第一話・4

 みんなが帰った後、香奈姉ちゃんは僕の部屋に戻ってきていた。

 僕は、学校から出された宿題があるのでやろうと思ったのだが、香奈姉ちゃんが部屋にいるので、今はできない。


「──それで。このアダルト雑誌は一体何なのかな? 弟くんのわかる範囲で答えてくれないかな」


 香奈姉ちゃんは、真顔で僕にそう訊いてきた。

 香奈姉ちゃんが、人一倍エッチな事が嫌いなのは理解している。


「いや、わかる範囲って聞かれても……。ベッドの下に置いているのは大抵、音楽雑誌くらいで……。普段はそういった物は置いていないんだ。だから、これは何って訊かれても、僕には答えられないよ」


 僕は、本当のことを答えた。

 ホントにそれらの事以外は知らないのだ。

 だから、奈緒さんがベッドの下を探った時に、そういった物が出てきた時には、心底驚いてしまった。

 たぶん兄貴の仕業だろうと思うんだが、冗談にも程がある。

 しかし、香奈姉ちゃん。全然信じてない様子だった。


「そっか~。あくまでもシラを切るんだ。それなら仕方がないね」


 と、そう言って僕の腕を掴むと、香奈姉ちゃんは僕のベッドに連れ込み、そのまま押し倒した。

 香奈姉ちゃんが上になり、僕を押し倒された形である。


「香奈姉ちゃん⁉︎ 何を……」

「私、この間言ったよね。弟くんは、他の女の子と付き合っちゃいけないって。こんな物を持つなんてのは、以ての外だよ」

「だからそれは、僕も知らないんだって。誰とも付き合っちゃいけないなんてのは、香奈姉ちゃんが勝手に──」

「うん。勝手にそう言ったよ。私にとっては、それが都合が良いからね」

「一体どういうことなんだい?」


 僕は、思案げな表情を浮かべそう訊いていた。

 すると香奈姉ちゃんは


「こういうことだよ」


 と言って、唇を押し付けてきた。

 あまりに突然のことに、僕は目をパチクリさせる。


「香奈…姉ちゃん……。これって……?」

「ん? そのままの意味だけど。ひょっとして、これだけじゃわからないかな?」


 香奈姉ちゃんは、そう言って微笑を浮かべていた。

 そんな笑顔を向けられても、僕にはサッパリわからないんだけど……。


「わかるわけないよ。いきなりキスしてきても困惑するだけだよ」

「そっか。困惑するだけか……。まぁ、そうだよね。いきなりは困るよね」


 香奈姉ちゃんは、苦笑いをしてベッドから起き上がった。

 何か一人で納得しているみたいだけど、何がしたかったんだろう。

 なんにせよ、これで僕も解放された。

 僕はベッドから起き上がると、背を向けている香奈姉ちゃんに視線を向ける。


「香奈姉ちゃん?」

「だけど、これが私の気持ちだよ。きっと、ずっと変わらないと思う。私は、弟くんと一緒にバンドを組みたい」

「僕とバンドを? メンバー探しなら、僕じゃなくてもいいような気がするんだけど。どうして僕にこだわるの?」

「弟くんじゃないとダメなの……。私には、弟くんが必要なの」

「はっきり言うけど、僕は兄貴の代わりになんてならないよ。兄貴ほどの技術も度胸もないし……。きっと、みんな後悔するよ」

「それでもいい。弟くんは隆一さんじゃないんだから、そこまで頑張る必要はないよ。弟くんにしかできないことをやればいいんだよ」

「僕にしかできないこと……」


 そんな事言われても、まったく想像できないんだけど……。

 この僕に、一体何があるっていうんだ?


