第三十六話 サクヤとイワナ

 会議が終わった後も、イワナだけはその場に残された。

 身のまわりの世話をする娘達も下がり、宮はサクヤとイワナだけが向き合っている。

 長年、数多くの娘達を見てきたイワナから見ても、やはりサクヤは未だ美しかった。妙齢の頃とほとんど変わらない容姿に、今は金糸の薄絹をふわりとまきつけ優雅に座っている様は、まさに天女のような麗しさだった。


 部屋のあちこちで焚かれある炎には、ただの灯りというだけでなく暖を取る意味もあったが、宮の中は凍えるような冷気が渦巻いていた。


「上手い手を考えましたね」


 サクヤはうっすらと笑みを浮かべながら、古い友とも呼べる老女を見つめた。

 イワナが口にしたことは、サクヤへの挑戦である。最初こそ生贄に抵抗を見せていた幹部達は次第に受け入れていっていた。しかし、それは幹部達が決して自分たちには火の粉が降りかからないという前提があってこそである。


 しかし、今回正論によって幹部達は自分たちこそ生贄の要素を持っているものなのだということを指摘され、気づいてしまった。今まで同じ姿勢でいられるはずはない。


 見苦しいことではあるが、自分の身可愛さに意見を変える幹部達も続出することだろう。それはイワナの派閥の拡大を意味している。


「私は正論を言ったまでです」


「そうね、実は私もゆくゆくはそのようにしようと思っていたのよ。あなたが先ほど言ったことは、正しいわ。けれど、もっと完全に制度化してからと思っていました。今そのようなことを言えば、せっかくの土台が崩れてしまうから。あなたにはやられましたね」


 計画を潰されそうだというのに、サクヤはそれほど気にしていない様子でもある。幹部達が反対しても、押し切るだけの強権があると自覚しているからなのか。

 あるいは、また別の策があるというのだろうか。


 だが、イワナも後には引けなかった。幹部の喉元に刃物を突きつけたのである。結果がどうなろうと、事態は動くのだ。負けるわけにはいかない。


「あなたがこんなに必死になったのは、袋の中身を見たからね」

 サクヤは妖艶といえる妖しい眼差しで、イワナを見つめた。


「・・・そうです。それで、私も鬼にならねばと決心がつきました。」


 イワナは苦みを堪えるように、あるいはサクヤの眼差しから逃げるように目を閉じた。自分とてサクヤの補佐としてこの里と国を支える大幹部である。あれが何に使う物なのかすぐに分かるし、それを誰が命じたのかも分かっている。

 瞳を閉じた暗闇で、思い浮かぶのはこの里に来た時の事だった。

 すり切れ、汚れたぼろの衣服の自分に清潔で綺麗な衣を与えてくれたのは、このサクヤだった。


 思えば不思議なものである。自分が彷徨っていたところは、豫国東部の寂れた海辺であったのに、見知らぬ男達が自分を待ち構えていたのである。男たちは武装していて破落戸ではないことはすぐに分かったし、男達の後には白い服の女が数人控えていて、彼女たちがこの国の巫女だという事が分かった。


 あとでさらに聞いて驚いたのが、彼らははっきりと自分を待っていたということだった。大巫女であるサクヤが、その日海辺に流れ着く自分を予言し、連れてくるように彼らに命じていたのだった。彼らは露ほどもサクヤの言葉を疑うことなく海辺で待ち構えており、突然現れた身なりの汚い怪しい女に驚くことなく礼を持って接した。

 巫女というものは自分の生まれた土地にもいたが、これほど明確に予言を下す巫女などきいたことがなかった。

 

 彼らの態度からも、この国において大巫女という存在がどれほど崇められているかが分かった。そして訳の分からぬまま怯えて里に連れて来られサクヤと会うと、ここでさらに驚いた。もちろんこのように大規模な巫女の里と宮など見たことも聞いたこともなかったが、まるでこの世の物とは思えない美貌と気品、そして自信に溢れた女がその中心にいたのだ。白玉そのもののようなまばゆい輝き、麗質、あの時の自分はただただ驚愕し、このように奇跡のような女がこの世にいるということが信じられなかった。


 それでも不審に思ったのが、どうしてこの女が自分をここに呼び寄せたのかと言うことである。

 豫国には身よりもなく、自分を知っているものなどいはしないのに。

 そんな疑問を残したまま、自分はこの地で巫女として生きるようになった。だが自分に巫女としての才能はなく、年下の娘達が当然のように持っている霊力も目覚めはしなかった。


