第五話・4
ここってたしか、兄たちがよくお世話になっているライブハウスだ。僕は出入りしたことがないからよくわからないけど。
「ここって、私たちがよく出入りしているライブハウスだよ」
「そうなんだ」
「今度、みんなで行こうと思っていたんだけど、奈緒ちゃんがこの場所に一人で入っていくっていうのはめずらしいな。何かあったのかな?」
「とりあえず中に入ってみる? 奈緒さんがいるのは間違いなさそうだし」
そう言って、僕はライブハウスに入ろうとする。ところが、香奈姉ちゃんは僕の腕を掴み
「ダメよ。これ以上は、奈緒ちゃんに悪いよ。プライバシーの侵害になる」
と、そう言った。
それじゃ、なんであとをつけたんだよ。…ってツッコミたい気持ちになったが、それをはっきり言うことはできず、その場でため息を吐く。
「それじゃ、そのまま家に帰るかい?」
「う~ん……。どうしようかな?」
香奈姉ちゃんは、らしくもなく悩んだ様子でそう言った。
普段の香奈姉ちゃんなら、悩むことなく中に入っていくところだが。
この時ばかりは、状況が違うのかすごく悩んでいる。
「奈緒さんが何をやっているのか見てくるのも、リーダーとしての役割だとも思うけど」
「そうかな?」
「奈緒さんのことが心配なら、迷わず見に行ってみるよ」
「そっか……。そうだよね。弟くんの言うとおりだよね」
香奈姉ちゃんは、決心すると迷わずライブハウスに入っていった。僕の腕を掴んだまま──。
いや、なんで僕まで一緒なのかな?
中に入ると、室内は異様なほどの歓声と熱気に包まれていた。
舞台の上では、バンドを組んでる人たちが演奏や歌を披露していた。
僕はあまりライブハウスに入ったことはないけれど、夜のライブハウスはいつもこんな感じだろうし、これがバンドをやってる人たちの本来の姿なのだろう。
僕と香奈姉ちゃんは敢えてお客さんの方に紛れ、楽屋には行かず応援の方にまわっていた。
奈緒さんに見つからないようにするには、この方がちょうどいいと判断したのだ。
「奈緒ちゃん、いるかな?」
「ここに入っていったから、間違いなくいるとは思うけど……」
僕は、そう言って周囲を見回す。
言うまでもないが、その中に奈緒さんの姿はない。
そして、しばらくしないうちにステージの方から次のバンドのメンバーたちが出てくる。
それと同時に湧き上がるファンたちの歓声。
バンドのリーダーらしき男の人が声を上げる。
「──みんな! 今日は来てくれてサンキューな! 是非とも俺たちの曲を聴いていってくれ」
言い終えるとリーダーらしき男性は、始めとばかりにギターを掻き鳴らす。
それと同時に、全員が演奏しだした。
どうやら曲が始まったようだ。
香奈姉ちゃんは、向かって右側にいるバンドメンバーの女の子の姿に気づき、僕の腕をグイグイと引っ張る。
「…ねぇ、あれ。奈緒ちゃんじゃない?」
「え?」
香奈姉ちゃんの訝しげな言葉に、僕は半信半疑になり女の子の方に視線を向けていた。
まさかも何もなかった。疑う余地すらもない。そこにいたのは、よく見知った顔だったのだ。
ステージの上でギターを演奏している女の子は、間違いなく奈緒さんだった。
「ホントだ。奈緒さんだ。なんで奈緒さんが、こんなところに?」
「奈緒ちゃん。どうして……」
香奈姉ちゃんは、あまりのことに衝撃を受けたのか呆然となっている。
これはどういうことなのか。
言えない事情があるって奈緒さんは言っていたけど、今回、組んでいるバンドと何か関係があるのかな。
とにかく、この場所にこれ以上いるのは非常にまずい。奈緒さんに見つかったら、なんて言われるか。
「ここを出よう。香奈姉ちゃん」
「え? ちょっと……」
「いいから──」
僕は、すぐに香奈姉ちゃんの腕を掴み、ライブハウスを後にした。
香奈姉ちゃんは、ライブハウスの外に出てもまだ呆然としたままで、僕が「香奈姉ちゃん?」と声をかけても無反応だった。
仕方がないので近くにある喫茶店に入って、香奈姉ちゃんが正気に戻るのを待つことにした。
とりあえずコーヒーを二つ注文しておいたので、しばらくしないうちに運ばれてくる。
香奈姉ちゃんは、運ばれてきたコーヒーにミルクと砂糖を入れ、飲み始めた。
「…香奈姉ちゃん。大丈夫?」
「うん……。もう平気だよ」
香奈姉ちゃんは、そう言って微笑を浮かべる。
こんな時、なんて言っていいのかよくわからないが、それでも僕の口からは言葉が出ていた。
「それで、どうするつもりなの?」
「どうするつもりって、何が?」
香奈姉ちゃんは、思案げに首を傾げる。
たぶん、状況がよくのみこめないといった表情だ。こんな時は、直接、奈緒さんに訊いてみるのが一番なんだけど。
「今回の事、奈緒さんに問いただしてみるつもりなのかなって」
「う~ん……。どうしたらいいと思う?」
