【プロローグ2】ディストピアを越えて
売春の価格交渉の決裂による進駐軍兵士とのトラブルなど、占領下のルナサリアでは日常茶飯事の光景だ。
今の月面都市は法も秩序も正常に機能しているとは言い難い。
「しかし驚いたぜ……まさか、同僚が"セレクトセール"の主催者のドラ息子だったとはな」
口封じのために黙らせた戦災孤児の少女を担いでいる兵士にとって、警備任務で組むことが多い同僚がアメリカ有数の資産家の息子だったことは
同僚の父親は表向きこそ資産家として知られているが、その正体はアンダーグラウンド最大規模の人身売買オークション"セレクトセール"の元締めと噂されている。
「……他の奴らには内緒だぞ」
素行不良を矯正するためアメリカ軍へ入隊させられたドラ息子は肯定も否定もしなかった。
「……分かった、このガキが目を覚ます前にバイヤーの所へ運ぶか」
暫しの沈黙の
彼らの目的地は人身売買のバイヤーがよく利用している倉庫跡地だ。
「そいつは軽いからお前一人で何とかしろ。見た感じあまり飯を食えてなさそうだしな」
同僚が担いでいる少女の体つきを確認しながら厳しい食糧事情を察するドラ息子。
みすぼらしい衣服の隙間からは骨が浮き出た部分が見え隠れしていた。
「金持ちに買われれば飯と住む場所には困らないだろうぜ。まともな服を着せてもらえるかは知らんが」
少女を軽々と運ぶ兵士が指摘している通り、セレクトセールの主な参加者は世間一般で大富豪扱いされるような者たちだ。
今のように進駐軍の残飯を漁って空腹を凌ぐような生活よりは、金持ちのペットとして首輪とリードを着けて生きる方がマシ――な場合もあるかもしれない。
「もしセレクトセールで売れたら少しは分け前をくれよ」
「ああ、高値で売れたら親父に掛け合ってみる」
罪の意識による迷いを断ち切るように彼は報酬に関する話を振る。
幸いにもドラ息子の方は少女が売り物になると確信しており、落札額次第ではおこぼれが発生するかもしれないと希望的観測を返してくれた。
「悪く思うなよ……お前らが仕掛けた戦争のせいで地球の経済はボロボロなんだ。生計を立てるため汚れ仕事に手を染めるのも致し方あるまい」
気絶したままの少女へ語り掛けるように囁く兵士。
この時、彼(とドラ息子)は考え事をしていたせいで注意力が散漫になっていた。
「(私もよくよく運の無い女ね。皇道派幹部との密談の帰り道で人道危機の現場に出くわすとは)」
月面都市は進駐軍による厳重な警備が敷かれているが、抜け穴が無いわけではない。
皇道派――所謂ルナサリアン残党はそういった土地勘に精通しており、灰色のクロークを身に纏ったこの女もそれを使って壁の中に忍び込んだのだろう。
基本的に一般市民は残党側を支持し協力を行っているため、進駐軍は侵入経路の発見及び封鎖に苦労しているという。
「(……正義の味方を気取るわけじゃないけど、ああいうのは許せないわね)」
警備兵の行動パターンの隙を突いてこの街路を選んだ女にとって、裏路地でのトラブルはイレギュラーな事態であった。
兵士どもは会話に夢中なので通り過ぎてしまうのも選択肢の一つだが、状況を察した女はあえて悪事に立ち向かうことを決める。
少なくとも娘たちの親友ならばそうするに違いない。
「(標的は2人――片方は女の子を担いで誘拐しようとしている。先に排除するならもう一人の方か)」
灰色ずくめの女は懐からサプレッサー付きハンドガンを取り出すと、その有効射程に捉えるべく足音を立てないよう慎重に近付いていく。
できれば気配を察知されないギリギリの距離で発砲したい。
「(セーフティ解除……一発で確実に仕留める!)」
ハンドガンの安全装置をゆっくりと解除しつつ、銃口の位置を動かし照準を調整。
明後日の方向を見ている敵兵の後
「うッ――!」
