第六十三話 壱岐のクシナダ

 夜になると、帥大は別人のように激しくなった。

 もう三十を超えるというのに、まるで十代の少年のように何度も乱れてクシナダの陰部(ほと)を愛撫し、貫いた。お互いの汗が絡み合い、クシナダもはばかる事無く声を出してそれに応える。


「ツクヨミ、ツクヨミ・・・! ああっ!」


 帥大の腰の動き素早さを増し、彼が絶頂を迎えるとクシナダも合わせるように絶叫して身体を痙攣させた。

 帥大は余韻に浸ってきつくクシナダを抱きしめ、そのまますやすやと眠ってしまった。それを確認すると、彼女は彼の腕をすっと抜け出して、床に座り大きく息をついた。


 クシナダは肉体では無く精神の疲労を感じていた。こんな演技をいつまで続ければ良いのだろうか。自分は何をしているのだろうか。


 灯りに照らされる良人(おっと)の寝顔を見ながら、クシナダは自分の膝を抱えて顔を伏せた。途端に外からは潮騒が聞こえ、闇の中で頼りなさと虚しさが襲ってくる。

良人は完璧と言われている男である。実際、聡明で逞しく、なにしろ倭国の太子であり、水軍を指揮する大将軍である。彼以上の男は倭国でも出雲でもいるはずがない。そして自分はそんな大将軍の妻であり、次期倭国王の妃になる身の上なのだ。女であれば誰もが羨望のまなざしを向けるだろう。


 だが、帥大は何も気づいていないのだ。


 クシナダは顔を帥大の寝息がかかるほど近づけると、改めて二人の事を思い出した。


 お互い、初恋だった。爽やかな初夏、森の泉で偶然出会った時、彼はまるで神の宿った鹿のようにすらりと美しい少年だった。

幸い、倭国の王子であった彼の身分にクシナダはふさわしい娘であった。倭国では地位の低い巫女とはいえ、神宝の剣を守る彼女の家系は別格である。過去の王でも、剣の巫女を妃に迎えた者は多かった。

 ほのかな想いは実り、人生で最も輝く季節に、ほとばしるような感情を二人はぶつけ合った。その思い出は、彼女の最も大切な宝物である。

だが、出雲の侵攻は二人の運命を狂わせてしまったのだ。もう元には戻れない。その事に帥大は気づいていない。


 クシナダはもう一つため息をつくと、今夜は帥大の首を絞める事を想像せず、早く寝ようと思った。明日は遠方から客が来るはずである。

次の日、朝日が水面からようやく離れ、金色の輝きを放つ頃、クシナダは一人で壱岐島の浜辺に立ち、目を細めながら波の揺らめきを眺めていた。少し冷たい初春の風が彼女の髪を靡かせ、空で海猫たちを揺らしている。

向こうに見える陸地は、対馬と半島である。

 

 今や帥大の率いる倭国水軍は破竹の勢いでその勢力圏を広げつつあった。この壱岐島、対馬に一大拠点を築き、出雲侵攻の際に失われた半島南部の奪還を果たした。この件に関しては、帥大の指揮や兵の力だけでは無く、彼の預かり持っている天運の影響も大きい。

 この十年の間に、半島南部を支配していた加羅(狗邪韓国)連合の盟主、加羅の首露(スロ)王がついに亡くなったのである。在位百五十八年というにわかには信じられない長期間国を治めていた長寿王の死は、加羅連合を大いに混乱させ十年という時を経た今でも収束していない。その混乱に乗じるように、帥大は水軍を派遣して倭国の故地である『任那』を奪還したのである。その経緯は、倭国が出雲を攻めた時、まさに信じられないような時期にスサノオ王がこの世を去ったものに酷似している。やはり帥大には、いや日を祀る倭国には、神の加護があるのだという神秘の物語が、水軍のあちこちで流れ始めており、それは半島にも及んでいる事だろう。

 

 このまま行けば、大陸と半島の混乱に乗じて、黄海渤海を勢力下に置く事ももはや夢ではないかもしれない。そうなれば倭国は、まさにあの輝く朝日のごとく、大漢と並ぶほどの大国となる事が出来る。


