第九十六話 動乱



 レイは暗闇の中、自分が宙に浮いていること気がついた。まるで泉に浮かんでいるように、我が身の重さを感じない。

 そして、これはいつもの夢である事も悟った。


 先日の闘技会に続いて、今年も年送りの日が近づいてきている。また、サキが出てくるのだろうと、微睡みの中、レイは長年の経験からすぐに思いを巡らせた。だが、いつもなら気持ちが沈むこの夢が、今日はなぜか心地よかった。


 今ここにサキが現れれば、自分はイヨのことを教えたい。サキと瓜二つの姿を持つ娘。あのままではシンハに食い殺されるか、生贄となっていたはずのあの娘を、自分は助け、神殿で守っているのだ。


 冷静に考えれば、その事とサキ自身とどう関係があるというわけではない。もう命を失ってしまったサキが蘇ることは二度と無い。しかしそれでも、自分は今度こそあの時の間違いを、後悔を、やり直す機会が訪れ、それを自分の意思で掴んだのだと告げたかった。


 そして、今度こそ、心からの謝罪を彼女に伝えたかった。

 レイがぐっと目を閉じると、自然と涙が零れ、静かに頬を伝っていった。

 だが、さあ、サキよ、私に呼びかけてくれと大きく息を吸い込んだ時、レイの耳には待ち人ではない人物の声が聞こえた。


「レイ」


 はっとして目を開ける。

 そこにはいつも夢に出てくるはずの幼い日のサキの姿ではなく、別の人物の姿があった。


 「お前は誰だ・・・まさかナル?」


 その人物は裾が長いだけのごく簡素な白い衣を纏い、輪郭を薄く輝かせて闇の中にいた。金冠も白玉も一切身につけておらず、儀式用の化粧もしていないはずなのに、その佇まいにはどこか華やかさと威厳が同時に感じられる。それは先代の大巫女サクヤのようでもあり、大幹部のイワナのようでもあった。

 だが相手はレイの記憶にあるナルの容姿とは、微妙に違っていた。よく見れば目鼻の位置や眼差しはナルを彷彿させるものがあるが、その印象はかつての彼女とは大きく違う。


 どこか男性的なのだ。

 まるで、ナルの弟であるかのように、面差しは似ていてもどこか少年特有の柔らかさと固さが備わっている。

 

レイは聡明な頭ですぐさま無数の可能性から、一つの応えを導き出した。


「お前・・・やっぱりナルだわ。でも、一人ではないわね」

 ナルは無言で肯定した。


「どうして、ここに」

 ナルは暗闇に響き渡るやや低い声で答えた。


「私は御箱で、あなたは聖杖で。私たちはともに大神と繋がっているのだもの。会おうと思えば、いつでも会うことが出来るわ。ねえ、レイ。このまま豫国が二分されていては、民も国土も疲弊して国が滅びてしまう」


「そんなことは分かっているわよ! だから私はそれを止めようと動き始めたの。でも良い機会だから言うわ。さっさと御箱を渡して、ミカドに投降なさい。そうすれば全てが解決するじゃないの。豫国は再び一つになって、超大国として君臨する。それでいいじゃないの」


「いいえ。仮にそうしたとしても、もう豫国は以前のようには戻れない。サクヤ様が言っていたわ。大神は遠くなり時代が変わると。あなたも神殿の大巫女であるなら、大神と豫国の変化を肌身で感じているはずよ」


「何が言いたいの」


レイは鋭く睨み付けたが、ナルは暗闇の中をすっと寄ってくると、白玉のように輝く掌でレイの両手を包み込んだ。


「協力しましょう。東と西、この豫国の大巫女同士で。今、ミカドはあなたには秘密で、伊国にヤクサ将軍と大軍を向けようとしているわ。巫女団から御箱を奪い、私を年送りの生贄とするために」


 「な、なんですって」

 そんなことは初耳だと、レイは身を震えさせた。


「どうかそれを止めて。このままでは、多くの民が犠牲になってしまうわ」

 レイはしばらく黙り込んでいたが、ようやく頭がまともに働くようになると、周囲の暗闇に目が行った。いままでは完全な闇だった空間には、あちこちに花が一輪だけ生けられた花瓶がいくつもある。花瓶は同じだが、その花の種類はどれも違っており、どれも可憐で美しいものばかりだった。

