第4話 応援

 昨年9月の日本拳法総合選手権大会。


 小中学生の試合では、家族の方々が大きな声で声援を送っていました。

 ママさんなどはメガホンを使い「先に打て、待つな !」なんて、コーチや監督みたいです。自分の子供が一本取ると、メガホンを叩いて隣の親父と一緒になって、飛び上がって大騒ぎ。


 私たちの時代は「子供のケンカに親は口を出さない」なんて風潮でしたから、親が学校に来るのは年に一度の運動会と父兄参観日くらいで、いまどきの塾への送り迎えとか子供同士でキャンプに行くという行事があっても、親がついてくるなんてことはありませんでした。今と違い、専業主婦が多い時代でしたから、わりと暇だったはずなんですが。


 私が大学1年生の時、春の大会が行われる日曜日の朝、防具が2セット入ったバッグとタオルがギッシリ詰まった紙袋を下げて出かけようとすると、たまたまその日、中学校でバレーボールの試合があるので、やはり早起きしていたセーラー服姿の妹が朝飯を食いながら、「お兄ちゃん、学ランなんか着て何やってんの ? 」と聞きます。

 母親がしかめっ面をして、カンガルーのボクシングのような真似をしながら、「これだよ、これ!」 なんて言う。

 すると妹は、

 「えー! 大学生にもなってまだそんなことやってんの? ばっかみたい。」

 「そうなんだよ、いい歳してバカなんだよこの子は。」

 更に、母は私を睨みつけながらこう言います。

 「人にケガさせるんじゃないよ。小学生や中学生じゃないんだから。」


 まあ、これは私だけのことではなく、当時の私たち日本拳法部では、親も兄弟も日本拳法というか、子供のクラブ活動なんかには無関心。親兄弟が大会へ応援に来るなんて部員は一人もいませんでした。

 大学生にもなって、まいにち親と一緒に夕御飯を食べている三堂地という(私と違い親と仲良しの)部員ですら、部活のことを話すことがあるにせよ、それ以上の関心を示されることはなかったようです。

 中央や立教、早稲田や日大なんかは、大きな大会になると、部員の彼女や友人たちが応援に来ていたようでしたが、親まで来ていたかどうかは定かではありません。


 大学時代、早稲田に行った高校時代の友人からラグビーの早慶戦に誘われて、神宮まで行ったことがあります。当時でも貴重な切符だったらしいのですが、一緒に行く予定の彼女が親戚の葬式で来れなくなったので、私に回ってきたというわけです。

 私はニュートラルの立場ですから、慶応がタッチダウン(ゴール)した時、その連係プレーと走りの素晴らしさに思わず立ち上がって歓声を上げたのですが、回りの観客の視線に殺されました。

 あとで「おまえなー、早慶の人間というのは、こと早慶戦になると狂信的というくらいになるんだから気をつけろよ」なんて、笑いながら注意されました。この友人は、子供の頃から(イギリスの植民地支配の先兵である東インド会社みたいですが)イギリス・エジプト・インドと、外務省だった父親の転勤で移り住んできたコスモポリタンですから、いつでも冷静というか、決して熱くならない男でしたが、いやはや、彼らの母校愛の強さには驚きました。


 しかし、野球やサッカー、ラグビーのような試合で、選手や部員たちでなく、観客が大騒ぎするのは、それはそれでいいものです。

 相撲なんかは、枡席で焼き鳥なんぞ食いながら酒を飲み、興奮すると座布団を投げたりする。(尤も、これは素晴らしい取り組みに対する、両者への賞賛ですが。)

 歌舞伎の一見席、特に西洋の芝居における天井桟敷の観客など、その感情移入は凄まじいくらい。子供のころ、祖父に手を引かれて行った浅草の寄席では、下手な落語家は観客にぼろくそ言われて退場したりしてました。


 日本拳法の場合でも、試合を判定する主審・副審がいて、更に観客というのは、いわば第三の審判員のようなもの。審判の判定に(贔屓目としての)不満があれば、ブーイングはないでしょうが、ため息やどよめきが起こるのは自然のことです。


 ただ、私は今回の日本拳法という武道の大会で、自分の贔屓の選手やチームが一本取ったり勝つとはしゃぎまくる大人たちを見て、少し寂しい気がしたのです。

 これは私だけの、全くもって個人的な考えなのですが、私は日本拳法というものを「ケンカを抽象化したもの」という気持ちで、もっと言えば、武士が剣をもって戦う殺し合いというスタンス(姿勢・感覚)で見ているからだと思います。

 それほど危険で恐ろしい真剣勝負ですが、実際には防具を着け、審判が見守る中で安全に公平にやることができる。見ている方も、安心して見ていられるのだと。

 そういう日本拳法の場合の勝者とは、言わば相手を殺して自分が存在している、という感覚で私は見てしまう。ですから、「ざまあみろ、オレたちはお前よりも強いんだぞ」と言いたげな応援というのは、私には敗者(殺された者)をいたぶっているように感じてしまうのかもしれません。


 子供の頃、仲間が誰かと殴り合いになるのを端で見ていることがよくありました。

 そんなとき、自分の友人が勝った場合、私も他の仲間もガッツポーズや声援は上げなかった。

 目の前に、血まみれで這いつくばっている敗者がいるのです。

 それを見ながら、おめでとうとか、よかったなんて言えません。

 「武士の情け」ではありませんが、皆、無言でその場を離れていきました。

 

 試合場で奮戦する選手の仲間が声援で仲間を盛り立てるのは、全員で試合に参加しているという意味で当然のことです。

 しかし、観客席という、言わば審判をも見守る神の目線で見れる場にいる人たちの声援や拍手とは、試合場で戦う二人に対して与えられるものではないのでしょうか。

 勝者と敗者、両方とも良く敢闘したよ、という労(ねぎら)いの声であってこそ、真理の裏表を見ることを目指す武道らしさ、その武道に観客として参加していると言えるのではないでしょうか。


 もっとも、そんなママさんから、

 「あら、私たち少しはしゃぎすぎちゃったかしら ?」 なんて言われたら、

 きっと、

 「とんでもない! 僕もそういうの大好きなんです ♡♡♡ 」 などと言ってしまうのでしょうが。



 2019年5月19日

 平栗雅人

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