第242話、消えていく命


 寒い。身体が重い。

 左わき腹、右太もも、左の二の腕がじんじんと痛み、動くとさらに鈍く、セラを苦しめた。


 ――私、どうしてこんな……。


 身体がいうことをきかない。いつ、身体の自由が奪われたのだろう。考えても思い出せなかった。

 ただ、ライガネン王国に行かなければ、という思いだけが痛みに鈍る思考のなかにあって、今はそれだけを優先すべきと本能が囁いた。


 ライガネンへ――


 立つこともままならない。セラは右腕をつかって地面を這った。

 わき腹が強烈に痛む。

 それでも前へ。

 これは夢の中なのか、それとも現実なのか。

 それすらあいまいな意識の中、進まなければという思いだけが身体を動かした。

 前へ。……前へ。


 ――ライガネンに行かなくちゃ。……お父様の、みんなの想いを託されたんだか、ら……。


 苦しい。

 走っているわけでも、まして歩いているわけでもないのに、息苦しくて身体が悲鳴を上げている。

 雪がちらつく。身体の先から凍るように冷たくなっているのはそのせいか、とふと思った。

 痛い。苦しい。身体が重い。


 ――あと、少しなのに……! この、山を……越えれば、ライガネン、なのに……。


 息が詰まる。這っていたその腕も止まる。

 どうしてこんなに息が続かないの? わからない。

 唐突に、頭の中に『死』という言葉がよぎった。


 ――死ぬ? なんで……?


 わからない。

 だが身体が次第に熱を失っていくのを感じて、それを直感した。胸の奥の火が、消えていく。


 ――ここまで来たのに……嫌だ。死にたく、ない……! まだ、何も……果たせて、ないのに!


 故郷を取り戻す。優しく、温かかった思い出。

 強く勇ましい部下たち。穏やかな民たち。大人も子供も老人も、かつて会話を交わした人々の顔がよぎっては消えた。――死にたくない。死にたくない、死にたく、ない……っ!


 視界が暗くなっていく。瞼も重い。雪が降っているから、ここで眠ったら、きっと死んでしまう。

 でも身体が動かない。動かないのだ。

 涙が、こぼれた。


 セラ――!


 声が聞こえた。ひどく遠い。吹き荒む風の中から聞こえたそれは、あるいは幻聴だったかもしれない。ひどく懐かしく、温かな気持ちになる。


 ごめん、なさい……。


 その意識は闇に沈んだ。暗い、闇の底へと引っ張られていくかのように。



 ・  ・  ・


 

「セラ!」


 慧太は滑り込むように、倒れ伏す銀髪の戦乙女の傍らに片膝をついた。

 うっすらと積もりかけている雪を赤黒く染めるのはセラの血液。それが一メートルほどの線となっているのは、彼女が這って進んだからだ。


 それを見ただけで、慧太は目頭が熱くなった。必ずライガネン王国へ行くという執念が、ここまで傷を負いながらも前進をやめなかったのだ。


「セラ! しっかりしろ!」


 彼女の身体を抱え起こす。

 う、と小さく反応が返ってきて、まだ生きていると安堵したのもつかの間。肩、わき腹、太ももから出血の跡を見やり、いまなお死の淵に立っていることには変わりなかった。


 ――肩と足の怪我は……動脈ではない、か。


 血が出てはいるが、動脈は切っていないようだ。血を止める必要はあるが、その流れはまだ緩やかな分、猶予がある。ここはまだいい。問題は――


 わき腹の傷だ。ここに触れた時、手にべっとり血がついて、早急に手当てが必要だ。何せここは押さえ込んで止血することができない部位だ。


 ――傷を負ったのはどれくらい前だ……? 血の出た量によっては、もう数分ともたないぞ!