「銃声ッ!? おい……撃たれたのか!?」
控え目な銃声が裏路地に響き渡った瞬間、急所に一撃を受けた敵兵――ドラ息子は状況を理解できないまま凶弾に倒れてしまう。
女の子を担いでいる方の兵士は銃声を聞くや否や"荷物"を放り出し、目を見開いたまま動かない同僚の身体を揺さ振る。
しかし、ドラ息子が意識を取り戻すことは二度と無かった。
「ッ! 貴様、所属を明ら――ッ!?」
ようやく敵の存在に気付いた男はすぐにアサルトライフルを構えようとしたが、彼が警告を言い切る前に2発目の銃弾が眉間を貫く。
「(判断が遅い。クズは所詮クズというわけか)」
索敵から攻撃に至るまで判断の早さで敵兵を制圧した灰色ずくめの女は、死体を足で転がし死亡確認してからハンドガンの安全装置を戻す。
この女は相当実戦慣れしているようだ。
「うぅ……」
「ジョヴァ? ガソオン-ミンミ-カタキ-ユックゾ-ディ-ススズ(大丈夫? 銃声を聞いた敵兵が来る前にここを離れましょう)」
先ほど放り出された戦災孤児の少女の耳元に顔を近付け、若干のオリエンティア訛りが混じったルナサリア語で優しく語り掛ける灰色ずくめの女。
灰色のフードを被っているが話し方の癖からオリエント連邦出身であることが分かる。
「よいしょっと……もう一度担ぐけど我慢してね」
彼女はさっきの兵士と同じファイヤーマンズキャリーで少女を担ぎ上げると、その場から逃げるように裏路地の奥へ姿を消すのだった。
月面都市ルナ・シティ第5ブロック――。
かつて官公庁と商業施設が並んでいたこの地区は市内でも特に治安が良く、一般市民たちは移動制限を除けば戦前とほぼ変わらない生活を送れていた。
「(遥か昔、地球人はドイチュラントのベルリンに壁を作り、非合理的な分割統治を行っていたという。今の月面都市の状況はドキュメンタリー映画で見た20世紀のベルリンを彷彿とさせる……)」
荒れ果てた廃ビルの窓際にもたれ掛かり、眼下に広がる旧ホウライサン中心部を眺めながら物思いに耽る灰色ずくめの女。
有刺鉄線とコンクリート壁による分断の前例としては、1989年以前のドイツの首都ベルリンが挙げられる。
「(歴史は繰り返す――というわけか)」
ベルリンは2度目の世界大戦が終わった後、当時の列強諸国の過干渉により東西に分断された。
ホウライサンは国土を荒廃させるほどの戦争の末、戦勝国によるパイの奪い合いの会場となってしまった。
忌まわしい記憶から何も学んでいない愚かな人類に女はタメ息を吐つく。
「う……うぅ……」
「無理して起きなくてもいいのよ……辛かったでしょう?」
ようやく意識を取り戻したのだろうか。
呻き声を漏らしながら起き上がろうとする戦災孤児の少女に対し、灰色ずくめの女は体調が落ち着くまで安静にしておくよう促す。
「いえ……大丈夫です。ああいうのは……慣れましたから」
「……」
だが、薄汚い衣服に付いた埃を手で払いながら少女はフラフラと立ち上がる。
彼女の身なりと発言から過酷な生活環境を察した灰色ずくめの女はさすがに口を
「あの……助けていただきありがとうございました……」
そのような状況でありながら感謝の言葉を絞り出せるあたり、この少女は育ちが良く戦災孤児になる前は幸せな暮らしを送っていたのかもしれない。
「ここは……?」
「ホウライサン第五区。前の戦争で焼け落ちて放棄された中層建築物の内部よ」
少女から自分たちが今いる場所について尋ねられ、彼女が安心するであろうルナサリア語で答える灰色ずくめの女。
月面都市は分断の影響で戦後復興が遅れており、二人が逃げ込んだビルのような建物が数多く残っていた。
「第五区はオリエント連邦が占領している地区だから、あなたが元々いた第十九区よりは治安も環境も良いと思うわ」
