第五話・9

 兄はまだスランプから立ち直っていないようだった。

 兄が弾くギターの音源に合わせて、僕はベースを弾いていくんだけど、兄が何度も音を外し、その度にイライラして近くにあった僕の私物に当たり散らす。


「クソッ!」


 それを黙って見ていた僕は、兄が音を外す度に演奏をやめる。

 うーん……。さすがに、ものに当たるのは良くないな。

 あんまりにもひどいようだったら、兄を部屋から追い出すってことも考えてないわけじゃないけど……。

 奈緒さんとのこともあるので、ここは僕がぐっと堪えて我慢するしかないか。


「イライラする気持ちはわからないでもないけど、僕の私物に当たり散らすのだけはやめてくれないかな」

「わかってるよ、そんなこと。俺だって、ものに当たり散らす行為はよくないってわかってるんだ。だけど、さっきからある部分が引っかかってしまって、そこからミスしてしまうんだよ」


 なるほど。それでイライラしてるのか。

 まぁ、気持ちはわからないでもないんだけど。

 練習に使っている部屋は、僕の部屋だ。

 僕の部屋の私物に当たり散らされたんじゃ、たまったもんじゃない。


「そんなに焦らなくてもいいんじゃない」

「ライブが近いんだぞ! 俺じゃなくても焦るぞ」

「こんな時、焦ったっていい結果は得られないよ。むしろ失敗するだけだよ」

「そう言われてもな。ユウジから『ライブが近いから急いでくれ』って言われているし」

「人から何言われたって、兄貴の不調が治るわけじゃないんだから」

「そりゃ、そうだけどよ。こういう時って、どうしたらいいんだよ」

「まず溜まったストレスを発散させること。それしか、不調から立ち直る方法はないと思う」

「溜まったストレス…て、俺がストレスを溜めてるっていうのか?」

「イライラしてるのは、ストレスが溜まっている証拠だよ」

「ストレス発散か……。久しぶりに香奈を誘ってどこかに出かけようかな」

「できたら、その方がいいと思うよ」

「そうだな。今度の日曜日にでも誘ってみるか」


 兄は、閃いたかのようにそう言った。

 ん? 今度の日曜日って。

 僕は、改めてスマホを確認する。

 ああ、うん……。たしかに香奈姉ちゃんとのメールのやりとりで約束しているな。

 今度の日曜日は、香奈姉ちゃんとデートの約束をしているから無理だ。

 たぶん、兄は断られると思うな。


「今度の日曜日は、たぶん無理だと思うよ」

「なぜだ?」


 兄は、訝しげな表情で僕を見る。

 そんな顔で見られても、デートのお誘いは香奈姉ちゃんからきたわけだし、僕にはどうにもできないよ。


「今度の日曜日は、香奈姉ちゃんとデートの約束をしてるんだ。だから、兄貴が誘っても無理だと思う」

「ちょっと待て。お前が、香奈とデートだと⁉︎ それって、本当なのか?」

「本当だよ。香奈姉ちゃんと約束もしたからね」

「デートの場所はどこなんだよ?」

「そんなの教えるわけないでしょ。プライベートのことなんだから」

「そうか……。デートなのか……」


 どうやら、僕と香奈姉ちゃんがデートをするのは、兄にとっては衝撃的なことらしい。

 兄は、真顔になり僕にこう訊いてくる。


「──楓はよ。香奈のことをどう思っているんだ?」

「どうって?」


 僕は、思案げに首を傾げた。

 すると兄は、ハッキリと僕に言う。


「この際だから言っておくけど、俺は香奈のことが好きだ。だから、香奈のことを諦めることはできないのか?」

「僕からは何とも言えないよ。諦めるも何も、僕は香奈姉ちゃんの意思を尊重したいから」

「だから、お前から上手く言ってやってくれないか。『僕には、他に好きな人がいるから香奈姉ちゃんとは付き合えません』ってさ」

「僕に嘘をつけとでも?」

「正直、お前に香奈は勿体ないんだよ。お前には、それなりにふさわしい女の子が出てくるって──」


 なんだよ、それ──。

 兄が香奈姉ちゃんと付き合いたいから、僕が香奈姉ちゃんを諦めろと?

