第242話 SS:あなただけが私の騎士です

 その日、オルクスは『決して勝てない』という絶望を知った。

 いや、これまで目を逸らし続けていた現実に直面したと言った方が正しいのかもしれない。貴族意識の高いオルクスはこれまで平民であるというレッテルを貼ることで、無理やり平民を過小評価していた。


 士官学校の教官に勝ったのは、何か卑怯な真似をしたから。

 オーク狩りの実績は、所詮オークなど弱小魔物だから。

 御前試合に出られたのは人不足のせいだから。

 勝利を重ねたのはたまたま運よく不意を突いたから。


 幸か不幸か、士官学校を出てからは御前試合でしか彼を見ることがなく、その勝負の多くがフェイントや速攻による勝利だったため、純粋な彼の剣の実力をまじまじと見る機会もなかった。


 故に、絢爛武闘大会という誤魔化しの効かない場所で『竜殺しの英雄』とまで謳われる男と繰り広げたヴァルナの激戦は、オルクスの心を折るには十分すぎる隔絶した実力差を示した。


 しかも彼は、その上で勝った。


 コロセウムに湧き起こる爆発的な歓声の中、オルクスはただ茫然と、自分と同期の平民騎士が国境を越えて実力を認められる様を見ているしかなかった。近くで観戦していた先輩たちは何とか粗を探そうとするが、出来ずに呻いていた。

 アルエッタが不安げに肩をゆするまで、オルクスは一歩も動けなかった。


 どうやって戻って来たか分からない自室のベッドの上で膝を抱えながら、オルクスは自分とヴァルナが相対するイメージを頭に浮かべる。


 オルクスは意気揚々と前に踏み出し、瞬殺される。

 開幕と同時期に退くと、追撃で吹き飛ばされる。

 左右の動きはすぐにタイミングを合わせて薙ぎ払われる。

 フェイント――無理だ。彼の十八番だ。


 あらゆる行動とあらゆる奥義を放つ自分をイメージするが、その全てがヴァルナに通じるイメージが一切湧かない。


 明日、オルクスは大陸の六星冒険者――ミ・スティリウス・ノワールという変わった名前の鎌使いと戦う。黒い仮面を被ったかなりの難敵で、勝率は五分にも届かないとオルクスは思った。


 しかしミ・スティリウスを倒したら次に戦うのはヴァルナだ。

 ここまでビギナーズラックで勝ってきたような戦いばかりで、六星冒険者に戦う前から敗色の濃さを感じているオルクスが、七星の頂点に匹敵するヴァルナを相手に勝利できる確率は――。


「万に一つ……あれば奇跡か」


 現実は非情だ。渋面すら浮かばない顔で、オルクスは塞ぎ込む。

 今ならクシュー団長があれほど老けてしまった理由がわかる。

 人は壁を越えて成長するものだが、越えられない壁を前にしたときに足は止まる。


 王国の栄光の一端を担い続けたクシュー・ド・ヴェンデルという騎士は、騎士として越えられない壁を前に己の限界を悟ったのだ。


 あれだけ啖呵を切ってここまで来て、戦績の振るわなかった先輩たちの期待を背負って恐ろしい魔物とさえ戦い、せっかく大会をここまで勝ち抜いたのに、ヴァルナという怪物は平気な顔でこちらの希望をへし折ってゆく。


 オルクスはヴァルナにない多くのものを持っているが、欲しかったものは常にヴァルナが持っていた。


 諦めの悪さから来る人一倍の努力。

 剣術に於ける天賦の才覚。

 王家との繋がり。


 セドナの、信頼。


「う……ぐあぁぁぁ、ぁ……」


 頭を掻きむしり、獣のように呻く喉を必死に抑え込む。

 狂おしいまでのどす黒い感情が行き場を失って胸中を渦巻いた。


 セドナ・スクーディアとの出会いは八歳の頃、父に連れられて参加したパーティでのことだった。王国では余り見ない意匠の可愛らしいドレスに身を包んで花咲くような笑顔を浮かべる可憐な少女に、オルクスは夢中になった。


 優しく、キュートで、しかしどこか女性らしさもある。

 家柄は貴族さえ驚く大富豪の娘なのに、驕りも棘もない。

 それでいて、自分がこうありたいという意思をはっきり示す。


 彼女からすれば、オルクスは出会った大勢のうちの一人に過ぎなかっただろう。彼女を好いている男など他に数多いたのも、プレゼントを贈っている人が十や二十では収まらないことも知っている。

 それでも彼女が騎士団に行くと知った時、オルクスは初めて親と喧嘩して士官学校の門を叩いた。


 士官学校の入学試験は特権階級の間でも大勢が落ちる狭き門。

 セドナほどの家柄と教養なら間違いなく受かる。

 この関門を突破すれば彼女の心を射止めんとするライバルなど殆どいなくなる。


 オルクスは、セドナの友人になれた。

 しかしそれ以上にはなれなかった。

 愛しの君は、聞いたこともない平民に夢中になったから。


 一年間、彼女の目を覚まさせるために様々なアピールもしたし、何度もヴァルナを打ち負かそうとした。しかし、彼に勝てたのは家柄と、上半期の座学の成績くらいだった。下半期からはヴァルナは座学でも文句が付かない男へと成長し、その陰には第二王子アストラエと、セドナの献身があった。

