第二十五話 月の横顔

 倭国の人間にとって、阿蘇の山への道は特に険しいものではなかった。もちろんその道のりは長いものなのだが、土地として豫国の方がはるかに勾配が強く、岩場が多く、ククリと彼女に付いてきた巫女団の巫女たちにとってもその点は苦ではなかった。


 彼女たちを苦しめたのは、その距離と道のりそのものだった。阿蘇の山というのは、山といっても五岳を中心にした中央部の山々の総称であり、ククリが目指しているのはその最高峰、火山の火口があると言われる場所である。


 臨時王都アワギハラからは遙かな道のりである上、今まで普通の人間なら近づくことがなかった土地だけに、道らしい道など無かったのである。


 巫女団の里は巫女以外立ち入ることの出来ない場所とは言え、長年外部との交流があり、人が行き来していたため険しいなりにもきちんとした道があったことを思うと、ここは道らしき道などどこにも無い。


 輿に乗っているククリはまだしも、歩いて付いてくる巫女たちの表情は苦しげで、今にも倒れそうだった。クマナ媛が連れてきてくれた熊襲の女たちがククリの輿を担ぎ、脱落しそうな巫女を支えてくれなければ、一行はすぐに足止めされていたことだろう。


 熊襲の女たちは、屈強だった。今ではすっかりククリ達も慣れているが、熊襲では女でも戦いに出るのである。彼女たちは常日頃から身体を鍛えてあり、剣や矛の使い方も熟知していて、それを誇りとしている。


 広大で美しい緑の平野の旅が終わり、地面が次第に傾斜になっていく。人々はついに山の麓にたどり着いたのだと、安堵し、その後に顔を引き締めた。

 ククリもここで輿を降り、自らの足で歩き出した。


(山道というのもあるけれど、少し歩いただけでこんなに苦しいなんて。倭国ではほとんどを宮で過ごし、外に出る時は輿に乗っていたから、すっかり体がなまっていたのだわ)


 最初、阿蘇へ登ることを告白した時、クマナ媛は顔を青くした。

 

 阿蘇が未だ生き続ける火山であり、過去には火を噴いたという伝説があるというのもその原因だが、阿蘇の周辺には独特の匂いのする毒が充満しており、その毒に登山を試みた何人ものまじない師や巫女たちが命を失っているのを当たり前のこととして知っていたからだった。


 当然、その毒というのは、阿蘇の神が人の訪れを拒んでいるからだと解釈されている。神が人との接触を拒んでいる以上、無理に近づいてはならないというのが筑紫島に住む人間全体の共通の認識だった。


 しかし、ククリには分かっていた。今は、『そういう時期ではない』と。


 この感覚をクマナ媛が体感で納得させるのは難しいのだが、ククリには確かに今の阿蘇には毒の風はなく、近づけるという確信があった。


 なにより、自分は『呼ばれた』のだと理解していた。


「ククリ様の言ったことは、本当でしたな」


 まだ緩やかな山道を行きながら、クマナは汗ばむククリに今空に浮かんでいる夏の太陽のような笑顔で語りかけた。

 彼女が言うには、本来であればこの辺りはとうに毒の風が吹いている場所なのだそうだ。


 熊襲の女たちも、口々にククリを賞賛して賑やかに笑った。


 ククリも笑顔で答えるが、実際はそれどころではない。顔を上げ、目の前に広がる光景を見る。なんという山道なのだろうか。まだ勾配は緩やかなものの、草は自分の背丈ほどもあり、木立は脇ではなく目の前に無数にあって果てしなく続いている。これも自然の恵みである事には違いないが、その中をひたすら歩くというのは過酷で危険なことだった。


