第五十九話 私が守りたかったもの

 砦の宮にはイサオをはじめとする各地方の重鎮たちがすでに集まっており、巫女の代表であるククリから先日の巫女の集まりのへ報告を受けていた。今年も巫女たちに問題は無く、熊襲中の山川や木々に宿る小さな神々に感謝を捧げる儀式はおのおののやり方でつつがなく終えられるだろうという知らせを受けとると、イサオは満足そうに頷いて酒を運ばせ、会議はそのまま酒宴になりそうな頃合いだった。

「おや、どうしたククリ。その腕は」


 ククリの右手に巻かれた布に気づいたイサオは、目を光らせた。


「古傷が痛むのです。サラ婆が薬草を塗ってくれました。ほら」

 武器など隠してはいないというふうに、ククリは一度布をほどいて火傷の跡を見せると、片手でもう一度まき直した。

「あの時の傷か・・・。そうだな。今夜は嵐になりそうだからな。こういう日には古傷が痛む」


 先ほどから聞こえいる雷鳴は少し大きくなり、吹き付ける風に宮もきしむ音を出している。宮に点されている灯りも不思議とそれに呼応して揺れているような気もした。

そのうち盆を持った女たちが入り口をあけると、一気に冷たい風が入ってきて灯りを本当に強く揺らす。外はすでに雨も降っているのだろう。盆の上の料理や酒器は守られているものの、女たちの髪や顔はびっしょり濡れているようだった。


 運ばれた料理は猪、兎、鮑、こんな最前線の砦には不釣り合いなほどに豪華なものだった。おまけに丸焼きでは無く、すでに丁寧に切り分けられていて、それぞれ専用の盆にまとめられてある。こういう料理の出し方は、熊襲では普通日向にある王宮くらいでしかされないものだったが、本日集まっている顔ぶれを考えれば当然でもあった。


 今ここに集っているのは熊襲を束ねる熊襲王(イサオ)に、いまやそのイサオの娘であり熊襲中の巫女の尊敬を集めるククリ、そして各地方の族長たちは豫国の言い方で言うならば有力豪族である。彼らは熊襲の首脳であり、本来であれば、こんな砦に集まっていること自体おかしな事なのだ。

 盆に続いて、特別な酒器が各々の横に運ばれた。この砦で最も格式の高い器で、これも普段はまず使われないものだった。


「しかし、本当に心苦しい事です。毎年このような方々に集まっていただいて。本当であれば、私が日向の王宮に行くか、各地方を回らなくてはいけませんのに」


 ククリの言葉を豪族たちは、聞こえなかった風を装ってとぼけたように会話をし、自ら酒器に酒を注ぎ合う。その中でイサオだけは軽く笑って、すぐ脇のククリに答える。


「お前は普通の身体では無いのだぞ。それにお前はもうこの熊襲でもっとも高貴な媛であり、巫女たちの指導者なのだ。巫女や豪族たちがここに集まるのは当然だ」


「恐縮です」


「下さらんことを気にせず、さあお前も飲め」

 イサオが酒壺を差し出したので、ククリも右手で酒器を差し出すと、酒が注がれて独特の匂いが広がった。ククリはそれを一気に飲み干した。


「相変わらず、良い飲みっぷりだ」

 その様に何度も頷いて、イサオも自ら注いで負けじと一気に飲み干す。それが合図となったのか、族長たちもいよいよ本格的に酒を注ぎだし、料理に手を出し始めた。だが場が盛り上がろうとしているその時でも、ククリは周囲の殺気を感じずにはいられなかった。

 恐らくイサオが酒をのんだのは間違いない。けれど、他の族長たちは酒を注ぎ、器を口に持って行くふりをして全く飲んでいる気配がしない。現に族長たちの気配は、酒に酔った時のふやけてほぐれたものとは全く違って鋭かった。恐らく、この者たちはいつでも合図で動けるように備えているのだ。先ほどから小さく聞こえる金属の音は、彼らが脇に置いている剣に違いない。


「おやおや、皆凄い顔ぶれじゃの。もう会議はおしまいかえ」

 宮に隠された刃のような雰囲気に割り込んできたのは、サラ婆である。彼女は盆を持った女たちを数人後ろに連れていた。男たちの目つきが一気に険しくなる。


「サラ婆殿、どうしたのかな」

「イサオ、実はついさっき素晴らしい薬草茶が出来たのじゃ。味は円やかで甘露のごとし、しかもこれを一口飲めば十年、二口飲めば二十年寿命が延びる。まさに傑作じゃ。もう百年を生きている儂が言うのだから間違いないわえ。ささ、みな注いでおやり」


