二十六歳の夜
倉海葉音
二十六歳の夜
二十六歳の夜が、永遠に続いていきそうな気がした。
都心から外れたこの地下鉄は、上り線にも関わらずガラガラで、一つのシートに一人、二人が静かに佇んでいるだけだ。日曜日の、まだ十九時頃だというのに。そんなに混まない電車であることは知っていたが、この時間帯に、最初の駅から乗るなんてことは初めてで、経営は大丈夫なのだろうかなんてことを思ってしまう。
がたりがたりという車輪の音も、駅名を告げるアナウンスさえも、どこか幻じみて感じられた。今、自分は永遠に続く二十六歳の夜の中にいるんだ、と思った。熱量も、質量も、自分の存在の意味さえも、全てが中途半端な優しい世界だ。
一人の中年女性が優先座席の隅の方から立ち上がる。駅に着く。彼女が空けた場所に、大学生くらいのカップルが座り込む。よく日焼けしたハーフパンツの男と、輪郭の四角さを化粧や髪の毛でごまかした女。きっとにぎやかな場所に向かうであろう彼らの声のトーンは、しかし、車内の静けさに遠慮して抑えがちになっている。
私の手の中の携帯は、誰かのブログを開いたまま間抜けに天井を見つめている。「二十五、六歳は人生の転機だ」「その時期に何をしたかで人生が変わる」
そんな力強い言葉を放っておいて、何か大失敗をしたらこの人が責任をとってくれるのだろうか。例えば憎いアイツを刺したり、家に火をつけたり、病院通いになるまで精神攻撃をしかけたり。
「二十六歳が転機だと背中を押されたので」。
バカバカしいと思った。
私は気付いた。続いていきそう、じゃなくて、この二十六歳の夜が永遠に続いてほしいのだと。
まともな会社員として社会の中にいて、だけど大した立場でもなくて。恋人はいないから、休日は部屋の掃除と買い物と、ふらりと当てのない旅に出ることで回していく。そんな穏やかな日常の接続点みたいな、日曜日のこの時間があまりにも愛しいのだ。
何者でなくても良い、何かを目指したりしなくて良い、ささやかな至福の瞬間が、恒久であってほしいのだ。
地下鉄は各駅停車。一つずつ、じんわりと私の最寄り駅に近づいていく。途中で一度地上に出て、窓越しに満月を見た。ぼんやりと赤い光を伴っているそれを見ながら、脈絡もなくそう言えば一昨日ボーナス入ったんだっけな、なんてことを思い出した。
自転車でも買おうか、本が増えてきたし本棚を新調しようか、キーボードでも買って昔弾いていたピアノ曲でもぽろぽろ奏でようか。
一人で過ごす二十六歳の夜の妄想は、割と自由だ。そこそこのお金があって、そこそこの心の余裕があって、ぎりぎり若さがあって、それなりに大人のしたたかさもある。そして、寂しさとの折り合いの付け方を、身に着け始めている。
熱帯魚でも買おうかな、と思ったが、管理が面倒だと友人に言われたことのあるのを思い出してパスする。猫や犬は一人暮らしだと放置される時間が可愛そうだ。
気づけば、そうやって何かを始めることを考えている自分がいた。携帯はとっくにバックライトが消えて暗くなっているのに。目の前の席におじさんが脚を広げてどっかと座る。鞄からカメラの雑誌を取り出す。
カメラかあ。カメラもいいなあ。一人で小旅行をしていて、携帯の画質だと少々気に入らない場面も多々あった。デジタル一眼レフとかならなんか使いやすそうだし画質も良さそうだな、と勝手にイメージだけを膨らませる。
頭が少し寂しくなりつつあり、額には皺が目立ち始めているあのおじさんは、昔からカメラ小僧だったのだろうか。それとも年が行ってからあちこち出かけるようになって、カメラ欲がふつふつと湧いてきたのだろうか。
年齢なんて、意外と関係ない。
二十六歳の夜って、永遠に続かないんだな、と聞きなれた駅名のアナウンスにため息が出る。だけど、実はそう何かを焦ることもないのかな、とも思いつつあった。
焦燥感で変なことに手を出すよりかは、今夜の地下鉄みたいに余裕をもって、静かに、何かをじっくりと運んでいけばいいんだと思う。
学生時代とは違う自由だ。立ち上がった私の全身を電車の窓に映す。シャツもカーディガンもスカートも所詮すべてセールやバーゲン品。でも、自分のお金で、懐事情と相談しながら手に入れた物たち。
焦らなくてもいいや、と自分自身に小さな声で語り掛ける。とりあえず、電車を降りたら電気屋に行こう。たぶんまだ空いている時間だから。今から買ったら、さっきの満月とか写せちゃうかな、それは焦りすぎか、と苦笑しながら、ぴょんっ、と電車から降りる。
がらがらのホームを、一番端っこの階段までのんびり歩いていく。もう少し若い頃なら、きっと歩調も速くなっていたんだろうけど。二十六歳の夜は、意外と長く続くのかもしれない。わずかな高揚と、静かな足取りだけが時間を動かしていく。
二十六歳の夜 倉海葉音 @hano888_yaw444
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