第三十二話 旧友
天空には無数の星々が輝いていた。
まるでなんの法則性もなく、砂塵を鏤めたような天空の輝きには、この世の全てが詰まっていることをイワナはナルに教えていた。
春には春の星図があり、冬には冬の星図がある。だがそれだけでない。その星の動きや輝きは万物の運命と呼応しているのだ。
数多の王の星、民の星、国の星、その無数の輝きと動きと重なりが複雑に交差し運行し、地上の万象を形作るのである。
ナルはその秘法を完全に修めてはいなかったが、今頭上で赤く輝く星が不吉であるということだけは感じていた。
あれは一体何なのか。夜風を受けながらナルが禍事を睨みつけるように赤い星を見ていると、身体はすでに目的地に着いていた。
訪れた場所は、幹部の宮である。少し小さいがサクヤがイワナが住んでいるものと同じ造りで、この里で選ばれた者しか住めない特別な建物だった。
ナルはこの度、幹部候補から幹部に昇格した友人を祝いに来たのだった。
既に夜も遅く、他の寿ぎに来た者たちは既に帰った後のようである。中では幼い少女たちが、瞼をこすりながらもせっせと祝いの品々と食事の片付けをしていた。
「この度は、幹部への昇格おめでとうございます」
頭を下げて顔を上げると、そこには見慣れた幼馴染みレイの顔があった。
幹部に昇格が決まり、衣や帯も真新しい絹のものを身につけており、首にはこの度授かった一粒の白玉が輝いている。その輝きは、成長してますます美しくなった彼女の美貌をより際立たせていた。
レイは最初、ナルの来訪に驚いていた様子だったが、すぐに屈託のない笑みを浮かべナルに奥に入るように促した。
「ありがとう、あなたに祝ってもらうのが一番嬉しいわ。本当に良く来てくれたわ」
片付けをしていた少女たちを慣れた物言いで下がらせ、自分でまだ手のついていない果実や木の実を皿に装うと、一緒に食べようと二人の間においた。
レイは鹿の敷物の上から立ち上がり、ナルの側へと歩み寄る。仕草も表情も昔の面影があったが、胸に輝く白玉とともにすでに幹部の凜とした威厳も十分に感じさせた。
「最近あまり会わないものだから、元気かって心配していたのよ。元気にしてるの?」
もちろんよ、とナルは頷く。
「レイ、あなたもとうとう幹部なのね。その若さで、本当に凄いわ」
「何を言っているの。ククリ様なんて私より十は若く幹部になって、すぐにサクヤ様の右腕になったのよ。私なんてまだまだ」
といいながらも、レイはまんざらでもない様子なのは見て取れた。だが無理もない。若い時から将来を期待され、また彼女自身もそれに答えようと努力した日々が、ようやく報われたのである。まだ口で謙遜できるだけ、彼女が出来た人物である証だろう。
ナルは三人で暮らしたあの家を思い浮かべて、懐かしく思った。
「でも、やっとここまでこれた」
レイは何もない薄暗い宙を見ながら呟いた。
「立派よ」
「ナル、あなただって立派よ。あれほど敬遠していたけれど、今ではイワナ様のお気に入り。巫女としての霊力が無いと嘆いていたけれど、あの方の秘伝の知識を学んで、今では一人で薬を作れるのでしょう。昔は、熱を出せば先輩方にお祈りをして貰ったものだけど、みんな今では一番に薬を貰いにいくわ。私もお世話になっている。本当に立派な貢献よ」
それからしばらく二人は自分たちがかつて暮らした家や、組の話で盛り上がった。レイとはしばらく会っていなかったが、懐かしい話題に顔は緩み、だんだんと昔に戻っていくような気分になる。古い友との語らいは、このようにあっという間に時間と場所を飛び越えるものなのか。
それでも二人で次から次へと思い出話をしていると、いつのまにか話題が少なくなってくる。ナルが頃合いかと思ったのは、その時である。
「ねえ、幹部になったからには、あなたは年送りの秘密に関わるようになったのね?」
今まで屈託無く笑っていた幼馴染みの表情が、突然引きつり、果物を口に運んでいた手が止まる。
それまで間違いなく級友だった彼女との距離が、急速に開いていくのが表情から痛いほど分かった。
そこには警戒と焦りと恐れ、ナルが知らないレイの顔があった。
「やっぱり、今日来たのはその事だったのか」
声色が明らかにかわり、レイは姿勢を楽に崩した。
立ち上がって奥の鹿の敷物の上に改めて腰を降ろす。胸に白玉の輝くその姿は、紛れもなく巫女団の若き幹部だった。
今開いた彼女との距離は、この宮での距離よりもずっと広いものになっているにちがいない。
「生贄の話でしょう。知っているわ。というより、幹部候補だった頃から、うすうす気がついていた。だっておかしい話じゃない。この里の巫女は全員が重要な秘密を抱えているのよ。なんの保証も無しに、外の外に出られるはずがない」