 その理由もなんとなく分かっていたのだ。

 自分がサクヤの身のまわりの世話をするほどにこの場所に慣れてくる頃には、なぜ自分にサクヤが目をかけるのかも分かるようになった。

 

 以来、もう何年の付き合いになるだろうか。


「それほど・・・あなたは、未だにミカドを愛しておいでなのですか」


 イワナは目を開くと、この場にはおよそ相応しくないほど落ち着き澄んだ眼差しでサクヤを見つめた。それは自然と娘か妹に向ける諭すための眼差しのようになった。

 サクヤはイワナの言葉を否定はしなかった。イワナがこの事に気がついていたことすら、特に不思議そうではないらしい。


 長い睫を少しだけ伏せて、サクヤは言った。


「ええ、愛しているわ。昔と分からず、今も」


「私は、どうして自分があなたに導かれ、この里に招かれたのか不思議でした。でも、あなたは私の身の上をご存知だったからなのですね」


「そう、遠い纏向と呼ばれる地で兄に恋をし、国を追われた王の娘。海に身を投げたあなたをこの里に導いたのは、私です。私たちは、似ていたから」


 サクヤはまるで鏡をのぞき込むように、イワナの深い色の瞳を見つめた。

 もうそこには、豫国の大巫女はいない。年の近い古い友が姿を現したのだとイワナは確信した。


「あなたは弟君に、私は兄に恋をしたからですね」


 それが何を意味しているのか、二人は当然分かっている。


「もっとも、私たちの間には想い合う以外のことはなかった。けれど、自分の霊力が広がっていったころ、遠い土地で私と同じく兄に恋した少女の事が見えました。あなたは私と似ていたけれど、私とは違った。あなたも兄君も、世の中を敵に回す覚悟が出来ていたのね。そして子どもまで授かった」


「・・・兄も、その子どもも、死にました」


「いいえ、子どもは小舟に乗せられて川に流しただけではないの」


「あなたはあの川の流れまではご存知ないのです。まず生きてはおりますまい。私は自分の情熱のままに禁を犯し、罪を作り、あの子を死なせてしまった。兄も首を斬られ、私は海に身を投げたのです」


 イワナは大きな息を吐くと、部屋の灯りが揺れた。その炎の揺らめきが、イワナの瞳の中でも揺れている。


「そんなあなたが、羨ましかったのよ。思いを遂げ、自分の愛を貫き、また相手もそれに答えてくれた。私には夢のようだった」


 少女が夢を見るようにではなく、歳月を重ねた者が過去を懐かしむようにサクヤは言った。まるで、イワナの過去を自分のものにしているかのようである。


「私の過去を、弄ぶようなことはやめて下さい。あなたが思うほど、美しいものではないのですから」


 イワナの胸には、間違いなく終わった過去の恋と思い出が、次々に蘇っていった。無数の刃を向けられても安心出来た兄の笑顔、新しい生命を生み出す痛み、あの赤子の手のぬくもり、その子を川に流さなければならなかった絶望。

 全ては過去の事である。


 今、目の前の偉大な女性は、少女に戻ってそれに憧れ、自分の思い出にしようとしているのではないか。イワナはそんな気がした。


「サクヤ様、あなたの恋はまだ終わっていないのですね」


 その言葉にも、サクヤはただ微笑して見つめるだけだった。次第にイワナは、サクヤが何か気味の悪い存在に取り憑かれているような気持ちになった。


「私こそあなたが羨ましかった。あなたはすべてを持っていたではないですか。輝く美貌と才能、己の情熱を封じ込めるだけの聡明さと強さ。それ故に青春を超えて保った無垢な心・・・。豫国の民全てがあなたを神の如く崇めています。愛しています。あなたこそ、私の憧れだったのです。だから」


 イワナはぐっと身を乗り出し、サクヤの細い肩を強く握った。


「そのあなたが、呪詛などと・・・そのような恐ろしい事はおやめ下さい!」


 涙を滲ませ、姉が妹を、母が子を叱るようにイワナは訴えた。

 イワナは全て理解していた。サクヤはその力とあの袋の中身を使ってあろうことか呪詛をしているのだ。


 巫女の祈りが神に届けば、神は動いて奇跡が起きる。しかしそれは清らかな面の話である。もし、巫女が災いや人の死を望み、それが神が届いたとしても邪な奇跡は起こる。


 もちろん巫女団ではそのようなことは絶対の禁忌であるし、今まで試みた者などはいないはずである。特に豫国では巫女が保護されており、国の管理下にあるのだ。だが、イワナの生まれた土地でも王に近い巫女がいる一方で、巫女として正しい教育を受けられなかった者や、巫女としての才能がありながら食べていくために仕方なく、呪詛をする者がいた。 その者達の狂気に満ち、汚れた眼差しを処刑場で見たことがある。


