瞳で描く

@araki

第1話

「きみ、何か願い事を持っていないだろうか?」

 不意に隣から声がした。その時の私は窓から見える一面の雪景色を目で追うのに忙しく、どうせ他人事だと思って流した。けれど、いつまで経っても続く誰かの返事が聞こえてこない。

 ――やっぱり、私かな。

 私が座っているのは二人席の廊下側。電車に揺られる私たちは話のできる相手が限られている。

 独り言であることに少し期待しながら、視線を正面に、そしてさりげなく隣へ。すると、

「………」

 窓際の席、そこそこ身なりのいいおじさんが人の良さそうな笑みを私に向けていた。

「……なんですか」

「だから願い事だよ。何かないかな」

 ――いきなり何言ってんだろ、この人。

 おじさんの顔に目を凝らしてみるも、特に思い出すことはない。つまり彼と私は初対面。おかしな状況だった。

 何を言えばいいか分からなかった私は、とりあえず胡乱な目でおじさんを見る。すると、おじさんは誰も求めていない説明を始めてくれた。

「おじさん、人の願い事を叶えることを生業としていてね。そのために方々を旅しているんだ」

 彼はサンタなのだろうか。けれど、今はもう一月。そりに乗るのは少し遅い。

「ただ、雇われの身だからノルマがあってね。一ヶ月に最低一人、誰かを望みを叶えなくちゃいけないんだが、今月分をまだ達成できていないんだ。だから君に願い事があるなら、それを叶えさせてもらえないだろうか」

「はぁ……」

 ――壺でも買わされるのかな。

 最初はそう思った。ただ、それにしては話が荒唐無稽すぎる。こんな宣伝文句ではどんな鴨でも食いついてくれそうにない。

 だとしたら、単なる冗談かもしれない。見ず知らずの人をからかって面白がる、おじさん流の暇つぶし。なら、話に乗って上げてもいいかもしれない。暇をもて余しているのは私も同じだったから。

「願い事ですか……」

 言葉を反芻しながら、それらしいものがないかと頭の中を漁ってみる。けれど、

「……特にないですね」

「何一つ?」

「何一つ」

「本当に?」

 中年にそぐわない無垢な瞳で私を見つめてくるおじさん。そんなつぶらな瞳を向けられても困る。ないものはないのだから仕方ない。

 学校生活は前より上手くやれているし、両親の仲も今のところ良好。この間の模試だってB判定をもらえた。

 全部そこそこな出来。それが私には丁度いいように思えた。

「何でも構わないんだよ? どんなテストでも一番をとりたい、誰かに恋したい、有名になりたい。望むなら億万長者にだって――」

「結構です」

 冗談だと分かっていても思わずおじさんの言葉を遮ってしまった。そんな激流に呑まれる出来事なんて死んでもごめんだった。

 その時、私は願い事を一つ思い付いた。

「強いて言うなら現状維持ですかね」

「現状維持?」

「ええ。それならお願いしたいです」

「つまり、今がずっと続いてほしい。そういうことかな?」

 私は無言で頷きを返す。すると、おじさんは顎に手をあてて何事かを考え出した。

「君の時間を今に固定する、時間感覚を無限に引き伸ばす、などといったことは可能だが……」

 さらりとすごいことを口にするおじさん。彼の中ではお茶の子さいさいのことらしい。

「君が望んでいるのはそういうことではないんだろう?」

 意外に気が利いている。確かにその通りだった。

「可もなく不可もなく。そんな毎日ができればずっと続いてほしいですね」

「ふむ……」

 おじさんが今度は腕組みして悩み出す。時を操れると豪語する似非サンタでもそれは難しいらしい。

「君の願いは君を取り巻く全てを恒久的に固定する必要がある。残念ながらそれは私の権限を超えている」

 ――何でもって言ったくせに。

 話が違うと正直思った。けれど、元々これは冗談。おじさんもこのあたりが潮時だと思ったのだろう。話を畳みに来ているに違いない。

「どんなものにも個別の空間が与えられ、その内部で独自の時間が流れている。悪いが私がいじれるのはその範囲内だけなんだ」

「へぇ、そうなんですか」

 おじさんは申し訳なさそうな顔で体のいい言い訳を口にする。嘘八百もここまで並べ立てられると、なるほどと思ってしまう。

 ――私、騙されやすいタイプかも。

 そう内心苦笑していると、

「ただ、一つだけ忠告」

「忠告?」

 おじさんは顔の前で人差し指を一本立てる。眉をひそめる私に、彼は言った。

「君の視点はやや斜め後ろを向いているようだ。前途有望な若者としてそれはよろしくない」

「……そうですか」

 私は窓の景色へ視線を移した。勝手なことを言う。居場所がなくならないよう、私は今まで頑張ってきた。今が私にとって絶妙なバランス。これ以上を望むのはむしろ罰――。

「それは車窓からの景色だ。すぐに見えなくなってしまうよ」

 不意の声に私ははっとした。改めておじさんの方を見る。けれど、

「……あれ」

 おじさんの姿が消えていた。座席を見ると一枚の紙が残されている。手にとって確認してみると、

『特別だ。つつましい君に魔法をかけよう』

 との文字。どういうことかと私が首を捻っていると、

『千旦駅、千旦駅到着です』

 車内に車掌さんの声が響いた。気づけばいつの間にか電車が止まっている。おじさんはきっとこの駅で降りたのだろう。それにしては物音が全く聞こえなかったけれど、私がぼうっとしていただけかもしれない。

 そうこうしているうちに、新しい乗客が私の隣に座った。私より少し年上くらいのお姉さん。彼女はけばけばしいファッションに身を包んでいて、私としてはあまり関わり合いたくないタイプだった。

 ――静かにしておこっと。

 視線を正面に戻した私は物言わぬ石になることを決めた。

 やがて、再び電車が動き出した。

 すると、視界の端でお姉さんがもぞもぞと動き出す。どうしたのかと横目で彼女を見ていると、お姉さんはカバンを膝の上に置き、中からスケッチブックを取り出した。

 彼女は窓の外をちらりと見た後、おもむろに何かを描き始めた。

 ――美大の人なのかな。

 そんなことをぼんやり考えながら、私は窓の外に目を移す。電車は沿岸部を走っているようで、外には寒々しい冬の海が広がっていた。その光景を窓辺に頬杖をつきながら眺めていると、

「よし、完成」

 隣から小さな歓声が上がった。どうやら絵が出来上がったらしい。こんな侘しい景色から描いたものなんてたかが知れて……と思いながらも、私はスケッチブックを盗み見た。

 瞬間、私は息を呑んだ。

 どこまでも広がる海。遠くには地平線がまっすぐ引かれていて、真ん中に丸い太陽が顔を覗かせている。その太陽に向かって跳び跳ねるイルカ。その姿がとても眩しく思えた。

 ――……すごい。

 たった数分でこんな絵を描けてしまうなんて。お姉さんの絵は鉛筆で描かれいるから色がない。どんな色になるんだろう? それがどうしようもなく気になるくらい、 私はその絵に惹かれていた。

 そう思っていた矢先、

「あっ」

 紙面の海が淡い橙に染まった。顔を上げると、反対側の席、その窓から差し込む夕陽が車内を明るく照らしていた。

「どうかな」

「えっ?」

 気づけば、お姉さんがこっちを見ている。絵に見入っていた私に気づいてしまったらしい。

「えっと……」

 お姉さんは微笑みを浮かべて私の言葉を待っている。こんな時、何を言うのが正解なんだろう。ぱっと思いつかない。

 なのに、口が勝手に動いた。

「好きです。とても」

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