なぜそんな花が、ここにあるのか。その答えに気がつき、レイは小さく笑い出した。


 「そうか・・・ついにミカドが命じたのか。あれだけ私が勧めても全く聞く耳を持たなかったものを。おまけにお前を生贄に。これは傑作じゃないの」


「レイ」


 レイは肩にかけようとするナルの手を、打つように振り払った。

 途端に周囲の花瓶が割れて破片が飛び散り、生けられた花々が散った。


「私に手を触れるな!  ふん、ミカドとヤクサ将軍を止めたければ、さっさと御箱を渡せば良いのよ。今更お前と協力など出来るわけがない。お前には分かるまいよ。どれほど正しかろうと、突然心の中に入って触れられては、決して受け入れられない傷だらけの者もこの世にはいるのだ。ナル、ここから出ていきなさい! 二度と、私の心に入ってくるな! 豫国は私が救う。ヤクサ将軍が王都を留守にするならこんな好機はまたとない。ミカドを斃し、新たなミカドを立てて、私が摂政となるのだ。豫国は私が立て直す。王都の馬鹿どもを排除し、お前も年送りの生贄にしてやる」


「もう一度言うわ。どうかヤクサ将軍を止めて。そうしなければ、私はある事を行わなくてはならなくなる。それは、もう避けられないことかも知れない。でも、避けられるものなら避けたいの。このままでは、豫国は最も大切な宝を失うことになるでしょう」


 決して拉がれないナルの眼差しには、強さよりも哀れみのような色があった。


 それは絶対的な強者が持つ、揺るがぬ余裕のようでもあり、レイはとっさにひやりとする。

 一体ナルは何をしようとしているのだろうか。豫国の最も大切な宝とは、御箱のことだろうか。もしや自分が捕らわれるのならば、いっそのこと御箱と中の鏡を破壊してしまおうとでも言うのだろうか。あるいは、聖杖を奪う気か。

 それだけは決して許すことは出来ない。あの杖を失えば、自分は全てを失う。

 拳を握りしめ、そうナルに訴えようとしたところで、現実からの声がレイを深い眠りから覚ました。

 庭園から小鳥の声が聞こえ、軽い頭痛とともにレイが寝台で目を開けると、部屋の入り口から儀仗であるワカタの声がした。


「レイ様、一大事です!」

ワカタは礼儀もお構いなしに寝台の前まで駆け寄り、跪いた。レイは起き上がって寝台から足を降ろす。


「・・・ヤクサ将軍が、東に軍を動かしたの?」


「どうしてそれを」


「・・・ワカタ、これは好機だろうか」

「何分、急過ぎます。神殿の侍女達もほとんど鍛えておりませんし、王殿に攻め入ることに戸惑う者もいるでしょう」


「そうだろう・・・だが、ヤクサ将軍とほとんどの兵が王都を離れることなど、今後あるはずがない」


 レイは素早く思考を巡らせた。

 ヤクサ将軍と兵がいなければ、王宮の守りは薄い。ミカドと二人きりにさえなれば命を奪うことは容易い。そして聖杖を持っていれば、ミカドの儀仗や僅かな警備兵を黙らせるなど造作も無いことだった。


 しかし問題はその後である。


 次のミカドは、まだこの世に誕生していないのだから。

 いや、とレイは思考を切り替えた。ミカドさえ斃すことが出来れば、腑抜けばかりのこの王都で、聖杖を持つ大巫女たる自分に逆らえる者などどこにいようか。ヤクサ将軍も、一度戦を始めれば王都への帰還には日がかかるはずだ。

大臣たちをあと少しばかり黙らせることに、何の問題があるだろうか。

 成功した時は、考える時間はいくらでもある。

 今は失敗した時のことを考えるべきであろう。

 レイは老いたミカドの姿を思い浮かべながら、万に一つもないだろうがと自らの心を撫でた。

 

「ワカタ、ヤクサ将軍と兵は今どこに」


「すでに王都を出て北上しています。八岐川から東へ攻めるのでしょう」


「神殿には出兵を知らせず、戦勝祈願の話もなかった。と言うことは、これは意図的な情報封鎖・・・。ミカドが? しかし」


 気持ちを落ち着けようとふと庭に視線をやると、目の前の光景にレイは喉を引きつらせておののいた。

自分が育ててきた庭園の、この世で最も清らかな池が、徐々に血のような赤い色に染まっていっていた。  放たれていた小魚は死んで次々に浮かび上がり、木々からは鳥が雨のように降った。

すぐに異臭が放たれはじめ、花々は萎れてあの細やかな庭園はどんどん穢れていった。まるで、自分の心を汚されていくような光景だった。


「一体、何故こんな事に」


 レイは蒼くなって我を忘れ、誰に向けるでもなく怒鳴った。そしてすぐに先ほどの夢を思い出した。あの哀れむような表情。目の前の光景がナルの仕業では無いかと思った途端、炎のような怒りがこみ上げ、その分何故か頭は冷静になる。


「ここの池が赤く染まっていると言うことは、神殿の他の池、王都の水場、あるいは大元のシマムト川も・・・」


 王都周辺にとって、シマムト川は生命の源である。王都の生活水、農業用水、庭園の池は全てこの川の支流から引いているし、ここから捕れる魚の数を考えれば川自体が貴重な食料庫なのだ。それを侵されるということは、王都の壊滅を意味する。