 それでも立ちはだかるだろう数多の列強に思いをはせる彼女の前の大岩に、一羽の鵄が降り立ったのは、流れる髪を右手で抑えて振り返ったその時だった。

 頭上で日の光を背負うその鵄は、身体は小さいながらも羽毛の色がはっきりと鮮やかで美しく、誰もが目を奪われるほどに他の鳥とは違いがあった。

 だがクシナダはその高貴な鵄に驚く事無く、旧友と再会するかのように嬉しげに微笑んだ。


「初めまして。豫国の巫女ククリさん」

 表情の無い鵄はわずかに身体を硬直させ、そして首をクシナダの方に向ける。

「帥大に会いに来たのでしょう?」

「アナタハ、イッタイ」


 鵄本来の拙い声帯で、その鳥に宿る主は声を発した。


「私はクシナダ。倭国の神宝である剣を守る巫女であり、帥大の妻よ。あなたを待っていたのよ。それから、その鳥の声を使わなくても、私には念じれば伝わるから、無理をしないで。この鳥が可哀想よ」


 クシナダは蒲公英の綿毛のように儚く微笑んだ。


『私を・・・ご存じだったと?』


「豫国から来た巫女。私が出雲に捕らわれている間、見切りをつけた帥大が、添い遂げる約束をした人。そして今は、彼と熊襲の媛との間に出来た王子を育てる人。あなたはここに、帥大にその王子を認めさせるためにやってきたのでしょう」


『その通りです。あなたにとって私や王子のハヤヒは目障りな存在かもしれない。けれども、ハヤヒは紛れもなく帥大殿の血を引く御子です。何より、父である帥大殿に認めてもらわなくては、あの子が哀れです』


「そうね。では私から助言してあげるわ。きっと、あなたが鳥の姿で彼に助けを求めても、彼は応じないし、御子を我が子だとは認めないでしょう。王都の倭国王に伺いを立てなくては、彼はそういう返事しかしないと思う」


 けれど、とクシナダはまた風になびく髪を抑えて、目を閉じた。


「王子を直接会わせて、涙でも見せれば、きっと我が子と認めるはずよ。それからあなたは今も美しい? あるいは同情をかうような哀れな姿をしている? それであれば彼はあなたと直接会えば、助けてくれるでしょうし、また愛していると口にするかも。そういう、流されやすい男だから。だから熊襲の媛の甘い罠にも引っかかる」

 そのどこか冷めたような口ぶりは、彼女の儚いほどに白い肌を、まるで生気が感じられぬように一層白く思わせた。

『・・・あなたは、帥大殿を愛していないのですか?』

「愛しでるよ。だどもたまに死んでほしいと思うどきもある」

 ククリが聞き慣れない言葉に戸惑っている事を感じると、クシナダは別人のようにこっと笑った。


「これ、出雲の言葉だぁ。おら、出雲に十年もいたがら、たまに自然ど言葉が出ちまうんだ。あそこでのごどなんで、全部忘れてしまいのに・・・。ねえ、ククリさん、私のこの世で一番愛しい人は、私が一番苦しい時に側にいてくれなかった。再会は出来たけれど、どうしてかしらね。彼を愛しているのは間違いないはずなのに、たまに死んでしまえば良いって思うの」


 鵄は何も言葉を発さず、風と潮騒の音と海猫の鳴き声だけが辺りに響いている。


「ククリさん、あなたが帥大を今どう思っているのか分からないけれど、現実的な立場の話では無く、心からあの人を頼るのはおやめなさいね。あんな何事にもすぐ流されてしまう男なんて、信用できないわ。愛なんてものに頼らなくても、力で服従させる事があなたにはきっとできる時が来る」

『クシナダ様・・・』

「これは剣の巫女の予言よ。帥大は頼りにならないし、倭国王は裏切る。だからあなたは早く、もう一度阿蘇の山にお登りなさい。結局、力が無ければ、愛なんて守れないのだから」

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