第九話・5

 僕が浴室からでると、ちょうど香奈姉ちゃんが下着を身につけているところだった。


「あ……」


 僕は、思わず声をもらす。

 これは、見ちゃいけない光景だ。


「ん? どうしたの?」


 香奈姉ちゃんは、こちらを振り向くと思案げな表情を浮かべる。

 その顔は、僕を意識してるような感じじゃない。

 今の僕は、バスタオルを手に持っているだけの全裸だというのに。

 香奈姉ちゃんが、そんな感じなら僕も意識する必要はないか──。


「いや、なんでもないよ。着替えは、ここにあるものでいいのかな?」


 僕は、籠の中に入っていたジャージを目にして、そう聞いていた。

 香奈姉ちゃんは、着替え途中なのにもかかわらず笑顔で答える。


「うん。楓のサイズに合わせて買ったものだから、たぶん大丈夫だと思うんだ」

「え? 新品なの?」

「そうだよ。私が、楓のために新しく買ったものだよ」

「そうなんだ。…ありがとう」


 着替えを用意してくれていたなんて。

 しかも、香奈姉ちゃんが買ってくれたジャージか。

 別に誕生日というわけでもないのに。


「お礼は別にいいよ。またデートに付き合ってくれるんだったら、安いものよ」

「デートか。僕のバイトが休みの日なら、いつでも付き合うよ」

「ありがとう」


 香奈姉ちゃんとのデートは楽しいから、断る理由がないんだよね。

 いつも香奈姉ちゃんが、デートの場所や日程を決めているから、たまには僕がそれをやらないといけないな。


「それじゃ、今度はね。…そうだなぁ。一緒に街を歩きまわらない?」

「別に構わないけど。ナンパに出会さないかな? 大丈夫?」

「それなら心配いらないよ。楓と腕を組んで歩けば、ナンパなんてされないって──」

「それならいいんだけど……。もし香奈姉ちゃんに何かあったら──」

「わかってるよ。楓が私を守ってくれるんでしょ?」

「うん。そのつもりだけど」

「それなら安心じゃない。私も楓から離れる気はないから、何も問題ないよね」


 香奈姉ちゃんは、近くに置いてあった服を手に取り、それを着ながらそう言った。

 僕が見ているにもかかわらず堂々と着替えをしてるんだから、なんといえばいいのか。


「たしかに。問題はないけど……」

「問題があるとしたら、楓が私のことを一人にしないかどうか心配で」

「僕が香奈姉ちゃんを一人に? しないしない。僕は、そんなことしないよ」

「ホントに?」


 香奈姉ちゃんは、ジーっと僕のことを睨んでくる。

 その疑いの目は、何なんだ。

 少なくとも香奈姉ちゃんとのデート中は、香奈姉ちゃんしか見ていないんだけど。


「ホントだよ。僕は、香奈姉ちゃんを一人になんかしないよ」

「ふ~ん……。まぁ、楓が嘘を言うとは思えないから、信じてあげてもいいけど──」


 香奈姉ちゃんは、もじもじとした様子でそう言った。

 香奈姉ちゃんがそう言うときって、大抵の場合、何かを求めてくる時だ。

 僕は、まだ着替えの途中だったので、ジャージの下を履きながら聞いてみる。


「何かしてほしいことでもあるの?」

「よくわかってるね。さすが楓だよ。感心感心」

「感心するのはいいんだけど、何をしてほしいの?」

「とても簡単なことだよ」

「例えば、掃除を手伝ってほしいとか?」


 僕は、冗談のつもりでそう言った。

 …というのも、香奈姉ちゃんの家の中は、普段から片付いていて、掃除も行き届いている。

 だから、掃除を手伝ってほしいっていうのは、絶対にないことだ。


「掃除は…間に合ってるからいいかな。だけど夕飯の準備とかがまだだから、それを手伝ってほしいかなって……」


 香奈姉ちゃんは、微笑を浮かべてそう言った。

 まぁ、そのくらいなら、お安い御用かな。


「うん。任せてよ」

「ありがとう、楓。大好きだよ」


 香奈姉ちゃんは、そう言うと僕に抱きついてきた。

 シャワーを浴びた後だからか、香奈姉ちゃんからいい匂いがする。

 桃の香りだろうか。

 香奈姉ちゃんの身体から、漂ってきているような感じだった。

 普通のシチュエーションなら、これは嬉しいんだろうけど、僕はまだ着替えの途中だし……。


「あの……。香奈姉ちゃん。まだ着替えの途中なんだけど……」

「あ……。ごめん」


 香奈姉ちゃんは、そっと僕から離れる。

 僕は、香奈姉ちゃんが用意してくれた替えのシャツに手を伸ばし、言った。


「とりあえず夕飯の準備を終えたら一旦家に帰るけど、それでもいいかな?」

「あー、うん。それでもいいかな」


 めずらしく、香奈姉ちゃんが曖昧にそう答える。

 まだ何かしてほしいんだな、これは……。


「どうしたの? まだ何か頼みごとを聞かないと信用できない?」