 そんなことできるわけないだろ!


「ハッキリ言うけど、僕はそんなことを言うつもりはないよ」

「どうしてだよ⁉︎ お前が諦めてくれれば、すべてが丸く収まるっていうのに──」

「それは兄貴にとって…でしょ? 僕にとっては、今の関係さえも壊しかねないような危険なことだよ」

「それは……。そうかもしれないが、お前が香奈を諦めてくれればいいんだよ。…たったそれだけのことだろうが」

「──とにかく。兄貴の練習には、付き合うよ。…だけど、香奈姉ちゃんのことを諦める気はない。もちろん、今度の日曜日のデートも、行く予定だよ」

「そうか。お前がそのつもりなら、俺に言えることは何もないし、それを止めることもできない。俺は、俺なりのやり方で香奈に告白するだけだ」

「それじゃ、お互い恨みっこなしだね」

「そうだな。俺は負けるつもりはないからな」


 兄がなんて言おうと、すべては香奈姉ちゃんが決めることだから、僕も強くは言えないんだよなぁ。

 兄の気持ちもわからないでもないんだけどさ。

 とりあえず、兄が香奈姉ちゃんのことを好きなのはよくわかった。でも、今は兄の練習が最優先だ。


「それで、どうする? …まだ練習を続ける?」

「そうだな。…今日は、もういいや」


 兄はそのまま立ち上がり、部屋の扉の側まで行くと「邪魔したな」と言って、僕の部屋から出ていった。

 あまりに颯爽と去っていったので、呆然となる。

 僕は、ベースを持ちながら


「せめて、『ありがとう』くらい言ってほしかったな」


 と、言っていた。


 香奈姉ちゃんとデートか。

 メールとはいえ、香奈姉ちゃんとそんな約束をしてしまったんだな。

 あの時は彼氏彼女感覚ではなく、姉弟感覚でオーケーしてしまったが、今回は違う。


「僕と香奈姉ちゃんって付き合っているんだよね?」


 そんな自問に答えてくれる人はいない。

 僕は、おもむろに机に向かうと鍵のかかった引出しを開けた。

 引出しの中には、四人の女の子の下着が入っている。

 ごちゃ混ぜに入っているわけではない。きちんと整頓しているのでパンツ自体は大丈夫だ。

 僕は、引出しの中に入っている香奈姉ちゃんのパンツを手にとり、ギュッと握りしめた。

 香奈姉ちゃんが穿いていたパンツ。可愛いデザインのそのパンツは、思わず勝負下着かと思ってしまうくらいの完成度だ。

 力を入れて握りしめるとシワになってしまうので、注意が必要かな。

 まぁ、そんなことをして、何になるのかはわからない。なんとなく香奈姉ちゃんのぬくもりがそこにあるような気がして、いつの間にかそうしていたのだ。

 そして、そのまま匂いを嗅ごうとして…僕はハッと我に返り、踏み止まる。


「…いけないいけない。何を考えてるんだ、僕は……。これじゃ、まるで変態じゃないか」


 僕は、すぐに香奈姉ちゃんのパンツを元の引出しの中に仕舞い、引出しに鍵をかけた。

 ──それにしても。

 こんなものが、僕の机の引出しに入ってるだなんてことが兄に知れたら、なんて言われるかわからないな。

 女子校に伝わっているジンクスだからって、ホイホイとパンツを男の子に渡すものなんだろうか。

 おそらく奈緒さんの入れ知恵なんだろうけど、女の子のパンツを男の子が持つのは、やっぱり恥ずかしいな。

 母にすら、四人の女の子のパンツのことは言ってないのに……。

 ──まったく。香奈姉ちゃんたちは、何を考えてるんだか。

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