第六十六話 暗躍

 大王が王都に帰還してから、一日が過ぎた。

 

 本来であれば、留守の間の政務がやまずみで、それを処理するのに多忙を極めるはずなのだが、大王はまたすぐに旅立ってしまった。行き先は極秘である。しかも護衛も供奉もなく、連れて行ったのは張政のみ。三日以内に必ず帰ると宣言していたが、当然諸侯は騒然とする。昔とは違い、大王に多くの権限が集まっている今、その本人が突然いなくなるというのは、国にとって大問題である。一体大王は何を考えているのかと人々は不安になった。

 

 しかし、それでもと思う。あの英明な大王と張政の事である。必ず何か理由があるはずなのだ。ならば、三日の間、自分たちはなんとしても王都を守らなくてはならない。かつて互いに小競り合いをしていた諸部族の族長、諸侯たちは、ここぞとばかりに互いの結束を誓い合うのだった。

 

 だが、朝議でそんなやりとりが繰り広げられている事などつゆ知らず、倭国大王の第三王子の子であり、近衛長であるワカタは、自分の宮の寝床の中でひたすら眠っていた。


「ワカタ様・・・お食事、ここにおいておきますので」


 彼に仕える婢女(はしため)が、影のようにそっと声をかけても返事は無く、盆にのせた食事を置いた途端「さっさと出て行け」と怒鳴られて彼女は慌てて出て行った。

 ワカタはもうしばらく宮から出ていない。だれもこの宮に近づけるなと皆に言いつけて、戸を塞いで光が入らないようにし、ひたすら床で横になっている。それでも昼ならば光自体はわずかに入るので、今が夜だという事は分かるのだが、だんだんとどれほど時が過ぎたのかは分からなくなっていく。一体いつまでこんな事をしているのだろう。


 ああっ、もう全てが嫌だとワカタは暗闇の中で思った。


 かつて自分の父帥響は倭国の第三王子として、太師張政を呼び入れ仇敵である出雲の地も手に入れた。第十三王子である帥大と並んで、太師の座に最も近い場所にいたのである。当然、その長子である自分は次の太子にも最も近いということになる。確かに帥響には他にも子はいるし、大王になれば妃も増えるだろうが、なんと言っても先に生まれている長子はそういう競争には有利である。しかも自分は王都を奪われた事も奪還したときの事も経験しており、こういう「経験」を持っている事は、下の世代よりはかなり評価されるべき点だろう。


 聡い者から見れば、次の次の倭国大王にもっとも近かったのがワカタなのである。

だが、一体なにを血迷ったか大王は帥響では無く、帥大を立太子した。帥響は出雲の地にずっと留まり、王都への帰還も叶っていない。聞けば向こうで新しい妃を迎えたとも聞く。そうなれば残された家族のはたちまち立場を失ってしまう。


 ここで、ワカタの将来設計は大きく狂ってしまったのである。


 出雲と半島を入れた広大な領土、かしずく諸侯たち、美しい妃たち、自分の一声で全てが手に入り、全てを覆す事の出来る快感、大王の座る特別な椅子。ワカタはかつて自分が手にするはずだった光景を思い描き、床で唸りを上げた。

そんな陰鬱とした宮の中に、まだ少し高い少年の明るい声が響いたのは、ワカタが放屁しながら寝返りを打ったその時である。


「ワカタ様―、いるんでしょー。入りますよ。うわっ真っ暗じゃ無いですか」

 巣穴に入り込まれた熊のようにワカタは侵入者を睨んだが、相手は素知らぬ顔で灯りをてきぱきとつけて回った。


「お、おい、カラオ、灯りをつけるな! いや、それよりもお前下戸のくせに私の宮に気安くはいってくるんじゃ無い!」

「何言ってるんですか。仮病を使って大王の護衛の指揮をおいらに全部押しつけてたくせに。その報告しなくちゃならないでしょ。ワカタ様がいつまで経っても、朝議にも来ないから、しかたなく参上したんじゃ無いですか。あっ、うわ臭い。最後に身体を洗ったのはいつですか」


 カラオが騒いでいるのを鬱陶しそうに、ワカタは頭をかきながら身体を起こして胡座をかいた。横目で見た食事の質は、日を追うごとに下がっているように見える。

「・・・そんなの覚えてるものか」

「駄目ですよ、近衛長がそんなじゃ。ちゃんと身ぎれいにしていないと。ほら立って、今から小川に身体を洗いに行きましょう」

「・・・夜の川は危ない」

「身体や髪を洗うために引いたあんな小川なら、夜だろうが子どもでも溺れはしませんよ! 今夜は満月で月明かりもありますし、今身体を洗って、すっきりして朝を迎えましょう! ほらほら」


