第六十八話 封禅

 話は一日前に遡る。

 倭国の大王である帥鳴は、太師張政の言うように最も格式の高い服装を纏い、出立の時を待っていた。

 下げ美豆良を鹿の革紐で結い、巫女のような長い裾の絹白衣に貝紫色のの帯、そこにまた長い絹を肩にかけ、まなじりと唇には辰砂の赤い化粧、そして今回のために作らせた大きな赤瑪瑙の勾玉を一つだけ首に提げている。

 

 するとそこに、こちらもまたいつもとは違う陰陽太極の刺繍のされた黒衣の張政がやってきた。漢風の、まさに大漢の道士か宰相のような出で立ちであり、今日に限っては彼もまたまなじりに赤い化粧を施していた。

 

 張政は一度拝跪すると、大王に大きな掌を指しだした。


「では、参りまする。どうか、私の手を決して離しませぬように」

 帥鳴はまるで、それも厳かな儀式の一部であるかのようにゆっくりと張政の手を持った。


 その瞬間、帥鳴は暗闇の中にいた。これは事前に聞かされていた事であるが、さすがの彼もこの状況に心穏やかであるはずが無い。しばらくすると、辺りの暗闇は、真の漆黒というわけでは無くまるで星空のように無数の光の粒が周囲にあることに気がつく。


 この張政が異界と呼ぶ場所は、一体どういう風に出来ているのだろうか。あるいは、自分はまさに星空の、星界の中にいるというのだろうか。


「ここは、我々の住むところとは根本から違う、狭間でございます。さあ、こちらにお進み下さい。次に陽の下に出た時には、目的の場所に着きますゆえ」


 張政は慣れた様子で、帥鳴をいざなった。音は不思議と一切聞こえないのに、声だけが妙に響き渡る。


「お前は、こんな事まで出来たのか?」

「異界渡りと申します。大陸で言うところの、仙たる資格を持つ者ならば大抵の者が出来る事です。人外の者、あるいは真に優れた巫女にも出来ましょう。緊張しておいでですか」

「そりゃあね。でも、いよいよあんたが自分の事を語ってくれそうな雰囲気がするから、そっちの方がわくわくしてるわ。さあ、一体、あんたは何を話してくれるのかしら」


 帥鳴が気丈に振る舞うと、張政はしばし沈黙し、一言呟いた。


「さあ、つきました」

 途端に周囲に光が炸裂し、視界が一気に変化する。

眩しさの余り目を瞑り、再び開けるとそこは通常の大地だった。天に輝く日があり、地には強く冷たい風が吹きつけている。視線を右にやると、眼下には平野が一望できる。ここは遙かな山の頂だった。一体どこの山だろう、とその光景を帥鳴はしばしの間眺めた。


 王宮から異界を渡り、一気に場所を越えたのである。

 張政は無言のまま、帥鳴の手を引く。導かれた先にあるのは、祭壇のようなものだった。すでにいくつかの供物が用意されており、その中心では三つ足の器のようなものが炎であぶられ、中の湯が沸いていた。

 その器がどれほど尊いものなか、予め聞かされていた帥鳴はおおっと感嘆の声を上げてその場に跪いた。


「さあ、大王、儀式を始めましょう。それには長い時を要しまする。そして今こそ、私がこの地には来た目的を語りましょう」



 大王のご存じのように、私は漢の生まれです。正確には冀州(きしゅう)鉅鹿郡(きょろくぐん)で生を受けました。私が生まれた時、すでに漢の世は腐敗しておりました。王道は廃れ、朝廷は外戚と宦官が権力を争い、そのしわ寄せはすべて無辜の民に行きました。百姓、女子どもは飢え、争いが続き、漢土は荒廃していたのです。

 この悪しき世を変えたい、そう強く願っても、その頃の私は鄕試(科挙の地方試験)にも合格できず、毎日を無為に過ごすただの愚鈍な男でございました。

 

 私が一人の老人と出会ったのは、そんなうらぶれていたある日の黄昏時です。その方は先ほど言った仙人と呼ばれる道士でした。私はその方に、「お前は天に代わって、あまねく世人を救済せよ」と言われ、この不思議な力を授かったのでございます。

 

 最初は村の病人を癒やすだけでしたが、次第にこの力を持って世を変えねばならぬという強い熱情に動かされ、民を募って蜂起したのです。

 

 が、私は敗れた。

 

 今、中原に輝く数多の英雄の前に、私の夢は潰えました。本当であれば、私はここで生きていてはいけない人間なのです。

 

 私には、どうして自分が敗北したのか、理解できませんでした。皇帝は政を顧みず、権力を握る全ての者が私利私欲のために動いている。英雄と言われる将軍たちも、真に民の事を思っている者はどれほどいるか。

 

 少なくとも、私は無私の心で立ち上がったはずなのです。決して、あらたな王朝の皇帝になりたかったわけではありません。

 

 しかし、それでも天は、私に味方しませんでした。そして無情にも、我が漢土は今でも荒廃し、争いがやみません。いっそ、皇帝と朝廷が力を取り戻すか、英雄が新たな皇帝となって統一王朝を開けばよいのに。そうすれば民は救われる。

 

 一体、どうして世の中はこんな風になってしまったのか。かつて中原には殷、周という大王朝があり、その治世はそれぞれ七百年は続いていたというのに。大王はご存じないかもしれませんが、今日の大陸ではその周の時代こそ、理想とされているのです。


 では、その時代と今とは何が違うのか。それは、その時代が礼楽制度の整った徳の高い時代だったということでしょう。礼とは礼節、楽とは音楽の事です。これらは現在の漢にもございます。


 しかし、私は歴史を学ぶうちに、実は現在伝えられている礼楽は、殷周の時代のものとは全く違っているという事に気がつきました。つまり、周代のいずこかの時に、何かの理由で正式な継承がなされなかったのでしょう。

そして時は流れ、ある時を境に王朝を超えて受け継がれてきた礼楽、すなわち祭祀の知識がさらに決定的に大陸では断絶してしまいました。その分岐点を私は突き止めました。


 それは歴史上最も偉大であり、悪名高いあの始皇帝。彼の行った焚書によって、古代の様々な知識が喪失してしまったのです。


 すなわち、現在漢の王室が行っている祭祀は、古来のものとは全く違うでたらめ。天子の最も重要な役割である、天地を祀るという儀式を行っていないのです。これでは天地民心が乱れるのは当たり前です。


 なれど、失われた知識はもう元には戻りません。そんな時、私は自分に力を授けてくれた老人の事を思い出しました。その仙人は、殷周時代の事をよくご存じでした。といっても、さすがにその頃から生きているというわけではありますまい。では、なぜあの方は殷周の頃の事を知っていたのか。


 実は、その方は倭人だったのです。そこでは私は、滅び去った殷周の知識が半島と東方の蓬莱、すなわちこの筑紫島とここから東の国に散逸している事に気づいたのです。この倭国の当たり前の習慣が、実は殷周の失われた知識だったのですよ。滅びた国の民は、ここに流れ着き、知識を継承していったのでございましょう。

 私が倭国に来たのは、その知識を集め、再び真の天子を誕生させ、この地を九州(※天下の意)まさに中つ国と定めて国を統べて頂くため。

 さあ、大王、今こそ、古代に失われた偉大なる儀式、封禅を行いましょう。

あなたは、地上の神となるのです。


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