第九十七話 炎の名前
ナミは床で唸るように叫び、股からは透明な液体が出てきていた。それが出産の前触れだと知っているレイとワカタは、蒼くなって顔を見合わせた。
早すぎる。
通常子どもは十ヶ月程度で生まれてくると聞いた。だがナミは月のものが止まってまだ半年ほどなのだ。これは明らかに正常な出産ではない。
「私の寝台へ運ぶわ! ワカタは」
「分かっています!」
ワカタはすぐに駆け出し、計画通り、出産に立ち会った経験のある侍女達を呼び集めた。自分たちが呼ばれるのはずっと先だと思っていた彼女たちは、大いに慌てふためいて着替え出した。この時期での出産が何を意味するのか、それはレイよりもずっと理解しているのだろう。
廚にはとにかく湯を沸かせと命令を出す。池や川の水はもう赤く穢れてしまっているため、貯めてあった雨水を使うしかない。
「ナミ、しっかりしなさい! 絶対に気を失ってはだめよ!」
寝台に横になってもどんどん顔が蒼くなるナミの手を握りながら、レイは自らも汗まみれになって彼女に話しかけ続ける。
すぐに神殿の外に人をやり、王宮の専門家を呼びたいところだったが、今の状況ではそれも危険だった。神殿の侍女長が妊娠している事は、侍女なら誰もが知っていることではあった。巫女として集められた女たちは今や大巫女に使える侍女なのだから、結婚も出産も別に禁じられているわけではない。若く美しく気品溢れる侍女長の妊娠に、祝いの言葉をかける者も多かった。通常であれば、ミカドの耳に入ったところで気にもしなかっただろう。
だがその侍女長が追放された王族であり、実の兄の子を身籠もっているのならば、事情が全く違ってくる。
そもそも今は王族ではない者が近親者と子を作ること自体が重罪であるし、生まれてくる御子を、次のミカドに即かせようとしている計画が知られでもすれば、すぐさま命を奪われるのは間違いない。
そして、ヤクサ将軍の突然の出征、それをこうも直前まで神殿にはひた隠していたミカドを思えば、すで計画を察知されている可能性が高いのだ。
今、神殿外に侍女長の出産の動きが伝わる事は危険すぎた。
全ては神殿内で対処するしかない。しかし、本当にそれが最善の方法なのだろうか。
レイは自分の震えを隠すように、ナミの手を強く握りしめた。
そのうち、やってきた侍女の一人が恐る恐る、この場所でお産を進めて本当に良いのかと聞いてきた。理由は分かっている。出産に伴う血の穢れを心配しているのだ。
「仕方が無い。このまま進めなさい」
念入りに清めれば大神は許してくれるだろうと早鐘を打つ自分の胸に言い聞かせた。
人が集まり、湯も布も大量に部屋へと運び込まれる。時間が随分と経ったが、それでもナミは変わらず呻き続けていた。
朦朧とした意識の中で、口からいくつかの言葉が零れる。
「ああっ、お兄様。ナギ。ナギ。」
「しっかりしなさいよ。あなたには大きな役目があるでしょう。私に、国を救えと言ったでしょう。もうすぐあなたも、国を救えるのよ!」
それだけではない。このまま御子を出産し、計画が成功すれば彼女は国母なり、全てを手に入れることが出来るのだ。腐敗した大臣どもの一掃、優秀な役人の育成、各地方の状況の把握、それに応じた村々への救済策、豫国を取りまとめ、かつての威光を取り戻すまでの道のりにはやるべき事はいくらでもあった。その中心に、自分たちは立つのである。
自ら綿布で額の汗を拭いてやりながら、レイは描かれる未来を次々に囁いた。
すると今まで汗と涙にまみれて目を瞑っていたナミは、かっと目を見開き、僅かに起き上がってレイの髪を強く掴み引っ張った。そのまま自分の方に顔を引き寄せ、ミカドを彷彿とさせる狂人のような目顔をレイに向ける。
「こんな国など・・・知ったことか! 私はただ、愛しい人と本来あるべき地位で、安らかに暮らしたかっただけ。私は何故失わなければならなかったの。時と場所が違えば、私の恋は罪ではなかった。なのに、ただその時の法で禁じられていたばかりに、この国は、私たちを否定した! 全てを奪った! 全部取り戻してやる。そして私たちを追い出したこの国を変えて、思い知らせてやるのよ」
その瞳の奥の炎の色は、ずっと自分の中で燃えていたものと同じだった。この高貴な姫の深層に、まさか自分と同じ想いがあったことにレイは呆然として驚いた。
それは今まで考えたこともないことだった。彼女の身の上を改めて思い出してみる。王族、ダン家。豫国の姫君として生まれ、周囲からは大貝に守られる白玉のように大切に育てられたのであろう。だが、そんな高貴な彼女でも、法に触れる禁忌の恋は許されなかった。
それでも彼女は止まらなかったのだ。誰もが羨む栄華の地位を追われても、愛する者と手を取り合って逃げるだけではなく、自分たちを否定した国に声を上げて立ち向かおうとした。自らを鍛え上げ、神殿にまで忍び込んできたのだ。
彼女が抱え、動かしていたものはもしや、自分の心の奥底にあるものと同じなのではないだろうか。まさか、人と人は同じなのか。だとすれば。
他人の中に自分を見た時、レイは心に直接触れられたような感覚を覚え、唇を震わせた。
ナミを握りしめる力がなお強くなる。
「そうだ。この国を変えよう! お前がここで頑張ってくれれば、私も自分の役目を必ず果たすわ。だから一緒に、この国に復讐しよう!」
そして時は流れた。日は沈み、天には星が輝き始める。
ナミは寝台の布を握りしめて、変わらず呻いており、出血も続いていた。
レイもワカタも、これが早すぎる出産である事を思い、最悪の事態も想定しなければならなかった。
しかも時間が無い。自然な形でミカドの寝室へ行くには、ヤクサ将軍が発った今夜を置いて他にない。今夜ならば、一体何が起こっているのかとミカドに問うことも、戦勝祈願を申し出ると言うことも当然の流れである。だがもしこのままこのお産に付き合っていたら、その機会を失ってしまうのだ。
張り詰めた空気の中、ナミはまた何かを呟きだした。先ほどとは別人のように、今度は弱々しい声だった。
「レイ様・・・どうかお行き下さい。私は、私は必ず立派な御子を産んで見せますから、どうかご自分のお役目をお果たし下さい。そして、もし私が命を落としたとしてもどうか必ず、我が子を・・・」
訴えるナミの瞳には正気が戻り、清らかな涙が流れていた。
レイは深く息を吸うと、ナミの手の甲に口づけをして呟いた。瞬間、身体の中にナミから尊いものが伝わってくるような気がする。
「ワカタ、後は頼む」
心は震えていた。だが、その一言で全てを託せる相手がいることが何故か嬉しい。
レイは五人の侍女を呼び寄せ、聖なる杖を握って神殿を出た。
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