「ううん。そういうことじゃなくて、その……」

「何でも言ってみてよ。大抵のことなら、やってあげるからさ」


 僕は、ジャージの上を着ながらそう言った。

 そう言ったのが間違いだったかもしれない。


「ホントに?」


 香奈姉ちゃんは、希望に満ちた目で僕を見てくる。


「うん。男に二言はないよ」

「それならさ。夕飯の準備の前に、私の部屋に来てくれないかな」

「香奈姉ちゃんの部屋に? 何で?」

「男に二言はないんでしょ?」

「うん」

「だったら、黙って私の部屋に来てよ」


 香奈姉ちゃんは、僕の腕を掴むとそのままグイッと引っ張っていく。

 お互いに着替えも終わったところなので、別に問題はないけど……。

 香奈姉ちゃんの部屋で何をするつもりなんだろうか。


 香奈姉ちゃんの部屋に着くなり、香奈姉ちゃんは僕をベッドの上に座らせた。

 僕の方は、あまりにも突然のことに頭の整理がつかず、呆然とした表情で香奈姉ちゃんを見上げる。


「香奈姉ちゃん。一体何を?」

「シャワーも浴びてきたし、準備はオッケーだよね」


 香奈姉ちゃんは、いきなり服を脱ぎ出して僕に迫ってきた。

 僕は、錯乱状態になりながらも、後ろに下がる。


「ちょっ……⁉︎ 香奈姉ちゃん⁉︎ 準備って、一体何のこと?」

「今から、楓とスキンシップを図ろうと思ってね。ちょっと恥ずかしいけど、私が我慢すればいいんだよね」


 香奈姉ちゃんは、そう言って下のハーフパンツに手を伸ばす。

 それまで脱ぐつもりなのか。


「いやいや。そういう問題じゃないでしょ」

「それじゃ、どうしたらいいかな?」

「何が?」

「楓ともっと仲良くなるには、どうしたらいいと思う?」

「今のままで充分だと思うよ。少なくとも、僕と香奈姉ちゃんとの仲はいい方でしょ」


 僕は、香奈姉ちゃんの手を取り、安心させるようにそう言った。

 香奈姉ちゃんは、それでも心配なのか不安そうな表情になる。


「──でも。楓が他の女の子のことを好きになってしまったら、どうしようかと思って」

「大丈夫だよ。僕には、付き合っている女の子はいないから」


 他の女の子って、どんな女の子のことを言ってるんだろうか。

 すごく気になるけど、そうしたら香奈姉ちゃんの言う『浮気』になっちゃうだろうし……。ここは、気にしないでおこう。


「ホント?」

「嘘をついてどうするの?」

「それじゃあさ。例えば、奈緒ちゃんとかはどうなの?」

「どうって、言われても……。普通に好きだよ。香奈姉ちゃんの友達じゃないか」


 どうして、ここで奈緒さんがでてくるんだ。


「そうなんだけど。奈緒ちゃんの方が、私よりも可愛いし……。楓にとっては、魅力的な女の子に映っているのかなって思って……」

「たしかに奈緒さんは可愛いけど、僕からしたら先輩だよ。先輩が魅力的に映ってしまうのは、仕方がないんじゃない?」

「それでも──。私には、何の魅力もないのかなって思うと──」


 何でネガティブな発想になってしまうんだろうか。

 ホントにらしくないな。

 いつもの香奈姉ちゃんは、どこへ行ってしまったんだ。


「大丈夫だよ。香奈姉ちゃんは、充分に魅力的な女の子だよ。僕が保証する」

「そうかな?」

「そうだよ。この間、男子に告白されてたじゃない」

「うん。興味が無かったから、お断りしたけど」

「…だけど、それって、香奈姉ちゃんが魅力的だって思ったから、告白したんじゃないのかな」

「そう…なのかな?」


 香奈姉ちゃんは、思案げな表情でそう聞いてくる。

 香奈姉ちゃんは、昔から自分のことになると無頓着なところがあるからなぁ。

 他の男子から告白されても、自分が異性からモテているってことを認識していない可能性が高い。


「きっとそうだよ。香奈姉ちゃんって、男子からの人気が高いからね。本人にも気づかないような魅力があるんだよ」

「そんなものなの?」

「うん。そんなものだよ。だから、香奈姉ちゃんがそんなこと気にする必要はないんだよ」

「そっか……。ありがとう」


 そう言うと香奈姉ちゃんは、僕に抱きついてきた。

 さて、僕とのスキンシップはこのくらいでいいよね。

 そろそろ夕飯の準備をしないといけないな。


「──ところで、夕飯の準備はどうするの?」

「それはもちろん、楓にも手伝ってもらうよ」


 香奈姉ちゃんは、僕に抱きついたままそう言っていた。

 まだ献立を聞いてないから、何を作ったらいいのかわからない。

 とりあえずは、香奈姉ちゃんが離してくれるまではこのままかな。

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