灰色ずくめの女曰く、第五区を含む旧ホウライサン中心部はオリエント連邦が押さえている地域。
前の戦争で敵対としたとはいえオリエント連邦は月の民たちに同情的であり、同国の占領地域では例外的に復興が進んでいるという。
「……何より、こっちなら進駐軍兵士に
「ッ……!」
しかし、灰色ずくめの女がオリエント連邦――祖国のことを信頼している最大の理由は進駐軍のモラル意識の高さだ。
それはある日突然自宅に押し入ってきた男性兵士たちに犯され、幼くして純潔と帰る場所を奪われた少女を本来なら守ってくれるはずの概念だったが……。
「あなたは良い人だと思いますけど……これ以上は迷惑を掛けられません」
深層意識の奥底に封じ込めていたはずのトラウマを思い出しそうになった少女は頭を横に振り、改めて礼を述べてからこの場を立ち去ろうとする。
「後は自分の力で生きていきます……今までと同じように」
命の危機を救ってもらっただけで十分だ。
飢えと寒さを凌ぎつつ、帰って来ない父親を待ちながら孤独に生きることにはもう慣れてしまった。
「最後に食事をしたのはいつ? あまり腹を満たせているようには見えないわよ」
だが、彼女の腹の虫が鳴くのを灰色ずくめの女は聞き逃さず、まるで母親のように"ちゃんと食事はしているのか"と問い詰めてくる。
「……今日の朝、アメリカ軍の駐屯地から捨てられる残飯を漁ってきました。それっきり……」
朝から我慢し続けていた空腹に耐えかねたのか、少女は今日の食事内容について正直に答える。
進駐軍による配給は必要十分とは言い難く、そもそも身分証明が困難な戦災孤児は配給の際に提示を求められる手帳の入手さえ困難だった。
また、旧ルナサリアンの法定通貨テルヨは流通を禁止されているため、戦前の貯蓄を切り崩して商品を売買することもできない。
「……私からの餞別よ、受け取りなさい」
進駐軍の理不尽な経済制裁により一夜にして一文無しになった少女を不憫に思い、灰色ずくめの女は懐から取り出したスナックバーと水入りペットボトルを投げ渡す。
「水の方は一口だけ飲んでしまったけど、残飯よりは遥かに衛生的でしょう」
初対面から間もない女と間接キスになることなど気にも留めず、少女は受け取ったスナックバーにがっつき始める。
「(本当にお腹が空いていたのね……アメリカ軍占領地域の住民は慢性的な食糧不足に苦しみ、毎日のように人が飢え死にしていると聞く)」
まるでハムスターのように頬を膨らませてスナックバーを貪る少女の姿を見守りつつ、こういった人々が占領地域に溢れかえっている現状を嘆く灰色ずくめの女。
「(前の戦争のアメリカ国民と同じだ。彼らもルナサリアンによる攻撃で食糧供給が滞り、末期には絶望を味わっていた)」
地球で毎日のように放映されていたニュース番組の映像を思い出す。
あれはプロパガンダも兼ねていたが、戦災で家財を失った人々が飢えと寒さで多数犠牲になったのは事実だ。
「(だが、それは直接戦争に関与したわけではない一般国民に対する罰としてはあまりに重すぎる)」
彼らが一体何をしたというのか。
戦争協力と言えばせいぜい兵器工場で働いていたことぐらいだろう。
しかも、それはあくまでも生活に必要な収入を得るための労働にすぎない。
「(戦争遂行という十字架を背負い、本当に罰せられるべきは指導者層であるはず――そうでしょう? アキヅキ・オリヒメ)」
灰色ずくめの女は地平線上に浮かぶ壊れたガラスドームへ視線を移す。
そこは女の親友にして旧ルナサリアン指導者アキヅキ・オリヒメが最期を迎えた場所。
灰色のクロークとフードで全身を隠し、そしてアキヅキ・オリヒメのことをよく知るこの女の正体は……?
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