアが開く。裕太は慌てて顔を上げ、「いらっしゃいませ」と声を掛けた。全身ぐっしょりと雨で濡れた男が、おぼつかない足取りでやって来る。真っ黒の髪は顔に張り付き、衣服からは雫が垂れている。
あれは喪服だろうか。彼のことを裕太は知っている。週に一度、閉店間際によく訪れる常連の男だ。男はちらりと裕太を一瞥し、CDコーナーへ向かった。一瞬見えた鋭い目は赤く滲んでおり、裕太は息を飲んだ。
見てはいけないものを見てしまった。
「はい、これ」
カーテンの向こう側でDVDを物色していたサラリーマンが、不思議そうな顔で裕太を見る。男に気を取られてしまっていて気づかなかった。DVDとカードがどんと置かれる。裕太は慌てて「はい」と机の上に並べられた派手なパッケージ達を袋に詰め、サラリーマンから料金を受け取り、サッと手渡した。サラリーマンは不遜な顔でそれを手に取り、再び逃げるように店を出ていく。
あと五分で店を閉めなくてはいけない。あの人は何を借りていくのだろう。裕太は店内に残るたった一人の客のことを思い返す。
彼が店を訪れるたびに、いつか話をしてみたいと思っていた。邦楽、洋楽問わず、彼の借りていくバンドはどれも裕太が好きなものか、気になっているもので、時折借りていく映画も、裕太が見て面白かったものか、見る予定のものばかりであった。だからきっと自分と好みが似ていると気になっていたのである。
閉店三分前に、男はレジへとやって来た。CDが数枚、レジの前に置かれる。彼なら既に聞いたことがありそうな洋楽バンドの旧盤が並んでいる。
「いらっしゃいませ」
裕太はいつもの通り笑顔を作って言った。男はどこかうわのそらで「一週間」とだけ掠れた声で言う。
濡れた黒い髪が額に張り付いて、雫を滴らせていることも気になっていないみたいだ。いや、気にする余裕すらもないように裕太の目には映った。線香の臭いが微かにする。紫の唇が震えている。裕太はCDを袋に入れ、そして彼に向かい、言った。
「タオル、要りますか」
男は怯えた顔で裕太を見た。子供の頃に捨て猫に手を差し伸べた時に見た、あの瞳を思い出した。
「いや、あの」
「傘、持ってますか?」
自分でも強引だと思った。けれども、言わずにはいられなかった。白い指が震えている。傘を持っていないのは、一目でわかる。
「持ってない、ですけど」
「もうすぐ閉店なので、持ってきますよ。ちょっとそこで待っててください」
「い、いいです! 家、すぐそこなんで」
ぶんぶん、顔の前で手を振る。慌てた様子が見て取れた。裕太は続ける。
「でもこんな雨ですし、お客さん、そんな濡れてたら風邪引きますよ」
待っていてください、逃げられぬよう男のカードを持ったまま、裕太は事務所に向かった。客に対し行き過ぎた行動であることくらいは分かっている。けれど、どうしても放っておけなかったのだ。
裕太はタオルと自分の持ってきた傘を手に取って、再びレジへ戻った。居心地悪そうに男が裕太を待っている。ぴったりのお金を用意していた彼の手からそれを受け取ると、裕太はタオルと傘、それからカードとCDを置いた。その勢いで裕太は彼を前に、頭を下げる。
「図々しいことしてすんません。気を付けて帰ってください」
「いい、礼を言うのはこっちだし」
裕太が顔を上げると、男は意外なことに笑みを浮かべていた。正しく言えば、今にも泣きだしそうな悲しい顔で笑った。
ありがとう、男はそう言って店を出て行った。
「裕太! 聴いてくれよ! この前ライブ行くって言ってたバンド、解散したんだって!」
学食で一人、ラーメンをすすっていると友人が勢いよく昼食のプレートをテーブルの向かいに置いた。サークルで一緒のバンドを組み、ドラムを叩いている鈴木だ。
解散したと言うのはこの前会った時に、チケットが当たったと喜んでいたインディーズのあのバンドのことだろうか。ボーカルの声とギターの音が印象的な、裕太も好んでよく聴いていたバンド。
「えっ、『Tactics』の話? だよな? なんで」
「なんかギターが事故で亡くなったらしくてさ。公式サイトに解散って書いてあった」
裕太は繊細なギターの音色を思い出し、チクリと胸が痛んだ。あんな美しいギターを弾く人がこの世にいないなんて、嘘だろう。
「ほんとショックだわー。メジャーデビューもそろそろだって言われてたのに。あんないいバンドなかなかねーのにさー」
「そう、だな……俺もあんなギター弾けたらいいなって思ってた」
「分かる、俺あのギター好き。それにボーカルも。めっちゃ上手いしカッコいい声してるから、このままやめるってなったら勿体無いよなあ」
きっと色んなバンドから誘いが来てるんだろうけどさ、と鈴木の言葉に裕太は頷く。頭の奥でボーカルの力強い歌声が鳴り響く。
大学進学を機に、裕太は関西の片田舎にある実家を飛び出し、東京へやって来た。東京に来て一年と少し、こちらの暮らしにも慣れてきた。裕太は常連の男を思い返す。彼もおそらく、関西の出身だろう。ところどころ、イントネーションがそんな感じがした。