 だがここに治療する道具はない。慧太はセラのわき腹の傷に両手を当てる。少しでも血の流れを止める――だがここは圧迫で止血できない場所だぞ!? 慧太は必死に頭をめぐらす。


 治癒魔法の類を使える者もいない。使えるのは、いまここで死に掛けているセラだけだ。それに治癒魔法でどうにかなる傷なのかどうかも慧太にはわからなかった。


 くそ――


 猶予がない。だが早急に手を打たないとセラは……彼女は死んでしまう!


「畜生! 死ぬなよ! ここまで来て、死ぬんじゃないぞ! セラっ!」


 慧太は呼びかけつつ、彼女の傷口に自らの手を突っ込んだ。……こうなれば一か八かだった。

 セラの身体の傷に、慧太のシェイプシフター体を当てる。その身体は彼女の血となり肉に化け、失った部位の変わりとなって、元に戻す――問題は、このシェイプシフター体の変身がセラの身体を騙せて受け入れられるかどうか。


 過去にリアナを救ったことがある。だがそれ以外では失敗を繰り返している。

 それは生き物が持つ、異物に対する拒否反応だ。

 シェイプシフター体がその生物の細胞や血液に化けきれなかった――つまり騙せないと、拒絶されて助けることができないのだ。


 ――拒絶してくれるなよ……!


 助かれ! 助かれ! ――慧太は繰り返しながらも、自身の手の先の部位を彼女を構成する肉体へと化けさせ、傷を塞ぎ、同時に血を同化させる。焦るな。ヘマをしたら、彼女は死――馬鹿野郎、んなことは考えるな! 再生、再生、再生だ!


 震える心。負の感情、失敗による恐怖を思考の外へと追い出す。

 助けるんだ。ここまで守ってきたこの銀髪のお姫様をライガネンまで連れて行く。そう、約束したのだ。


 ――!?


 セラは動かない。その身体は、生き物ではなくまるで人形を抱きかかえているようだ。


「死ぬなっ!? 死ぬなよッ、セラっ!」


 だが反応はない。吹いた風に、彼女の銀色の髪がなびく。


 ケイタ――と、リアナの声がした。まず狐娘が駆けつけ、次にサターナが慧太の傍らにやってきた。


「慧太! セラはっ!?」

「……」


 果たしていま、自分はどんな顔をしているんだろう。慧太は、穏やかな表情のまま動かないセラを見つめる。


「……傷は塞いだ」


 しぼり出す様な声。


「足りない血も、オレの一部で足した……」


 それでも動かない。

 意識を失っているだけ、という心の声を、脳がすぐに否定した。リアナの時は、意識が戻る前でもちゃんと心臓は動いていたし、脈だってはっきりしていた。

 だがセラの、心臓の音は聞こえない。


「ここまで、来たのに……」


 すべて無駄だったのか。

 ぎりっ、と奥歯を噛み締める。必ずライガネン王国に連れて行くと約束をしたのに。それを目前にして。


 アルゲナムを取り戻す。 


 セラは強い眼差しを向けて言った。

 時に笑い、時に自らの非力さ、守れなかったものに涙をこぼした。

 辛くても、決して前へ進むことをやめなかった白銀の戦乙女。アルゲナムのお姫様。背負ったものに負けじと頑張って……一生懸命頑張って。

 その最期に言葉を交わすことさえなかった。


『……私、あなたのことが好き』


 数日前、セラは、はにかみながら言った。


『ずっと、そばにいて欲しいって、思うくらい好き』


 ――オレだって……!


 慧太は、セラの身体を抱きしめる。彼女は抱き返さない。動かない。


 故郷を取り戻す、その使命を抱え、弱音も吐かず、頑張ってきた彼女の希望は果たされない。

 かつて、ライガネンを目指す旅で、セラは失っていけない存在だと慧太は言った。それに対して、サターナはこう返した。


『セラが命を落とすなり、旅が続行不可能な傷を負った場合、ワタシやあなたが、彼女の代わりを務めればいい』


 シェイプシフター――姿を変える怪物。志半ばで倒れたセラの代わりに、彼女を演じ、彼女の願い、目的を果たせばいい、と。

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