 夏の木々の葉が日の光を散らして輝いているが、その輝きが妙に目に痛い。次第に誰もが口数が少なくなってくる。誰もが疲労や緊張と戦っているのだ。

 ククリは無言で足を動かす中、その思考は不思議と過去へと向かっていった。帥大が里にやってきた時、そしてあの夜の事である。自分はあの夜、サクヤや友人たちの前で自らの熱情を吐露した。今まで状況と生まれ持った才能に流されるままに、巫女となって生きてきた自分は、あの夜、確かに自分で人生を掴もうとした。


 そして大きな使命を背負って倭国に来た。


 だが、現実は甘くはなかった。


 政敵に敗れ、結局は女王にも大巫女にもなれず、今自分は倭国の中で微妙な立場のまま巫女を続けている。自分は一体何なのか。本当にこれで良かったのか。あのまま里に残っていれば、平穏だったばかりか次の大巫女になれることは間違いなかったのに。


 あの熱情に従ったまま海を越えたことは、正しかったのか。そこまで考えて、ククリは自分が全く後悔をしていないことに気がついた。


 そうなのだ。どうであれ、自分はこの人生を選び取った。それこそが自分がしたかったことだ。


 だから決して後悔などしていない。それに、私はまだ諦めたわけでも、終わったわけでもないのだから。


 サクヤも言っていた。この地で大巫女として、女王になることは大神の意思なのだ。自分には大神がついている。さらに熊襲の大婆も似たような予言を遺しているというではないか。やはり間違いない。ククリは改めて自分に言い聞かせた。


 そんなククリにクマナ媛と話す機会が訪れたのは、明日はいざ火口で儀式を執り行い神を降ろすという前夜だった。


 空には肥えた月があり、煌々と輝いている。焚き火の明かりがなかったとしても、目が慣れればそれほど苦労しないくらいの夜である。


 あたりからは不思議なほど虫の声も獣の気配もなく、油断すると気を失いそうなほどの静寂だった。かわりに木々の濃厚な香りがむせかえるほどに充満している。

 

 他の巫女たちは疲労から死んだように眠っており、熊襲の女たちも見張りのために少し離れた場所にいた。最初は二十人ほどいた集団も、念のための山麓から等間隔で人をとどめておくことにしているので、今では六人ばかりになっている。


 ククリは焚き火の近くに座ったまま、揺れる炎を見つめていた。もう既に足はむくみ、腫れ上がっている。身体を鍛えるという行為は、戦をする者だけではなく巫女にも必要だなとククリは改めて思った。


 そんな時、これは良い機会だとばかりに話しかけてきたのは、見張りをしていたクマナ媛の方だった。 


「お疲れでしょう。眠らなくて良いのですか」


 そう訪ねてきたクマナの顔が、意外にも優しく朗らかだったのでククリも苦笑した。

 彼女はそれほど疲れていないらしい。


「眠れないのです。明日は私にとって大きな役目が控えていますから」


「ククリ様でも、緊張なさるのですか」


 クマナ媛は純粋に驚いているようだったが、ククリにはむしろその事が意外だった。


「何を言っているの」


 今の倭国での自分の立場、熊襲の期待、そして明日の儀式で対話するのは未だ誰も交信したことのないという筑紫島の神々の王である。成功すれば倭国王と太師に対抗することができ、倭国内での地位も劇的に変わるいわば自らの命運をかけた大勝負。これだけの条件が揃っていて、その前夜に緊張しない者がいるのだろうか。


「私には、ククリ様いつも確かな自信を持っておられた方でしたから」


 そういったクマナ媛の瞳は、まるでいつかの夕べ、姉に憧れていた妹のナルのようにあどけなかった。


 彼女たちには自分がそんな風に映っていたのだろうか。


「あなたは海を越えて何も知らないこの地に来て、倭国王、太師という強大な政敵にも負けず、この地で巫女としての役割を果たしてきたのです。臨時王都が造られている時も、あなたはこの地の神々と対話し、殺伐とした人々の心を潤して国家の守護を願ってきたのを私は間近で見てきました。その様は女神のように威厳に満ちたものでしたよ。あなたは豫国や倭国の巫女の前では毅然とした態度で統率し、実績を積み重ねてきた方です。その事に敬意を持たない者などおりますまい。倭国王があなたの巫女としての地位を半ば黙認しているのも、そのあたりを正当に評価してのこと。あなたは、私にとって憧れの女性ですよ」