 しかもヴァルナは剣術を教えるのが上手く、セドナはそこでも彼に絶大な信頼を寄せていた。オルクスでさえ魔物勝ち抜き戦をヴァルナのアドバイスで突破するという屈辱的な経緯を経ている。


 士官学校を卒業してから二年以上が経過した。

 オルクスは変わらず彼女と親密になるためのアプローチを続けたが、結果はどうだろう。セドナはというとオルクスとヴァルナが並んでいたら自然にヴァルナを優先している始末。彼女の胸にオルクスの恋心など欠片も響いていない。


 彼女と結ばれる夢を幾度も見て、そして目が覚めると同時にもっと夢に浸っていたかったと後悔する。親が婚約者の話を持ち込んで、暗に諦めろと言う。そしてヴァルナの評判は鰻登りだ。

 追い討ちをかけるように今日、殆ど記憶にない帰り道の途中で、セドナがヴァルナの腕を抱き、アストラエ王子と共に移動しているのが視界に映った。オルクスは嫉妬も懊悩もせず、目を逸らして宿に戻った。


「知ってたよ……」


 目を逸らしたかったのだ。

 自分ではなくヴァルナが彼女の相手だと。

 そんなこと、心のどこかではずっと理解できていた。

 本能が肯定しなかっただけだ。


 自分は負けるだろう。

 弱気になっているのは自分の心が沈んでいるからだと分かっていながら、それが真実だろうとも思っている。セドナの笑顔、怒った顔、いじける顔、落ち込んだときに助けを求める顔は、全てヴァルナかアストラエ王子に向いているのだから。


 アストラエがセドナの相手ならば、まだ良かった。

 誰もが認め、誰もに愛される王族だ。

 悔しいとは思うが、納得も諦めもついた。


 しかしアストラエとセドナの仲を繋ぎ、その二人から一心に信頼を得ているのは、どう言い繕ってもヴァルナなのだ。それを認められない平民への差別意識と反発心も、もう崩れかけていた。


「……このまま棄権してしまおうか、な」


 どう足掻いても、夢に辿り着けない。

 それどころか彼にすら勝てずにミ・スティリウスに敗北し、更に自分が敗北した相手をヴァルナが打ち負かす光景を見るかもしれない。これ以上傷つきたくないという鬱屈した感情がオルクスを沈ませた。


「……棄権されるんですか!? どっか体の具合でも悪いんですか!?」

「別にそういう訳じゃ……って、あ?」


 自分のベッドのド真ん前に心配そうに身を乗り出すアルエッタがいることに気付いたオルクスは、しばし目をぱちくりさせた後、悲鳴を上げた。


「うおぉぉぉぉぉぉぉッ!? き、きき貴様!! ここは我が個室だぞ、何故いる!?」

「様子がおかしかったってゲイバーの人から聞きまして、心配になって部屋入ってええですかってノックしたら、オルクスさん『知ってた』って言いはりましたから、来ること分かってたんかなて思って入りましたけど……」

「違う! それは独り言だ!!」

「ええっ!! し、少々お待ちを!!」


 アルエッタはゆさゆさ揺らしながらわたわたと部屋の外に出て扉を閉じ、少し間を置いてコンコンとノックした。


「は、入ってよろしいですかぁ~……?」


 そういう問題かという呆れもあるが、声が余りにもか細く不安げで聞いている方が可哀そうになってくる。追い返したい気持ちもあったが、本音を聞かれてしまった手前、そのまま帰すわけにもいかないと思ったオルクスは了承の意を伝える。

 すると、安堵の表情でドアを開けたアルエッタがとてとて駆け寄ってきた。


「よ、よかったぁ! オルクス様を怒らせてしもーたんやないかって不安で不安で……!」

「色々と思う所もあるが、もういい。別に悪気があった訳でもないし、気付かない私も悪かった」


 意気消沈する余り部屋に入ってくる人間すら認識していなかったとは情けない、とオルクスは自戒した。恐らく気付かなかっただけで何度か話しかけられてすらいるだろう。


「あの、オルクス様っ!」

「……先ほどの言葉は聞かなかったことにしろ」

「はいっ! いや、そうじゃなくてですね……あの……!!」


 何かを言い淀んでもじもじするアルエッタは、意を決したように提案する。


「肩をお揉みしましょうかっ!!」

「……何故そうなる?」


 この平民女は何を脈絡のない提案をしているのだろうか、と思うも、彼女は彼女で真剣に考えていたらしく、説明してくる。


「うち、昔から肩もみは上手やて褒められるんです! それに肩が凝ると気持ちも凝るってうちの地元じゃことわざみたいによう言うんです! うちにはオルクス様が気落ちしとる理由は分かりませんけど、これぐらいならうちにも出来るんで!! さあ、こちらにお背中を!!」


 平民が気安く人の肩に触れるな、と、普段の自分なら言うだろうとオルクスは思う。しかし、今ここでアルエッタに辛く当たるのは、何故かヴァルナに勝てないことへの鬱憤晴らしのように思えた。

 平民に肩を触るのを許すより、そちらの方が余程情けない。


「やめろと言ったらすぐにやめろ」

「は、はいっ!!」


 ほんの少し、気まぐれで許す。

 それだけだと、オルクスは自分に言い聞かせて彼女に背中を任せた。


 おおよそ五分後。


(な、何だこれはッ!? 心地よすぎていつ止めさせればいいんだぁぁぁッ!!)