香奈姉ちゃんは、僕にそう訊いてくる。
まぁ、僕が香奈姉ちゃんの立場だったら、敢えては聞かない判断をするけど。そう思いつつ、僕はコーヒーを一口飲み、口を開く。
「どうしたらいいかって聞かれても……。僕なら、敢えては聞かないけどね。奈緒さんの判断でやってることだとも思うし……」
「そうだよね。聞かない方がいいよね?」
「僕個人の判断としてはね」
「理恵ちゃんは、この事を知って、何も言わなかったのかな?」
香奈姉ちゃんは、急に理恵さんのことを言い出す。
たしかにあの時、理恵さんは何かを知っているようだったな。
「たぶんね。理恵先輩は、奈緒さんの事情を知っていて何も言わなかったようにも思えるよ」
「それじゃ、理恵ちゃんから事情を聞いた方がいいのかな?」
「いや、それもどうかと……。一応、理由ありなんだし、しばらく経てば奈緒さんか理恵先輩の方から事情を説明してくるとは思うから、それまで待った方がいいのかなって、僕は思うけど」
「そういうものなの?」
「普通はそういうものだと思うけど」
「そっか。普通はそういうものなのか……。わかった。弟くんの言うとおり、しばらく何も言わないで様子を見てみることにするね」
「うん。それがいいと思うよ」
僕は、そう言ってコーヒーを飲んだ。
香奈姉ちゃんは、安心したのか僕の顔を見て自然と笑顔になっていた。
──そう。
何かあったら、奈緒さんの方から言ってくるから、問題はない。だから大丈夫なはずだ。たぶん。
自分の家に帰ると、いつもどおりに香奈姉ちゃんが「お邪魔します」と言って、家の中に上がっていった。
ちなみに、今日はもう練習はない。
だから、これ以上一緒にいても、意味はないと思うんだけど。
「ねえ、弟くん。…この後、何か予定はあるかな?」
香奈姉ちゃんは、何を思ったのかそう訊いてくる。
予定と言われてもな。汗をかいたから、お風呂に入ろうかと思っていたところだが……。
「この後の予定? 特にはないけど……」
「それならさ。これから弟くんの部屋に行って、二人で遊ぼうよ」
「いや、ちょっと待ってよ。今、そんな事をしてる場合なの? 今はバンドのこととか、よく話し合う必要があるかと思うんだけど……」
「みんながいないんだから、今そんな話をしたってしょうがないでしょ。練習するにしても、実にはならないとも思うし」
「それは、そうだけど……」
「そんなことよりも、今は私と二人っきりなんだから、私のことは香奈って呼んでよね。弟くんは、私の彼氏でしょ?」
「いや、そんなこと言われても……。僕は、これからお風呂に入ろうかなと……」
「お風呂かぁ~。そういえばバイトの帰りだったもんね。…まだ入ってないや」
「よかったら、入っていくかい? 順番的には、一番目になるけど」
「一緒に入るっていう選択肢はないのかな?」
香奈姉ちゃんは、思案げな顔でそう言う。
またしても、それなのか……。
ここは、きっちりとお断りしておかないと。
「ごめん……。さすがにそれは……」
「ダメなの?」
と、香奈姉ちゃん。
今度は、おねだりするように言ってくる。
う……。ダメだよ香奈姉ちゃん。
お願いだから、そんな悲しそうな目で見ないでほしい。
「香奈さんが一人で入るのなら、何も問題ないんだけど……」
「嫌……。楓と一緒がいい……」
香奈姉ちゃんは、そう言って僕の服の袖を掴む。
そんな顔をしたって、ダメなものはダメだ。
僕は、毅然とした態度で言う。
「ダメだよ、香奈さん。前にも言ったと思うけど、いくら二人っきりだからって一緒にお風呂に入るのは、一線を越えてる行為だと思う。なによりいけない事だと思うよ」
「そう言っていても、私が入っていったときには許しているじゃない」
「それは……。香奈さんが言うことを聞かずに浴室に入ってくるから、仕方なく──」
「そっか。楓は、そっちの方がいいんだね」
香奈姉ちゃんは、何を思ったのかそう言って笑みを浮かべる。
今、何を考えた?
きっと良からぬことに違いない。
「そっちの方がいいって、何が?」
「楓がお風呂に入っているときに突撃するっていうシチュエーション。…どうかな? これが一番いいと思うでしょ?」
「全然良くないよ。それどころか乱入する気満々って……」
「だって楓は、全然、積極的じゃないんだもん。このくらいしないと楓もその気にならないでしょ」
香奈姉ちゃんは、そう言って僕に抱きついてくる。
「え……。決定事項なの? そりゃ、ないよ……」
香奈姉ちゃんの言葉に、僕は途方に暮れた様子でそう言った。
やっぱり香奈姉ちゃんには、勝てる気がしない。
僕に対して、そんなことまでしてくるのか。
僕は、ため息を吐いて浴室に向かっていった。
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