 レイはふらつく足下に力を込め、汗の噴き出るこめかみに手をやった。


 これは間違いなく、呪いである。東の大巫女であるナルが、ついに豫国の王都を呪い始めたのだ。すぐに防御を固め、こちらも呪詛を行わなくては。

 レイは振り返り、すぐに聖杖のある祈りの間へ駆けようとしたが、入り口に立ち塞がるように現れた女の体と、言葉ではないうめき声がそれを退けた。

 

「ナミ・・・。一体どうしたというの」

 ナミは目を虚ろにして顎を震わせながら涙を流していた。髪は乱れ、肌は荒れ、普段の気品は見る影もなくなって、今にも座り込みそうなほどの暗い弱々しさで立っている。


「兄が・・・死にました。殺されました」


「冗談はやめなさい。出産が近くなってきたから、幽閉場所で会わせてあげたのは、つい最近のことじゃないの」


「ええ、そうでした。けれど、今日兄に会いに行ったら、誰かに刺されていました。私が見つけた頃にはもう・・・」


「一体誰がそのようなこと。しかもナギがいたのは、この神殿の中なのだぞ」

レイがそう呟くと、ナミは虚ろな目を途端に鋭くした。


「あなたではないのですか。あなたが兄を殺した」


「ふざけたことを言わないで! 馬鹿馬鹿しい、どうして私が今更あの男を殺さなくてはならないのよ。あいつにはこれから働いてもらわなくてはならなかったというのに」


 ナミが新たなミカドとなる御子を産んだ後、正真正銘王族である父親が生きていた方が、何かと都合が良い。むしろ、追放されたとはいえ、両親が王族であるという証明のためにも生かしておかねばならなかったのだ。

 とにかく現場に行くべきである。そして遺体をどうすべきだろうと考えを巡らせていると、ナミは別人のように暗い目顔で迫ってきた。


「あなたは、嫉妬していたじゃないの。私が今まで気づかないとでも思っていたの。大巫女であっても、所詮は奴婢の娘。あなたはずっと自分の出自を恥じて、王家の血を引く私が眩しくて眩しくてしかたなかったのでしょう。私を羨む視線はそれはもう哀れだったわ。だからあなたは、私を不幸にしたかったのよ。私の愛する人と、この子の父親を奪えば自分が幸せにでもなれると思ったの? なれるわけにないわ。あなたは所詮卑しい身。一生ひとりぼっち。この神殿で呪って呪って、誰よりも穢れて行くのよ!」


ナミが狂ったように笑い出すと、レイはすぐさま正気を失っている彼女の頬を打った。


「黙りなさい!」


 ナミは軽く吹き飛び、その場に力を失って倒れ込んだが、レイはそれでも続けて踏みつけようとした。だがその瞬間、ワカタがレイの腕を掴みそれを抑えた。


「いけません! 今刺激を与えてはおなかの子に影響が出ます。おい、誰か! 紫蘇の茶を持ってこい!」


 レイはぐっと堪え、わき上がる怒りと全身を巡る熱を全力で抑え込んだ。

 目の前ではナミが狂ったように泣いている。

レイは目を閉じ、深く息を吸った。そうだ。今はこんな事をしている場合ではない。


 ミカドは兵を動かし、ナルが接触してきた。庭園の池が赤く染まり、生まれてくる御子の父が殺された。

動いている。

 レイは加速していく時代の流れを前に、ただ震撼した。

 だが、背中から両肩を包んだ掌のぬくもりを感じたその時、彼女は刹那の安らぎを感じ、目を開いた時にはもう再び聡明な思考が巡っていた。


「ワカタ。五人で良い。腕が立ち、いざとなれば私の盾となれる者を用意なさい。今夜、王殿に向かいます」


「承知しました。しかし、今ならば私一人いれば・・・」


「いや、お前がいれば逆に警戒されてしまいます。それにお前には別の事を頼みたいのです」


「なんでしょう」


「万が一に備え、一時的にこの王都を出て、ナミとイヨを安全な場所へと隠すの。私たちの真の切り札は、生まれてくる御子よ。どんな自体になったとしても、王族の血を一際濃く受け継ぐ御子がいれば、巻き返すことは出来る」


「しかし、今あなたから離れることは」


「心配は要らない。ミカドに会う時には、聖杖を持っていくから。あれさえあれば、もし失敗したとしても逃げることが出来るわ」


「異界渡りですか」


 その言葉に、レイはどこか寂しげに微笑んだ。


「そう、異界渡りを知っているのね。やっぱりお前は倭・」

 部屋の空気を引き裂くような悲鳴が響いたのは、レイが何かを言いかけたその時である。


「あ、あああああっ生まれる」

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