「あとは弟くん次第だよ。頑張ってみよう」


 香奈姉ちゃんにそう言われると、つい頑張ってみたくなるな。

 まぁ、バイト以外で頑張っていることもないし。ここは一つ、香奈姉ちゃんが結成したバンドも頑張ってみるか。


「うん。やってみるよ」

「ホントに?」

「とりあえずできるところからだけど、それでもいいなら」


 僕は、そう言って微苦笑する。

 すると香奈姉ちゃんは、僕の手を握ってきた。


「もちろん大歓迎だよ! そう言ってくれると信じてた」

「そっか。信じてくれてたんだね。それなら、なおさら期待に応えないとね」


 どこまでできるかわからないが、できるところまでは頑張ってみよう。


「うん。頑張ってみよう」

「そうだね」


 僕は、笑顔でそう答える。


「──それじゃ、私はそろそろ家に帰るね」

「それなら、途中まで送るよ。…って言ってもすぐ近くだから、必要ないかもだけど……」

「ううん。そんなことないよ。それじゃ、お言葉に甘えようかな」


 香奈姉ちゃんは、遠慮なくそう言った。

 幼馴染だから、その辺りはしょうがないのかもしれないが。


「わかった。着替えるから、少しだけ部屋の外で待っててね」

「うん」


 考えてみれば、ずっと制服着たままだ。

 普段なら、私服に着替えていてもおかしくないのに。

 私服は部屋のクローゼットの中にあるので、取り出すのは簡単だ。

 香奈姉ちゃんが僕の部屋から出ていくと、僕はすぐに私服に着替えた。


「これで良しっと──」


 着替え終わると、すぐに部屋を後にする。


「おまたせ。それじゃ、行こっか?」

「ちょっと待ってね。その前に弟くんのお母さんに挨拶しなきゃ」


 そう言うと香奈姉ちゃんは、居間の方に行き深々と頭を下げた。


「夕食ご馳走になりました。ありがとうございます」

「いや、いいんだよ。気にしなくてもさ。香奈ちゃんのお母さんには、世話になっているしね」


 母は、笑顔でそう言う。

 香奈姉ちゃんのお母さんは旅好きで、よくお土産をもらったりする。

 香奈姉ちゃんのお母さんは、たしか有名な作家さんだと思った。

 だから、家で家事をしながら小説を書いているらしい。そして、休みの日にはよく出かける姿を見るそうな。


「そうですか。母に伝えておきますね。私も弟くんに用件があるので、しばらくの間はお借りしますね」

「どうぞどうぞ。楓は、昔から気が小さくて頼りないけど、いざという時は役に立つから、こき使ってあげてね」

「ちょっと、母さん。何言ってるのさ」

「冗談よ。冗談。…それより、香奈ちゃんを家まで送るんじゃないの?」

「そうだよ。そういうわけだから、ちょっと出かけてくる」

「そう。気をつけてね」


 母にそう言われ、僕と香奈姉ちゃんは踵を返して居間を後にし、玄関の方まで移動する。

 とりあえず、香奈姉ちゃんの家の前まで送ろう。

 そう思い、僕は香奈姉ちゃんの隣を歩いた。


「なんだか久しぶりだね」


 と、香奈姉ちゃんが口を開く。


「何が?」

「こうして一緒に歩くのって、ずいぶんと久しぶりじゃない?」

「え? …そうかな?」


 香奈姉ちゃんの家は、すぐ近くだから一緒に歩くって言ったって、そんな実感はないんだけど……。


「うん。弟くんとこうして歩くのは久しぶりだよ」

「たしかに高校入ってからは、香奈姉ちゃんと歩くことってそんなになかったかも……」

「この辺りは、男子校と女子校とで分かれているから、どうしても接点を失ってしまうんだよね」

「僕もバイトをしてるからね」


 今日は、たまたまバイトのシフトが入ってなかったからみんなで曲合わせできたけど、バイトがある日はそんなに多くは練習できそうにない。

 それは、みんなも同じだと思う。


「だけど、これからはバンド活動もあるから、私とも接点を持てるね」


