片腕で祖母を背負って

更級ちか

 8月13日 夕暮れ時

 八月十三日。午後六時半過ぎ。

 辺りはほんのりと薄暗い。


 浜には、あちこちに遊んだ跡がある。

 落書きに砂山、大きくあいた穴。

 それに足跡だらけだ。


 砂浜の手前にある幅広の階段で、私は腰を下ろした。

 海風が気になった。


 近くに来た叔母も腰を下ろし、どうにか新聞に火をつける。初めて大島に来た私の婚約者の慎弥は、風よけの役割を買って出てくれた。

 あまり焼けていない、面長な顔が愛おしい。


 持ってきた線香すべてに火を移し、提灯ちょうちんに入れた蝋燭ろうそくにも火を点す。

 灯火が消えないよう、私はすぐに提灯の形を整えた。


 階段に線香を置いた叔母が、新聞の火を消すと、立っていた五人も道路側を背にぱらぱらとしゃがんでいく。


 砂浜に妹の彩乃、その娘の瞳、彩乃の夫である雅樹が。

 私の右手には慎弥、叔母の加代子、そして年下のいとこの鷹志。

 左手には父が。


 ずば抜けて背が高い父に、眼鏡をかけている鷹志。

 痩せ形の叔母は、綺麗な二重をしていて、鼻筋が通っているところも祖父に似たのだろう。祖母に似ているのは、耳の形と口元くらいか。

  鷹志は三兄弟の三男で、二年前に大学院を卒業後、札幌の企業で研究職に就いている。

 瞳は小学校入学まで、あと二年足らず。

 慎弥と私の左手の薬指には、まだ指輪がない。


 海に向かって、全員が合掌する。

 瞼の裏に、母のとびっきりの笑顔が浮かんだ。

 決して美人とは言えないが、いつまでも見ていたかった。


 座ったまま回れ右をして、私は右腕を、叔母は左腕を背中にまわす。

 他の六人は両腕を。

 毎年のことだが、この格好をしている自分たちは、どうも産卵中の海亀にでもなったような気分になる。


 波音を背に立ち上がる際、叔母が掛け声をかけた。

「よいしょーっ」

 おごそかだった雰囲気が、一気に吹き飛ぶ。

 余りに力を込めて言うので、思わず吹き出したのは私だけではない。

「そんな重そうに言う?」

 息子の苦言に、叔母は即座に反応した。

「だって、何人おぶっとると思っとん。重いに決まっとるやろ」

 そういえば、母は辛気しんきくさいのが苦手だった。

「ただ腰が悪いだけやろ」

「自分だって、中学の時に座ろうとして、おならしたくせに」

 高校に入るまで、鷹志は太りに太っていた。どうやって痩せたのかは、未だに教えてくれない。


 息子を絶句させた叔母の反論に、隣で慎弥が息を飲むのが分かった。

 見ると、俯き加減になって、必死に笑いを噛み殺している。

 雅樹も遠慮して下唇を噛んではいるが、がっしりとした体が小刻みに震えていた。


「あれ、わざとじゃないし」

 口を尖らせた鷹志が「酷い」と呟いた。

 あれは、十五日の送りのときだっただろうか。

「知っとうよ。でもさ、あの音」

 あの時のおならは、決して大きくはなかったが、気の抜けるような音だった。

 引き笑いする私を軽く睨み、鷹志は自分の母親に懇願する。

「ねえ、もう分かったけん。やめて」

 正直なところ、叔母に口でかなう者はここにはいない。


「ちなみに、誰が一番重い?」

 軽口めいた口調で叔母に尋ねたのは、父だった。

「姉ちゃん」

 答えるまで少し間があったものの、私と彩乃は顔を見合わせる。

「もう、二人とも怒られるよ」

 真剣に叱る妹の姿に、相変わらずだなとつくづく思う。


「っていうかさ」


 鷹志が母親の背を、舐め回すように見始めた。

「本当に重いんやったら、誰か知らん人まで乗っとったりして」


 さっきの仕返しだろうか。

 静かな物言いが、余計に恐怖を煽る。

 だから私まで、背中に撫でるような悪寒を覚えた。

 叔母の顔色を伺うと、効果は覿面てきめんだったようだ。

「そっちこそやめてよ」

 声を抑えてはいるものの、叫びに近い。

「まあ、でも」

 続けて彩乃が、叔母に笑顔を向けてなだめる。

「お母さんの友達とかやったら、別に構わんけどね。話し相手にもなるやろうし」

 雅樹が口をきゅっと結び、慎弥の顔も心無しか引き締まる。


 母が亡くなったのは、四年前の晩秋だった。だから近所の庭木や街路樹が色付き始める季節になると、実家から病院に通い詰めた十日間を思い出す。


「さっ、連れて帰ろっか」

 仕切り直しにと、声を掛けた私は一歩踏み出した。