 呪詛は成功しても巫女の心も体も蝕んでいき、存在するだけで周りに災いをまき散らすようになっていく。当然、そのような者は最も唾棄すべき者であるし、呪詛をしていることが明るみに出れば命はない。考え得る限りの最も苦しい痛みと辱めを受けて殺される。


 そして、呪詛の危険性はそれだけではないのだ。その重大な危険性をサクヤが知らないはずがない。


 呪詛がサクヤの意思であるはず無い。彼女の意思でないとすれば、それは都のミカドが指示しているに違いないのだ。その為に、あのような恐ろしいものを。


「・・・仕方ありません。ミカドの頼みなのだから」


 イワナはサクヤの両肩に手を置き、涙ながらに訴えた。


「そのような詭弁はおよしなさい! あたなは豫国の大巫女です。その気になればミカドに命を下すことはあっても、逆など無いのです。あなたはもっと!」


「だって怖いのだもの」


 そう小さな声でサクヤの表情は、乙女のように儚げだった。長年、友とも姉妹も言えるイワナが、このように心を裸にして訴えたことで、何かが崩れたのだろうか。

 いつのまにかサクヤの震える手もイワナの両腕を掴んでおり、本当の姉妹のように向かい合っていた。


「あの子の頼みを断って、あの子が私の事を嫌いになるのが怖い。愛を失ってしまいそうで」


 イワナには、その愚かしさにめまいを覚えたが、それでも侮るような気持ちにはならなかった。


「それは・・・それは愛ではありません」


 イワナはすでに涙を堪えようとはしなかった。もはやサクヤは一人の女、いや少女に戻っている。自分もう感情を抑える必要は無いのだ。


「では、なんだというの」


「ミカドがあなたを本当に愛していたら、誇り高く気高いあなたにこんな事を頼むはずがないではないの。人の気持ちというものは、変わるのです。私も長い時の中で兄を忘れました。忘れまいとしても忘れてしまうものなのです。あなたがこの閉じられた場所で長い時を過ごしてきた間に、ミカドは妻を何人も娶り、愛を育み、子をつくり別の愛を見つけたのです」


 そこまで言って、イワナはこの大巫女がなんと哀れな女だろうという気持ちになった。この到底実際の年齢には見えない美しい女の時間は、まさに止まっているのだ。しかも、新しい愛を見つけることも許されず、ただ失うことだけを恐れて生きているのだ。

 すべてが『分かる』はずの彼女が、どうしてこのような歪みに落ちてしまったのだろうか。


「いいえ、これは愛よ。私の愛」


 そう泣きじゃくるように言うサクヤは、やはり少女である。自らの掌にあると信じる大切なものをどうか取り上げないでくれと泣いているのだ。

 イワナは次第に、自分が姉ではなく母のような気持ちになっていった。この少女を前に、今の自分に相応しい役があるとすればそれはやはり母である。イワナはサクヤにかつてのように話す赦しをもらうと、やはり憐憫の情を持って接した。

 サクヤの目からは止めどなく涙があふれ出ており、もはや幼女のようですらあった。


「もう、呪詛なんてやめましょう。ね、サクヤ」


「ダメよ・・・イワナ。ダメなの。私は呪詛をやめられない」


「どうして」


「なぜミカドが私に呪詛を頼んでくるか分かる? 今、豫国は傾きかけている。今まで豫国が超大国として栄えてこられたのには、巫女と大神の存在もそうだけれど、始祖たちが西方から持ち込んだ技術や知識があった。だから豫国を取り囲む各地の蛮族のような支配者達も、豫国に庇護を求めたり、支配者としての承認を願って来ていた。まるで、倭国が漢にそうしたように。でも、時が経つにつれ、技術も知識も次第に流れていき、出雲も吉備も、東の国も力をつけていった。今では、この豫国を侵略しそうな勢いよ。一方で、この国の王族達は先祖達の遺産だけを食いつぶして、それを発展させてこなかったの。おまけに、大神の力も弱くなっていって、この豫国の力の源全てが今、失われつつあるの」


「で、ではあなたが呪詛しているのは」


 震えるイワナの方を、サクヤが鋭い目顔で見やる。もはや泣きじゃくっていた少女の姿はそこになく、国を背負った女がそこにいた。


「各地の王たち。出雲、吉備、纏向、そして倭国。この豫国の脅威となる国々の王を呪っているのです」


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