第137話、吹雪の山


 天候が急激に悪化した。

 雨が降ったら足もとが不安定になると危惧したが、周囲の冷え込みもまた激しく、ユウラはもちろん、慧太も首を傾げた。

 セラなどは寒いのか、二の腕あたりをこすり摩擦で温める仕草を見せた。

 慧太は振り返る。山岳移動に向いた山羊の姿になっているアルフォンソが運ぶ外套をとり、セラへと渡す。


「ありがとう」

「ああ、相当寒くなってきたな」

「ええ、ちょっと予想外ですね」


 外套を着込みながら、セラは恨めしげに雲を睨む。ユウラも同様に外套を着込み、慧太やリアナにも渡した。

 正直、シェイプシフターである慧太には必要なかったが、セラに正体を怪しまれるのは面倒なので外套を着た。……もっとも、アルフォンソの寄越した外套は、彼の身体の一部であり、いざとなったら慧太自身取り込むことができる。

 これまでの旅で彼が運んでいた装備は、実は森での一戦の際にすべて置いてきていた。

 理由は、身体の大きさより大きなものを身体の中に入れて運べないからだ。慧太もアルフォンソも、可能な限りの分身体を作ったために、その身体の中に余分なものを収納する余裕がなくなっていたのだ。


 はぁ、と自らの吐息で手を温めるセラ。慧太自身、寒さに鈍感になれるから苦にもしていなかったが、どうやら手がかじかみ出すほど気温が下がっているようだった。


「兵たちには気の毒ですけど」


 セラが、外套がない親衛隊兵の列を見ながら言った。慧太は首を振る。


「悪く思わないで欲しいけど、セラはお姫様だからな。優先順位ってものがある」


 分身体を可能な限り分離した慧太とアルフォンソには分身するだけの蓄えがほとんど残っていなかった。まったくないわけではないが、使いどころには慎重になるべき状況だ。……どこかで補給したいところであるが、いまはそんな余裕もない。


「あ……」


 セラが声を上げた。


「雪が……」


 白いものが、風に乗って落ちてくる。この寒さだ。雨ではなく雪となって大地に降ってきたのだ。


「まだ軽度です」


 ユウラが、皆を見回した。


「ただ、強くなる可能性が高いので、移動しながら退避できる場所を探しましょう」


 リッケンシルト親衛隊を含めた慧太、セラたち一行は、かろうじて道と呼んでいいそれを登り、ナルヒェン山の反対側を目指す。

 しかし雪は降り続け、時間と共にその量を増やしていった。視界は悪化し、肌を刺す風に震えながら、黙々と兵たちは進む。うっすらと雪が積もり始め、それは一時間と立たず、くるぶし程度の高さの層に積み重なった。

 緩やかな斜面、開けた一帯に出る。道は広がり、足を踏み外しての転落はないが、積もった雪であたり一面真っ白に染まっている。


「早く、退避できる場所を見つけないと」


 ユウラの呟きはまた、全員の共通した思いだった。

 信じられないほどの天気の変わりよう。思いがけない大雪は、誰もが想定外だった。身体は冷え、深手を負っていた者から脱落していく。もはや、支えることすらできない。それほどの寒さが、兵たちから体力を奪い、生きる希望をも削いでいく。

 吐く息は白く、足取りは重い。


「これは異常気象なのかな」


 慧太は呟いたが、冷たい風が容赦なく吹き荒み、おそらく誰の耳にも届かなかっただろう。

 後方を警戒する慧太とセラは、追手の姿を確認するが、この天候では翼を持った飛行兵さえ飛べないだろう。空はおろか地上からも追ってくる者の姿は見えなかった。


「酷い風ですね!」


 セラが声を張り上げた。風が舞い、声を聞き取るのも難しい。慧太は怒鳴るように返した。


「これはもう吹雪だろ!」

「さすがに魔人も諦めたでしょうか!?」

「だといいけどな!」


 慧太は頷くと、セラの肩を叩いた。


「行こう! あまり離れると、ユウラたちとはぐれちまうかも!」

「そうですね」


 セラは頷く。外套を着込んでも寒いのか、やはり摩擦を起こす仕草をする銀髪のお姫様。目もとに吹き込む雪を手でひさしを作って守りながら、先行している者たちの後を追う。


 見えにくい。


 雪が風に舞い、周囲の物の姿をカーテンで隠すように覆っている。おぼろげに見える兵の背中を追い、慧太とセラは行く。雪で靴が重かった。雪中装備があれば、と無いものねだりの感情がよぎる。

 隣を行くセラを見やる。何だか前ばかり向いていたら、彼女をも見失いそうで、手でも握るべきかと思う。


 が、それがいけなかった。正面から視界をはずしたばかりに……先行している者たちを見失った。

 いや、目を離したのは、二、三秒だ。少し早く歩けば追いつく。

 慧太はセラの手を握った。追うあまり、彼女を見失ったら本末転倒だ。セラは驚いたようだが、声は吹雪に掻き消えた。

 だが、少しペースを速めたものの、リッケンシルトの兵たちの姿は見えなかった。数分間歩き続けて、慧太は認めざるを得なかった。


「……見失った」


 もうすでに目を開けているのもつらいほどの猛吹雪。足跡を辿っているつもりが、もはやそれすら識別できないほどだった。


「はぐれた!」

「えっ!?」


 セラが聞き返した。慧太は彼女の耳元で言った。


「はぐれた!」


 轟々と吹き荒む山――もう雪山同然のこの場所で迷子とか勘弁してほしかった。



 ・ ・ ・



 狐人フェネックは、人間より寒さに強いと言われる。

 だが実際のところ、全身に毛が生えている狼人と違って、人間に近い肌を持つ狐人は、言うほど寒さに耐性があるわけではない。

 リアナは吹雪の中をしっかりとした足取りで歩く。外套を着込んでいても、この寒さは流石に堪える。それでも、平然としているのは、無表情もさることながら、雪や氷の多い地方出身であることも無関係ではなかった。

 正直、風の音がうるさいが、そのあたりは小さな子供ではないのだから慣れた。前哨として部隊の先頭を行っていた狐人の戦士は、元きた道を引き返す。


「あ、リアナさん」


 ユウラが、視界の中にふっと現れた。リアナは、すっと一点を指差した。


「向こうに洞穴があった。そこに退避すべき」

「ありがたい!」


 ユウラは風に負けないよう声を上げた。おそらく人間には、それくらいの音量でなければ聞こえないのだろう。


「案内願いますか? なにぶん、僕らは右も左も分からないありさまです!」

「わかった」


 リアナはいつもの口調で答えつつ頷いた。もしかしたら、彼に声が聞こえなかったかもしれない、と思ったが、頷く仕草で意思疎通はできただろう。


「リアナさん!」

「?」


 歩きかけたリアナは、青髪の魔術師を見やる。その後ろには赤毛のシスター、そしてリッケンシルトの兵たち。


「ゆっくりお願いしますね。僕たち、ほとんど前が見えていないので」


 リアナは首肯すると、先導を始めた。

 ゆっくり――リアナは確認するように心の中で呟く。いつものペースで歩いたら、多分すぐに距離が開いて後続が見失うだろうから。

 彼女には珍しく、少し苛立った。

 いい加減、寒くてかなわない。早く洞窟へ退避したい。狐耳にかかる雪が鬱陶しい。リアナは乱暴にそれを払いつつ、雪原に足跡を刻んだ。

 十分後、目的の洞窟に到着した。だがそこで、慧太とセラがいないことに初めて気が付くのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る