 ──接点か。

 そういえば香奈姉ちゃんと接点を持つなんてこと、今までなかったな。

 品行方正・眉目秀麗・成績優秀と三拍子揃った香奈姉ちゃんは高嶺の花に等しいから、すべてが平凡な僕になんて相手をするほうが間違っている。

 だけど年上の幼馴染だから、僕にとっては姉に似たようなものだ。


「そうだね。香奈姉ちゃんと一緒だから少し安心かも──」

「そうでしょ。こう見えても、私は弟くんのお姉さんなんだからね。少しは、私を頼りなさい」


 それは、少し遠慮したいかも。

 だけど、はっきり言ったら香奈姉ちゃんがむくれてしまうから言わないでおこう。


「う、うん。その時になったら頼るかも」


 僕は、苦笑いをしてそう言っていた。

 香奈姉ちゃんの家は、歩いてそんなにかからない距離の場所にある。

 家の前の門戸にたどり着くと、僕はそこで立ち止まった。

 辺りはもう暗くなり、街灯が照らされている。

 この時間は、不審者が歩いているって聞いてるから油断できなかったのだ。


「──それじゃ香奈姉ちゃん。僕はこの辺で失礼するよ」

「うん。ここまでありがとうね」

「いや、礼には及ばないよ」

「それじゃ、また明日ね」


 香奈姉ちゃんは、そう言うと素早く僕の頬にキスして、家の中に入って言った。

 え……。

 意表を突かれた僕は、しばらく呆然となってしまった。


 ──さて、僕も家に帰ろう。宿題もあるし。

 僕も踵を返して、自分の家へと歩き出す。

 すると、僕が持っていたスマホが鳴りだした。

 この音は電話じゃないから、メールか何かだろう。

 僕はすぐに履いていたジーンズのポケットからスマホを取り出して確認する。

 すると、宛名は西田香奈と書かれていた。

 さっそく中を確認してみると


 ──今日はありがとうね。また明日もよろしくね。


 そう書かれていた。

 内容を確認する限り、すごく嬉しそうなのが伝わってくる。

 明日はバイトだから、少し遅れるんだよな。

 僕はすぐにメールで


 ──明日はバイトなので、少し遅れます。


 と、送った。

 こんなのメールじゃなくても、会話でもできることなんだけどな。

 きっと、僕にキスしたことが恥ずかしくなったに違いない。

 そして、しばらくしないうちに返信がくる。


 ──オーケー。私も明日はバイトだから、練習する時間は遅めになると思います。それとね──


 用件はこれだけじゃなかったみたいだ。

 すぐに続きのメールが届く。


 ──今度の日曜、暇かな?


 そのメールに、僕は思案げな顔になる。

 今度の日曜か。

 たしかに暇と言えば暇だけど……。


 ──特に予定はないけど。どうしたの?


 と、送ってみる。

 すると香奈姉ちゃんから


 ──今度の日曜、一緒に買い物に行かない?


 そう聞いてきた。

 買い物かぁ。そういえば、最近はあまり買い物には行ってないな。

 この際だから、ちょうどいい。

 了承のメールを送っておこう。


 ──別に構わないよ。待ち合わせ場所はどこにするの?

 ──待ち合わせ場所は、弟くんの家からでいいよ。その方がちょうどいいし。

 ──わかった。それじゃ、今度の日曜日。楽しみにしておくね。

 ──せっかくだから、香奈お姉さんが付き合ってあげるよ。


 香奈姉ちゃんが買い物に付き合うのか。買い物に行くんじゃなくて。

 なんか嫌な予感がするんだけどな。

 周囲の人の目が、僕と一緒に歩く香奈姉ちゃんを見てどう思うのか。

 いや、考えたくもないな。

 だけど、せっかくだから僕も行きたい場所を決めておこう。

 僕は、スマホをジーンズのポケットに仕舞うと、自分の家に向かって歩いていった。

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