第八十九話 二つの国の名を持つ少女

 新しい祈りの間にレイが二人を呼び寄せたのは、その日の夜である。夜の祈りの間は、不気味なほどに静かだった。神殿の庭園では夜でも水が流れる音や、梟の声が聞こえてくるが、ここは時が止まったような静けさだった。


 両脇の灯りが揺れる中、レイは聖杖を握り、目を閉じていた。祈っているのではない。深く思考しているのだ。これから、自分は一歩を踏み出す。一体その先に何があるのか、自分がどうなるのかは全く分からない。だが、もうすでに留まるということは出来ないのだと思っていた。


 元王族の兄妹とミオ王女が暗躍し、自分の下にあのサキによく似た少女と恐ろしいほど強い男がやって来た。これは啓示なのかもしれない。そう考えると、自然と胸が早鐘のように打った。


 しかし間に合うのだろうか。


 ミカドは体を蝕まれながらもしぶとく生きており、王都には国や民のために何もしなくとも、自らの保身のためにはなんでもやるような王族貴族が数多いる。彼らが奇跡のような結束で抵抗してきたら、一体どれほどの障害になるのだろう。特に厄介なのは、兵権を握っているヤクサ将軍である。かつての指導役であるキョウと同じ一族である彼は、王都の全ての軍兵の指揮権を握っているのだ。


 今ここから、自分の勢力を築きミカドを斃し、彼らを駆逐するまで、この国は保つのか。なにより、東のあの女は、それまで待ってくれるのだろうか。もし王都が混乱している中、ナルがサルタ将軍をミカドに立ててしまったら、豫国は混迷を極めてしまう。


 だが、もはや何もしないわけには行かない。このまま、人に利用され続け、国が滅ぶのを待ってはいられない。それは、大巫女では無い。

 レイが深く息を吸い込むと、祈りの間に複数の足音が響いてきた。


「レイ様、連れて参りました」


 振り向くと侍女長のナミが、例の男と少女を連れて近づいてきている。二人の身なりは神殿に相応しい衣服に整えられており、少女はその姿がまたいっそうサキに似ている。レイの鼓動はさらに早くなったが、それを悟られてはいけないと自らに言い聞かせた。

 ナミは祭壇の近くまでやってきて、その場に跪いた。少女たちも慌ててそれにならう。


「豫国の大巫女、レイ様にあらせられる」


 ナミの囁きに合わせるように、レイは山のような威厳をもって二人のつむじを見つめた。


「面を上げなさい」

 少女の頭が上がり、その不安げな顔が露わになると、レイは一層驚いた。眼差し、輪郭、鼻筋、似ているどころでは無い。最後に見たサキよりも少し幼いが、これではまるで生き写しである。驚きとともに、闘技会での自分の行動が正しかったのだと、杖を持つ指に力がこもった。

 だがレイは敢えて、興味のある少女よりも瑞々しい姿の若者に先に張り詰めた弓の弦のような声で言葉をかけた。


「闘技会での一件は見事であった。あのシンハを二十頭も一瞬で葬るとは、お前は一体何者だ」


「はい。私は豫国の東の村で暮らしていた者です。天災で村がなくなり、王都へと来たのです」


「ただの村人とな。それは解せない。あの強さ、常人のものでは無いだろう」

「私はただの村人で、兵士になったことはありません。けれども海辺に流れ着いた倭国の者に、剣と気を習ったのです」


 倭国、という言葉にレイの眉は動いた。

「気というのは大陸から伝わった考え方と言いますか、技のようなものです。これを習得すれば、身のこなしが早くなったり、傷が早く治癒したりします。ただ、私も今回初めてあの剣に気を込めて使ったのですが、するとあのような信じられない切れ味が発揮されたのです」


「少し、霊力と似ているな。あの剣は、どこで?」


「天災に巻き込まれた兵士が所持していました。あれを売れば、王都でしばらく暮らせるのではと、村人なりに考えたのです」


「嘘くさい話だな」


「真実です」


 レイは笑みを浮かべ、しばらく若者と見つめ合った。恐らく、言っていることは嘘だろう。豫国の大巫女を前にしてこれだけ堂々としているだけでも、ただの村人、平民であるはずが無い。豫国の王族貴族ですら、自分を恐れるというのに。