 揺れる蝋燭の火は、大好きな慎弥の手に上から守られている。

「ひーちゃん、ばあちゃん落とさんとよ。仏様、落とさんでよ」

 彩乃が娘に向けた言葉だ。

 去年も聞いたフレーズ。

 私たちが幼い頃、誰かしら大人に言い聞かされていた。

 瞳は彼女の祖母と会ったことを覚えていない。

 じかに聞くあの人の声を知らないまま、大人になるのだ。

 大学時代、私は母に一度だけ、孫の顔が見たいと言われたことがある。

 あれは懇願というよりも、むしろ独り言に近かった。

 私は古い考えだと一蹴しはしたものの、罪悪感が未だに残る。


 柵のないところから路端ろばたに出ると、瞳が私に近づいた。

「毎年思うんやけど」

 叔母が目を細めて続けた。

「お盆が近くなったらさ、大島に帰ってくる仏様たちは、この辺りの海で同窓会とかしよるんやろっかね?」

 そう考えると嬉しかった。待ち合せなんかもするんだろうか。

「それあるかも」

 思わず声が弾んでしまう。

「久しぶり、って?」

 鷹志の声も明るい。

「そう。姉ちゃんの年齢やったら、まだ仲間は少なかろうけどさ。お母さんとか、海を生け簀に見立てて、友達と酒盛りしよったりしてね」

「ああ、あり得る」

 私は自分の口元がゆるむのを自覚した。


「親戚同士で。例えば、何代も前の先祖がさ、生前には会えんかったひ孫とか、その下の子孫たちに、お盆になったらここで会えるんよな」

 父の言葉に感動することなんて、そうそうない。

「婆ちゃん、酔っぱらってから、ひい婆ちゃんに叱られよったりしてね」

 そう口にした鷹志は、かなり嬉しそうだ。

 雅樹は私たち姉妹の母だけでなく、祖母にも会ったことがある。

 

 この島をかこう玄界灘のどこかで、盆が近くなると毎年、よいよい船の上で大小の宴会が開かれている。そんな様子を想像すると、凄く楽しい。

 明日、二日酔いになる仏様もいるのだろうか。

 

「仏様、みんなで背負ってきたけどさ。仏様たちも俺たちの背中の上で、婆ちゃん背負いよったりして」

 鷹志が両手を回す背中の上に、酔い潰れた祖母の姿を想像する。

 すっかり頭が白くなった、か弱い祖母の姿を。

「迷惑」

 出た言葉とは裏腹に、顔をほころばせた私を更に笑わせたのは、上体を左右に揺らす父だった。

「背中の上で千鳥足とか」

「もう、言いたい放題やん」

 呆れたとでも言うように、叔母が音を鳴らして息を吐く。


「仏様ってさ、どんな風に背中に乗っとうと思う? だって大人数よ?」

 私が長年の疑問を口にすると、答えたのは父だった。

「みんなおんぶやないん?」

「背負われた人の上に、また背負われるってこと? それやったら、下の人が」

 聞き返した私は、すっと鷹志に視線を移した。

「でも重さがなかろ?」

「ああ」

 叔母の正論に納得したのは、表情から私だけではないと分かった。

「風があったら危ないよね」

 彩乃が会話に加わると、娘の瞳が無邪気に聞いた。


「一番上の仏様って、雲に届くかな?」


 上の方にいる仏様たちが、大島の全景を見下ろす様子を想像する。周囲がおよそ十五キロの、緑の多いこの島を。

 風車に灯台、牧場の牛たち、それに砲台跡。

 島の北東にある、高い卒塔婆そとばのような赤茶色の岩には、私は座礁した船を弔うためと聞いたが、まるで記念碑のようにしめ縄が掛けられている。


「届いとるかもね」

 孫に笑顔を向けて、父が優しく答えた。


「俺は、人間の塔みたいなのを想像してました。組体操っていうか」

 思わぬ慎弥の発言に、あちこちから驚きの声が上がる。

 彩乃が腹を抱えて笑う姿を見たのは、五年振りだった。

「立っとうわけ? 肩の上に?」

 私が引き笑いしながら聞き返すと、慎弥に雅樹が救いの手を差し伸べる。

「大丈夫です。俺は、葡萄のふさみたいなのを想像しよったけん」

「房っ」

 たまらず吹き出したのは、鷹志だ。

 父も叔母も、肩を大きく震わせている。

「ちょっと嘘やろ? 背負うんよ?」

 雅樹は、楽しげに妻に反論した。

「いや、だって。そっちの方が安定するかと思って」

「前におったら怖くない? 顔を覗かれるやん」

 口元に片手を当てた彩乃は、笑いを堪えきれずに俯いた。

 

 おんぶに抱っこに組体操。

 母は今、私のどこかに触れているだろうか。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る