 アルエッタの細い指はオルクスの凝り固まった筋肉を的確に、絶妙な力加減でほぐして筋肉の緊張を弛緩させ、血流を改善させてゆく。更に耳元で聞こえるアルエッタの気が抜ける掛け声がオルクスの沈んだ気持ちを忘れさせていく。というかインパクトが強くて気持ちが勝手に飛ぶ。


「もーみ、もーみ♪ きゅっきゅっ♪ むーに、むーに♪ ぐっぐっ♪」


 あと、当たっている。

 もっと早くに予想すべきだったが、背中に柔らかなものが二つ、当たったり離れたりしている。サイズを考えれば当てない方が難しいだろうが、オルクスは何だか自分がいかがわしい接待を受けているような背徳感に襲われた。


 いい加減にやめどころが判らないから逆にもうやめさせようか――そう迷ったオルクスだが、不意に肩を揉む手が止まり、背後からアルエッタに抱きしめられた。


「な、なにを!? これは肩もみではないだろう!?」


 突然の抱擁、肌の感触と暖かさに動揺してしまう。

 まさか悪戯のつもりだろうか。だとしたら少し度が過ぎる。

 しかし、後ろからかけられるアルエッタの声に、オルクスの思考が止まる。


「オルクス様は立派な騎士です。何で棄権するんかはうちみたいな田舎者には想像も及ばんですが、きっと深いお考えがあるんやと思います」

「……深い考えなど、ない。棄権は棄権。逃げるという事だ」

「でも、大会や言うてますし、悪い人をやっつける為の戦いやないんでしょ? ほんなら途中でやめても恥にはならんのと違いますか?」


 彼女の言うことも一理ある。

 騎士の本分はあくまで王に仕え、国を守ることだ。

 海外主催の試合で無様を晒すのは論外だが、ヴァルナという確実な優勝候補が居ながらオルクスが無理をする理由は、王国騎士としてはない。退けないのはあくまで聖靴騎士団として、男としてのプライドがあったからだ。


「ここで引いたら上司にも先輩にも顔向け出来んッ!! 出来ぬが……では、ヴァルナにどうやって勝てると言うのだ……!!」

「同じ学校に通っとったって言うてた人ですね。うちは剣の事はサッパリですが、マルトスク様を倒すことが凄い事ってくらいは分かります」

「そうだ!! 強く、正しく、いつも私の上を行く!! 行き過ぎる……!!」


 オルクスは、自分の体が震えていることを自覚した。

 諦めてしまえば気が楽だが、諦めきれない。

 その瀬戸際に追い込まれ、足の踏み場もなく落ちるのを待っているだけ――それがオルクスだ。人間は自分の行動が間違いだったと気づいても、認めたがらず恥の捌け口として正解の粗を探してなじる。その行為がみっともないと自覚していてもやめられない。

 では、それすら無駄だと確信してしまったら、人はどうすればいい。


 震える肩を、アルエッタが強く抱いた。


「誰が何と言おうと、オルクス様は立派な騎士様です。棄権したって誰も笑いません。うちだって、絶対笑いません」

「だがここで諦めたら二度と、本当に、絶対に……奴には追い付けない!! 追い付けないことを自分で認めてしまうッ!!」

「オルクス様……」

「あいつは私より多くの人を助ける! 多くの人に羨望され、慕われる! 私の欲しいものを全て手に入れた、私以上の――!!」

「オルクス様ッ!!」


 今までに彼女の口から一度も聞いたことのない大声。

 しばしの沈黙ののち、アルエッタは抱きしめる手を緩め、ベッドに上ってオルクスの顔を覗き込んだ。


「うちを助けてくれた騎士は、オルクス様なんです。オルクス様しかいないんです。誰が誰より上かなんてことより、うちにはそれが一番なんです……誰が何と言おうと、オルクス様が何を選ぼうと、うちは絶対オルクス様を応援しとります」


 決して自信に満ち溢れた笑顔ではない。

 けれど、覚悟と情念を湛えた微笑みだった。

 平民の娘にここまで言わせる男が、こんなにも情けない男でいいのか。

 否――それはオルクスのプライドが許す筈がない。


 オルクスはこの日、初めてセドナ以外に「この娘にだけは情けない姿を見せたくない」と思った。


 翌日、コロセウムにはミ・スティリウス・ノワールの前に立ちはだかるオルクスの姿と、今まで以上に必死に彼を応援するアルエッタの姿があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る