 カラオが腕を引っ張り、無理矢理立ち上がらせると、ワカタもしぶしぶと宮の外に出た。すると確かに今夜は満月であり、白い光が辺りを照らして優美に輝いている。そのせいで星はほとんど見えないが、それでも天の川は彼方にうっすらと見えた。月光にかき消される星々のその頼りない輝きに、ワカタは急に全てが頼りなく思えてきた。


「・・・いいんだよ。やっぱり帰ろう。俺なんて負け組なんだから」

「それと臭いのとは別問題です!」

 

  カラオは腕をしっかりと掴んで、月光に照らされた草道をどんどん進んでいった。初夏の虫の声があちこちで聞こえるが、その心は秋のように空しい。


「・・・帥大殿が太子になれば、もはや俺は出雲にいる父上に対する人質みたいなだけの存在じゃないか。だから未だ帥のついた名前ももらえないし。どうせあのハヤヒとかいう小僧はもらったんだろう。だって太子の息子だもんなあ・・・いいなあ」


 愚痴をいくつも言っていると、王都に引かれた小川にはあっという間に着いた。辺りには誰もいない。カラオは溺れる危険は無いと言ったが、それでもこんな時間に身体を洗おうという者などいるはずがないのだ。


 人の姿が無い内々で、少し寂しいような気もするが、まあ、誰もいない方が気も楽かとワカタは小川に片足を入れた。


「あー、冷たい」

 まるで帥大が太子に立てられた途端、掌を返した人々の世間のような冷たさである。

 いったいこの先、自分の人生にどんな良い事があると言うのだろうか。ワカタは暗澹とした気持ちになって、月に叫んだ。

「あー、俺の人生積んだわー」

「そうとも限りませんよ」


 冷えた夜の空気に、カラオの小さな声は良く響いた。

 だがワカタは別に気にしない。一体この生口上がりの部下は、何を言っているのだろう。


「あのね、ワカタ様。大王はハヤヒ様という王子に、帥正という名前を与え、アワギハラを山門国として任せました」

「ほらやっぱり」

「でも、大王は帥正様やククリという巫女を良く思ってはいないみたいです。近いうちに、各地から兵を集めると、大王は仰っていました」


 ワカタは首をかしげた。


「それは一体・・・いや、おいおい、なんでお前がそんな事を知っているんだ。護衛と言っても、大王と太師殿は、そういう大事な事は漢語で話すんだぞ」

「ええ、漢語で話していましたね」

 ワカタはその意味を考えて応えに得ると、慌てて小川から跳び上がった。

「お、お前、下戸のくせに漢語が分かるのか。俺でもまだ覚えていないのに」

「おいら、大王と張政様が話しているを聞いていたら、自然と覚えてしまったんです」

「お前、実は凄く頭良いんだな・・・」


 ワカタが素直に感心していると、カラオは初めて会った年頃の少年のように、にか

っと笑った。


「さて、もし戦いになって、帥大様の息子である帥正様やククリを、大王が討ったり、賊として捕らえたらどうなると思います。例えば、太子の帥大様の気持ちとか」

「そ、そりゃあ、まあいい気はしないわな。でも、まあまさか大王に逆らうような事はしないだろう。何しろ、あの人は昔から大王には絶対逆らわないとか言われていたし」


「でも、心は乱れますよ。熊襲だって反発するだろうし。そういう時、つけいる隙は必ず生まれるんです」

 そういうカラオの顔を見て、ワカタの顔は青くなり、身体が自然と震えだした

「お、お前一体何を考えてるんだよ。お前、大王にあんなに良くしてもらったのに、なんか恐い事考えてないか」

「もしかして、あれですか、倭国王万歳って奴?」

ワカタはそうだと激しく頷いた。


「あんなの芝居ですよ。おいらの父親はね、実は出雲に戦いに行く途中で、逃げ出したんです。そうなれば一族は罰を受けて皆殺しです。でもそこに使者がやってきて、生口から下戸にしてやるから、こういう筋書きでこういう芝居をしろっていわれたんです。まあ、確かにおかけで生口から抜け出す事は出来ましたし、恩があると言えばあります。けど」


 カラオはこの夜の小川のように冷たく、月の届かない闇のような目顔になった。

「おいらはもっと上に上がりたい。ワカタ様、あなたは帥響様を次の大王にして、太子になりたくはありませんか」


 カラオが指を指すと、今まで誰もいないはずだと思っていた草むらから、三つの人影がぬっと出てきた。影が月明かりに照らされ、三人の見知った顔が露わになって、ワカタは腰を抜かすほどに驚いた。

「イヌギ長老、ミウマ長老、それにヤシタキ長老、ワカタ様をお連れしました」

 三人の老人の瞳は、月光よりも激しく輝いていた。

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