第3話 優しい紳士

「あたし」は、本当に役立たず、だった。


だって、自分の素性も名前も知らない上に


性別だって、知らなかった。


性別ってものがある事も、知らなかった。


貧民街は、いつも腐った生ごみの匂いと


泥とヘドロと、何とも体が、反射的に全細胞で、拒否したくなる


少し先の頭上に在る、何を造って居るか分からない、


工場、と呼ばれる所から垂れ流されてくる


得体の知れない、綺麗な色をした、濁った液体の匂いと


少しの、鉄に似た、少し時間の経った


何かしらの、生き物の血の匂いと


毎日食べる、恐らく、貧民街の家々の母親が作ってる


何か煮てる、何かの食べ物の生温かい匂いで


いっぱいだった。


昼夜問わない、男達の何かに酔った叫び声、怒鳴り声。


女達の不自然な嬌声と、悲鳴。


笑っているのか、泣いているのか分からない


子供達や、赤ん坊の声。


あばらのでた犬と猫と、良く太ったネズミ。


上を見上げると、濁った遠い遠い、小さな灰色の空を後ろに


巨大に高く、そびえ建った、やたらと銀色に光っている建物の隙間に


同じ様に、誇らしげに、キラキラと白く、光りながら


規則正しく、右に左に真っ直ぐに飛んでいる


小さく少し長い、乗り物らしきものが、無数に見えた。


「あたし」は、その最初に見つけてくれた、じいさんの家に


身を寄せて居た。


時々そして、夢を見た。


とても穏やかな微笑を湛えた、若く綺麗な顔と身なりの女が、無言で、その優しい顔で


私の頬を、その白く綺麗な手で、打つ。


その傍らで、背中を向けたまま、無言で背もたれのある


柔らかそうに沈む、大きく横に長い広い椅子に座り


ひたすら無表情で、白く光る大きな飾りのついた台の上で、


熱心に、いや、機械的に、何か無数の駒を動かしている


銀色の細い淵の、眼鏡をかけた


スーツを着た、面長の、髪を綺麗に整えた、身なりの良い男。


「あたし」は、その夢を見て、目覚めた時は


決まって、ギャーと、大きな奇声を発して


ダラダラと汗を流して


早く波打ちすぎて、止まっているかのような心臓を抱えて


暫く、身体も動けずに


自分で自分の身体を、ぎゅうと両の手で掴んで


長い時間、頭が真っ白だった。


それは、性質の悪いことに、目が覚めている時でも


突然、頭に浮かんできて


その度に私は、錯乱して、叫んで、心臓を抱えてうずくまってしまうから


皆がしている、当たり前のことが中々出来なかった。


「おい、大丈夫かの?おまえさん?」


一緒に住んでいた、じいさんは、「あたし」がそうなる度に心配そうに顔を覗き込んで


背中に手をやって、そのしわくちゃの茶色の手で、


一生懸命、さすりながら、でも途方に暮れていた。


「ほれ、これを吸えば、少しは楽になるかもしれん。」


と、あの例のものを、「あたし」の口に入れた。


医者なんて、居てもこの街では、とても高くて行ける所では、なかったから。




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