 女たちは言われるままに新たな器に薬草茶を注いで回った。族長たちは眉をひそめて戸惑ったが、長老とも言えるサラ婆の手前、制止することは出来ない様子である。


「さ、お下がり。お前たちも余りを頂くとよい。さあ、儂もどこかに座らせてもらおう」

 サラ婆は役目を終えた女たちを下がらせると、族長たちを押しのけククリのすぐ横に腰を下ろした。そしてすぐ、宮の中を見渡し、さも不思議そうな声で問いかけた。


「おや・・・どうしたかね。儂の特製の薬草茶。不老長寿の妙薬を皆全く飲んでいないようじゃないか。半島から渡ってきた特別な人参を使って作った秘薬じゃぞ。どうして飲まんのじゃ。ほれ、そこのお前なぞ、何年か前私のところに薄毛に聞く薬草茶を飲みに来ただろうに。・・・まあ効いておらんようじゃが」


 話しかけた族長の禿げ上がった頭を見て、サラ婆はひひひっと高い声で笑った。

 だが、男たちの表情は固まっている。


「どうしたました。父上、サラ婆の特製ですよ。お飲み下さい」


 赤い花のようにククリは笑ったが、イサオは怒り狂った猪のような眼でククリを睨み付けた。


「ククリ、お前が先に飲んでみせろ」


「私がですか。しかし、礼儀というものがあります。イサオである父上を差し置いて先に私とは」


「さっきの酒はお前が先に飲んだだろうが」


 イサオは再び、薬草茶の壺を持ってククリの酒器に注いだ。


「どうした・・・飲まんのか!」


 ククリは息を震わせて酒器を見つめた。族長たち視線と宮の空気が張り詰めるのが変わる。ここで断れば、それを合図に斬りかかって来るのだろう。

「父上・・・」

 誰もが震え、固唾をのんでククリの口元に注目する。

「お慕いしておりました。どうかお元気で」


 ククリは酒と同じく一気に薬草茶を飲み干した。ククリがふうと息を吐くと、一同の緊張がやや緩まったが、その次の瞬間、その様を見つめていた族長たちの手が震えだした。皆一体自分の身に何が起きたのかが分からず、自らの震える手を見つめ、瞳孔の開いたまま左右を見ると、誰もが同じように震え、目から血を流している。

 そのうち血は鼻や耳からも吹き出し、だれもが呻きながらばたばたと倒れていく。しかしククリだけは、涼しい顔をして座っていた。


 イサオも意識が遠くなるのをこらえ、震える大きな手を押さえつけてククリを睨んだ。

「一体・・・どうして」

「父上の推察通り、毒を盛りました。そうしなければ、私が斬り殺されていましたから」

 ククリは悲しげに微笑んだ。

「しかし・・・酒は、お前も飲んだ。こいつらは飲んでいない。それに、茶はお前だけが・・・。どうして」


「酒器に豫国の巫女の毒を溶かして塗っていたのです。これは、こういった顔ぶれの時にしか使われませんからね」


 ククリは酒器に直接触れないように巻いていた布を優雅にほどくと、部屋の隅に投げ捨てた。


「では・・・ずっと以前から・・・。しかし、お前も酒を飲んだ。器に口を・・・触れたはずだ」


 イサオが呻きながら嘔吐し、目から血が出るのを悲しく見つめながら、ククリはサラ婆に手を引かれて立ち上がった。


「この茶が、解毒薬だったのです。この茶は本当に命を繋ぐ茶だったのですよ」

「おのれ」


 目と鼻と耳から血を吹き出し震えながら、イサオは鈍い動きで茶を入っている壺に手を延ばそうとした。だが、サラ婆が俊敏に動いて、それを寸前でかすめ取ると、イサオの手は空を切り、均衡を失った彼はその場に倒れ込んだ。


「貴様・・・」

 ククリは息がかかるほどに顔をイサオの近くまでやると、その憎悪に満ちた目を見つめた。ここまで近づけば、ククリにもイサオの瞳がはっきりと見えた。この目こそ、この七年の真実である。

「父上・・・どうして私を愛して下さらなかったのです。私は、あなたとクマナと熊襲を全てを愛していました。熊襲王(イサオ)であるのなら、私を愛するべきでした。なのになぜ」


 イサオは毒と戦う荒い呼吸で、今にも意識を失いそうである。

「はあ・・・はあ・・・儂も、最初はお前を愛そうと努力した。王としてもお前は熊襲に必要だった。だが駄目だった。お前を見る度、クマナを思い出す。お前とさえ出会わなければ、あいつは今も・・・私の娘・・・は・・・お前を許さん・・・許せない。お前が笑う度、殺してやりたかった」


 ぐはっというイサオの声とともに血しぶきがククリの顔と身体を汚した。熱い涙が頬を伝うのが分かった。泣いている。ククリもイサオも泣いていた。

「だから、ハヤトを使って私を監視していたのですね。まさかあなたも術が使えたとは思いませんでした。ハヤトと仲の良いハヤヒは人質、いつでも私もハヤヒも殺す用意をしていた。ずっとはじめから・・・そんなに私が憎かったのですか?」


 すでにイサオは倒れ込んでおり、返答は無かった。だが未だ荒い呼吸はあり、時折咳をしては血を拭きだしていた。

「さようなら、父上。私はあなたをお慕いしておりました」

 ククリはサラ婆から、鋭く光る短剣を受け取ると、目の前の大きな輪郭に突き刺した。

 彼から受け取りたかったもの、それは何だったのだろうか。


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