 だが、彼の強さは本物だとレイは思った。そこに嘘さえ無ければ良い。

「お前の名は」


「ワカタです」


「ワカタ、お前を私の儀仗とし、この神殿の守備隊長にしたいと思っている。私の目となり耳となり、私と神殿を守れ」


「お言葉ながら、私にその任が務まるでしょうか。第一、神殿は女性ばかり。私がいてはなにかと」


「黙れ」

 レイはワカタを瞬きせずに見つめたまま彼の言葉を遮り、近づいて聖杖の先を彼の胸に突きつけた。その時、レイの髪が逆立ち、広間に真冬のような冷気が漂うのがここにいる誰もが分かった。

『誓え。ワカタ。お前は私の儀仗となり、私とこの神殿を守るのだ。神殿の女たちにも手出だししてはならない。裏切れば死をもってあがなうのだ』

 これは呪いである。

 レイはこの神殿の、祈りの間で聖杖を使って誓いの呪いをかけようとしているのだ。今まで、誓いの呪いを使ったことも試したことも無かった。きっと、そのような事も出来るだろうと思っていたが、その必要が無かったのだ。この神殿で、信じている者や信じなければならない者などいなかった。ただ呪っていれば良かったから。

 だが、もしここで自分の勢力を築こうとするならば、決して自分を裏切ることの無い、信頼できる者が必要だった。


「承知しました」


 誓約は完了した。これで万一この男が裏切って戒を破ろうとすれば、すぐに息絶えることになるだろう。

 レイは深く息を吐き、すました顔で今度はナミに近づいた。


「さて、ナミ。今度はお前だ」

 ナミの体が、まるで呪いでもかけられたかのようにびくっと硬直した。


「よくもまあ、変わらず侍女長をしていられること。お前は私に摂政の話を持ちかけてきたけれど、黒幕はミオ王女だったという訳か。まあ、考えてみれば、お前達は親戚みたいなものだからな。どこかで繋がっていたとしても不思議なことでは無かった。私が愚かだったよ。私を騙して、お前達、一体何を考えているの」


「ち、違うのです。確かにミオ王女のことは黙っていましたが、私の、私たちの考えは先日言ったとおりです。そして、言われたとおりです。私は、ミカドを斃した後、我が子を新たなミカドにして、あなたに摂政になってもらいたい」

 ナミは跪き、涙を浮かべて訴えたが、レイの表情は氷のように冷ややかだった。

 「もう何も言うな。お前達の言うとおり、私が動いてやる。お前の産む子をミカドにして、私が摂政になってやる。だから、お前も誓え」

 聖杖の先が、今度はナミの胸元に突きつけられた。


『ナミ、お前は私の僕となるのだ。私の命令は絶対である。そして私にはいかなる隠し事もしてはならない』


「そ、それは」


「誓え。でなければ今年の生贄はお前の兄のナギにする。王族の男子だ。生贄にはもってこいだな」


 ナミは美しい口元を食いしばり、震える手で目立ち始めた腹をさすった。目元からは涙が一筋流れる。


「誓います」


「よし。お前やミオ王女との詳しい繋がりや、お前達が今どれほどの勢力を持っているかは後で聞くとしよう。さあ、次は」


 レイが切れ長の目を少女に向けた。途端に彼女の方はびくりと震えたが、横にいるワカタが右手を握り、それを押さえさせた。


「私は、お前を巫女として教育したいと思っている。明日から私が直々に指導をするつもりだ」


 想像もしていなかった事態に、少女は叫ぶようにして声を裏返らせた。


「わ、私が巫女様に!?」


「そう。自覚していないだろうけれど、お前には優れた巫女としての素質があります。今、豫国では巫女は貴重だから、お前はその素質を磨くことに努めなさい」


「で、でも私、巫女の素質なんて・・・」


「いいえ、お前はまだ気づいていなくても、ちゃんと優れた素質があります。大巫女の私が言うのだから間違いはありません」


 大巫女の気高くも有無を言わせぬ声に、流民の少女はまるで叱られたようにしゅんとなった。

 正直なところ、少女の申告は正しかった。レイはこの少女からは何も感じられない。だが、この少女を神殿で保護するためには、こうしておくことが一番なのだ。ここにいれば、どんなことが起ころうと、自分が守ってやれる。

 レイは何故か、この少女を哀れな境遇から救い、守ってやりたいと自然と思った。


「ところで、お前の名前は何というの?」

 一転して優しい眼差しと口調で問いかけると、少女は強ばりながらも大きく息を吸い込んで答えた。


「イヨと申します」 

 イヨ。当然、サキではあるはずが無いが、考えてみれば不思議な名である。今、この豫国は豫国と伊国に分かれ、ここは「伊豫の二名島」と呼ばれているのだから。こういう名の少女が、ここにたどり着くことは、なにかの必然なのだろうか。

 レイは遙か頭上にいるはずの大神に問いかけた。

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