レイはそう言って、杯に注がれた酒を飲み干した。酒は神に捧げるもので、巫女たちの間では普段飲む習慣は無かったが、幹部は特別な時に飲むことを許されているのだ。
「もう、今年の生贄は決まっているの?」
「ええ、なんとなくだけれど」
レイは立てた右膝に右腕を乗せ、さらに寛いだ態勢になった。
「私とイワナ様が、生贄に反対しているのも、知っているのでしょう。お願い、レイ。幹部たちの集まりで、イワナ様に味方して。生贄を廃止させるのよ」
「そんなこと、出来るわけ無いでしょう。私はまだ幹部になったばかりなのよ。幹部の中では一番下なの。そんなことをすれば、先輩に目をつけられてしまうじゃない」
「あなたは生贄に賛成なの?」
「ええ、賛成よ」
レイはまた酒をぐっと飲み干した。
「本来は幹部でなければ語るようなことではないけれど、ナルはすべてを知っているようだから言うわ。この国で大神の力が弱まっていると知った時、私はとてつもなく恐ろしかった。豫国がこの地で、争いのない大国でいられるのは先人たちが西方から持ってきた技術と、巫女の力があってこそ。その一つが揺らぐと言うことは、国の危機なのよ。その危機を救うために、巫女が命を捧げるのはおかしな事ではないわ。あなたにはどうしてそれが分からないの」
「サキも生贄に選ばれたのよ」
レイの身体がほんの僅かに硬直したのを、ナルは見逃さなかった。彼女は酒の器を床に置き、部屋にある灯りを見た。ふたりは口にこそしなかったが、この炎の中に死んでいった友の姿を見ているのだ。
「それも何となく分かっていた。あなたが彼女を助けようとしていたのも知っていた。あなたも、本当は私が知っていることを知っていたでしょ。だからあの時から私たちには距離が出来た。だから今日、ここに来たのよ。あら、ナル、もの凄い顔をしているわ」
言われて初めて、ナルは自分が今激しく睨んでいることを自覚した。
「あの時、私たちは友の危機に何も出来なかった。だから、生贄になったサキのためにも・・・」
「断るわ!」
レイは再び器を持ちあげると、勢いよく壁に向かって投げつけた。打ち付けられた器は派手に飛び散ったが、二人はどちらも微動だにしない。
夜更けの新幹部の宮では、二人の女の熱情が激突している。
「私は、サキに同情なんかしていない。私は知ってて何もしなかったの! あれは、あの子が悪かったのよ。あの子に素質がなかったから、おっとりとしているだけで巫女団に、豫国のために何も出来なかったのだもの。だから生贄になって当然だったの」
「・・・本気で言っているの?」
「こんな話を知っている?ある時、老人が森に迷い込んだ。そこに猿、狐、兎の三匹がやってきて老人を助けようとしたの。猿は木の実、狐は川から魚を捕って老人に差し出した。けれども兎だけは、何も用意できず、最後は自らを食べてもらおうと火の中へ飛び込んそうよ。分かる? なんの役にも立たない者は、命を差し出すしかないのよ。それが当たり前なのよ。実際に、生贄を差し出された大神はお喜びになり、力を取り戻した。素晴らしい事じゃない。彼女たちの犠牲のおかげで、豫国が守られるのよ」
「生贄を求める神が、私たちの大神なの? それが正しい神なの? 太古ならいざ知らず、それじゃあまるで鬼神じゃない」
「な、なんという恐れ多いことを」
二人の間に、まるで夜空に稲妻が走ったように何かが引き裂かれた。
ナルも自分で口にして驚いていた。今自分がしたことは、我らが崇める大神の否定、豫国の守護神に対する非難である。規則を定めるまでもなく、巫女団の巫女がそんなことを口にすることは、とんでもない重罪なのだ。
二人は逼迫した目顔で見つめ合っていたが、レイは狂ったように笑い出した。
「全く、サクヤ様を差し置いてまるで自分が大神の代弁者のようなことを。無礼よ。ナル、私は巫女団の幹部です。幼馴染みとは言え、今後は敬語を使いなさい」
その一言で、もう二人の間の友情が砕けてしまったのは双方が自覚していた。
ナルはまっすぐとレイを見つめ「わかりました」と答えたが、レイがその眼差しと伝わってくる怒りに苛立ったのは言うまでもなかった。
「ナル、自覚しているの? あなたの代わりにサキは生贄に選ばれたのよ。私はサキが生贄に選ばれたと知った時、不思議だった。だって、同じ年頃で巫女としての才能なら、あなたの方がよっぽど低い。そう、あなたはイワナ様に守られていたのよね。でも、守られたあなたの代わりに娘たちは次々と選ばれていった。サキもその一人じゃない。あなたの代わりにサキは死んだのよ。生贄を神が望んでいない? 鬼神のようだ? 偉そうなこと言わないで。あなたよ、あなたこそ他に犠牲を回して生き残っている、生贄の申し子じゃない」
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