銀色の自由

西秋 進穂

銀色の自由(1)

理科の授業内容が植物のスケッチだと聞いたとき、天崎銀太あまさきぎんたはひどく憂鬱だった。


「生物のスケッチは美術のそれと異なる」

赤坂ほのか教諭は、よく通る涼やかな声でそう言った。


特別棟にある第一理科実験室。

六時間目。

窓から差す九月の陽光はまだ強い。


中学三年生にもなってスケッチか、と銀太は疑問に思った。

なぜよりによって――。


「線ははっきりと書く。陰影はつけないし、二度書きしない。それに周りの余計な情報をいれない。対象物だけ書くんだ」


この口調はほのかの平常運転。

別に怒っているわけではない。


まだ二十代後半という年齢のため、生徒になめられないように工夫しているのかもしれない。

身長百六〇センチ程度のすらりとした体には、白衣とジーンズがよく似合っていた。

男子からの人気は上の中。女子からの人気は中の上、といったところ。

中学生男子なんて単純なもので、面倒見のいい女性教諭には弱い。

特に若くて綺麗ならば効果はばつぐんだ。


「では準備が終わり次第、学校内ならどこでもいい、各自スケッチを始めてくれ」


言い終えると壇上の机にトントンと小気味いい音を鳴らして、資料の角を揃える。

その白衣とは対照に、肩甲骨のちょっと先まで伸びた黒髪をなびかせ、教壇を降りた。


「ああ、それと――」


ほのかの口角が吊り上がり、白い歯が覗く。


「書き終わらなかったら居残りだからな」


銀太は余計憂鬱になった。











昇降口へ向かう。


目に入る掲示板。ポスター。

最近新設の部活がやたら増えた。

生徒の自主性を重んじるとかなんとか。


野球部の応援ポスターや美術コンクールの応募など見慣れたものもある。


銀太はそれらから目を背けるように、校庭へと向かった。











一時間後、銀太は三角座りでその太ももの部分にスケッチブックを置き――ただぼうっとしていた。


ワイシャツと制服のズボン。暑い。


銀太は苛立っていた。


――わかっていたのだ。

居残りになることは、迷って傘を置いてきたときに必ず雨が降るように、銀太にとっては自明のことだった。

スケッチが苦手なわけでは決してないのに。


先ほど一緒に居残りを決め込んでいた戦友が、

「じゃあ先、帰るわ」

とあっさり行ってしまい、銀太は一人ぼっちになった。


男子の友情なんてこんなものである。


そもそも担任はほのかなので、提出が済んだらそのまま教室に帰り、荷物をまとめて帰宅するだけでいいのだ。


「はぁ……」

人知れずため息なんかついてみる。


指先で鉛筆をくるくると器用に回した。

もちろん、そんなことで状況は変わらない。

無意味だ。

銀太はそう思い、空を見上げた。


目の前には四メートルくらいの背丈の木。

派手な色の花を咲かせている。

全体が丸っこく剪定されていて、可愛らしく見えなくもない。

だが、銀太にはそれがとても憎らしく見えた。


「どうだい首尾は」

背後から唐突に声。


「まだ出来ていませんよ」

振り返らなくても銀太にはわかる。このいつでも凛としている声はほのかだ。


「そうか。残りは天崎だけのようだな。確か――絵は得意ではなかったか?」


ほのかは記憶の糸を手繰り寄せる。

過去に絵画コンクールの受賞歴があったはずだ。

最優秀賞になったことこそはないが、何度も入賞したことがあるはず。


「大したことないですよ、あれは時間をかけて作りましたから」


――金木犀の花言葉のひとつは確か、謙虚だ。

ほのかはこのときそう思った。


そのまま銀太の横に立つと、目線を上げてスケッチの対象物を仰ぎ見る。


「それにしてもここは――」

ほのかは目を閉じ、すうっーと息を大きく吸い込む。


座りながら横目でそれを見ていた銀太の角度からは、ツンと背を伸ばした白い鼻と、ピンと張ったまつ毛が見えた。


「ここは――やはり甘くて、うん、甘すぎる香りがするな」


表現はともかくその通りだ、と銀太は思った。

ここの香りは甘すぎる。


もちろんその理由はスケッチしているそれ――金木犀の花だった。


「ほんとですよ。本当に甘くてなんだか、嫌になってきました」

銀太はHBのもう丸まり始めている鉛筆を滑らせながら、語気を強めて言った。


おや、とほのかは思う。

銀太が嫌いという感情をストレートに表現するなんて。

担任をしてもう半年だが、こんな銀太は初めてみた。

コミュニケーションには波風立たせないタイプだと思っていた。


「どうした天崎、金木犀に恨みであるのか?」

まるでそんなわけないだろう、と続くかのような語調。


「……特に恨みってわけじゃないですけどね、この主張の強い感じがちょっと。押し売りみたいで、苦手なんですよ」

銀太は顔をあげても金木犀の方しか見ない。

嫌いといった金木犀の方しか。


ほのかは白衣のポケットに両手を突っ込んだ。

絵が得意なはずの銀太が、一人居残りになっている。

そして嫌いであるはずの対象物をわざわざスケッチしている。

なにかあるな、とほのかは思った。


「先生は好きだけどな、金木犀」

「先生が好きかどうかなんて聞いてないです」


銀太は言いながら、自分はこんなことを言いたいんじゃないと思った。

いつもの自分じゃない。少なくとも感情的になっている。

さっさと適当に仕上げて帰れば良かったと内心後悔した。


ほのかは顎に手を当てて一瞬思考し、

「ついて来なさい」

といった後、突然背中を向けて歩き出した。


有無は言わせないらしい。


「え、なんですか。ちょっと待ってください」


「とっておきを見せてあげよう」


銀太は慌てて立ち上がり、ほのかの背中を追う。


「みんなには内緒だぞ?」

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