千葉馨、それが彼の名前だ。カードにそう記してあった。
あの夜から一週間ほど経ち、いつものように閉店間際のレンタルビデオ店に馨は現れた。律儀に洗ったタオルと、折り畳みの傘の入った袋を持って。アーモンド形の瞳が照れくさそうに裕太を見つめ、頭を下げた。
「この前はどうもありがとうございました」
そう言いながら袋とCDを一緒に裕太に押し付ける。
「いえいえ、わざわざ洗って返してもらって、こちらこそありがとうございます。あれから風邪とか引いてませんか? 顔色、良くなかったんで」
「そんな気にしなくてもいいですよ。大丈夫です」
にこり、裕太が微笑みかけるのにつられて馨もぎこちなく笑った。裕太はCDを手に取り、機械に通す。このCDは裕太も好きなバンドの新譜だ。この人と話をしてみたい、裕太は改めてそう思った。
「このバンド、好きなんですか?」
「え、あ、まあ」
「俺も好きなんです。ずっと気になってたんです。あの人が借りていくの、いっつも俺の好きな奴ばっかやなあって」
CDを袋に入れて、料金を受け取り、袋を手渡す。緊張していた。手が震える。
「だから、お話ししたいな、なんて」
ついでに一言付け加える。馨の大きな瞳がパッと見開かれた。裕太の緊張が伝わったのだろうか、照れくさそうにくしゃと笑って、「いいよ」と言った。
「このあと時間あります?」
「ある。あと少しで閉店時間だろ? そこのマクドで待ってる」
「すんません、すぐ行きます」
じゃ、またあとで、馨が手を振って店を出ていく。あの日と違う笑顔がそこにはあった。
言ってしまった! 裕太は顔がにやけるのを止められなかった。店を閉めると慌てて帰り支度をして走り出す。とっつきにくそうな印象だったが、くしゃと笑う顔を見たら、そんなことはなかった。案外、とっつきやすい人なのかもしれない。駆け足で近くのマクドへ向かう。ポテトとドリンクを頼むと、馨の待つ席を探した。ぽつんと一人、バニラシェイクを啜っている馨を見つける。
「なんでそんな勢いよくくんの」
そんな裕太をカラカラ笑いながら馨は迎え入れた。馨の向かいの席に座る。深夜のファーストフード店は、客もまばらで話し声もあまり聞こえない。BGMの流行りのバラードだけが閑散とした店内に流れている。
「原田くん、だっけ? 名札に書いてあった」
「はい、原田裕太って言います」
「俺は千葉、千葉馨」
すっと手が差し出される。裕太は恐る恐るその手を握った。軽く握手をする。節ばった指は渇いていた。
「楽器やってる? ギターとか」
「はい。一応、サークルでバンド組んでて。ギター自体は中学の頃からやってます」
「そんな感じの指だって思ってた。結構練習してるみたいだな」
テーブルの上の裕太の手を指差して馨は言う。彼もギターをやっているのだろうか、裕太がそう尋ねる前に、馨から質問が投げかけられる。
「何歳?」
「今年で二十歳になります」
わっかいなぁと馨は笑った。
「俺その五歳上」
「うそ、同い年くらいだと思ってました」
「そんなわけない」
童顔、というのだろうか、馨はずいぶんと幼く見える。鋭い目と寄った眉間のおかげでとっつきにくい印象はあるが、笑った顔は少年のようだ。
それから好きなバンドや映画などの趣味の話をして盛り上がった。二人は面白いほど好きなものが同じで、どれだけ話しても話足りなかった。すぐに連絡先を交換する。二人とも自然に、「裕太」「馨さん」といつの間にか呼び合うようになっていた。
気が付けば店に入ってからとうに一時間は経っている。馨はアカン、と時計を見、慌てた様子で言った。
「明日も大学あるんだろ?」
「午後からなんで大丈夫ですよ。家からすぐですし」
「一応未成年なんだから、早く帰らないと」
さっきまで子供みたいな顔で話をしていたのに、急に大人の顔になって馨は立ち上がる。ええっと名残惜しく思いながらも裕太も鞄を持って席を立った。
店を出て、並んで街を歩く。住んでいるところも近いらしく、裕太の家の数十メートル手前で「俺こっち曲がったところやから」と馨は向きを変え言った。
「いつでも連絡してください」
「ああ、そっちも」
「あ、あと七月の初めに学祭でライブをやるんで、良かったら来てください」
思い切って裕太は言った。馨は直ぐに笑って頷く。
「分かった。予定空けとく」
じゃあ、と手を振って馨は去って行った。
面白い人だ。いつもの帰り道を歩く足も軽い。こんなに趣味が合う人に会ったのは初めてだ。馨は裕太よりも多くのことを知っている。裕太の知らない話まで話してくれた。まだ互いに知らないことは沢山あったが、もっと知りたいと思った。
馨は出会った時のあの表情が嘘のように、穏やかで柔らかな表情をしていた。それがなによりも裕太は嬉しかった。あの悲しい顔が焼き付いて離れない。だから馨の笑った顔を見るだけで、裕太は安心した。
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