 まるで愛の告白のような言葉に、ククリは帥大に愛を告げられた時と同じくらい胸が落ち着かなくなった。実際、クマナ媛の凛々しい顔立ちは、美しい少年に見えないこともないのだ。


「私は・・・それほど器用な女ではありません。目の前にあることだけしかできない。私が今こうして行動できているのも、豫国の大神が私に使命を与えたからです」


 そんなククリをどう思ったのか、クマナ媛は白く輝く月を見ながら、一層穏やかな顔で微笑んだ。


「私には、巫女としての素質がありませんでした。三歳の時、一族の集まる中、大婆様にそう言われたのです。今の私は戦人として、自分の能力に自信と誇りを持っていますが、そう告げられた時の父の顔は今でも覚えています。子供心に、父を失望させてしまった自分に傷つきました。もし私に巫女として、大婆様の後を継げるだけの力があれば・・・」


 そう語るクマナ媛の表情は、未来に溢れんばかりの夢を抱く少年のように繊細で透明だった。


「だから余計にあなたに憧れるのかも知れません」


 揺れる炎の明かりに照らされた熊襲の女を、ククリは美しいと思った。頬骨が高く、まるで野生の鹿のように清冽で、包むような優しさを持っている。


 熊襲でも彼女の激しさの中に宿るこの繊細な美しさを知っている者はどれだけいるのだろう。

 自分は、この女性に崇拝され、期待されているのだ。


 そう思うと、ククリの頭はますます冴えてきた。

 その後しばらくどちらも口を開くことはなかったが、沈黙を破ったのはやはりクマナ媛だった。


「ククリ様、帥大殿の妻になると約束を交わしましたな」


 どうしてそれを、というククリの顔に、クマナは動じることなく先ほどとは別人のように鋭い眼差しを向ける。まるで黒曜石の刃のようである。


「熊襲は数こそ倭国の民に劣りますが、倭国のあらゆる情報を知っているのです。ククリ様、帥大を信用してはいけません」


 今度こそククリは驚いて身構えた。


「帥大殿が、信用出来ないと」


「私は倭国の男を信じたことはありません。確かに帥大殿は、大変大きな器の持ち主だと思います。もし組むのなら、頼りになる相手でしょう。今の状況で、もし私が父の立場にあれば、私もあの者と手を組みたいと思います。ですが」


 クマナは宝玉のように煌めく瞳でククリに迫った。 


「心を預けてなりません。彼は倭国の王子です。常に警戒しなければならない相手なのです」


「あの方は、私を妻にと望んでくれたのです・・・あの方は、真剣でした」


「なるほど、確かにその時は真剣だったのかも知れません。しかし、人の気持ちというものは、時や状況とともに変わるものです。考えても見て下さい。倭国の王子という生まれと地位は、帥大殿に一生ついてまわるのですよ。倭国の状況一つで、彼を取り巻くものは大きくかわります。その想像出来ないほど大きなうねりの影響を、彼が受けないと思いますか。そうなった時、あなたの真心は利用されるのかもしれません。あるいは、今まさに、利用しよう近づいているのかもしれない。私はあなたが傷つくのが・・・」


 クマナがそこまで言うと、ククリは普段の麗しい容からは想像も出来ないほど険しい表情でクマナを睨んだ。まるで野生の雌の獣が、大切な我が子をまもるかのような必死さである。


 しかし当のククリは、まさか自分がそんな顔をしているなどとは全く思ってもいなかった。自分が初めて手に入れることの出来るかもしれない何か温かい大切なものを、クマナに奪われるかのような錯覚と恐怖を覚えていただけだった。


「それは、あなただって同じでしょう。帥大殿に倭国の王子としての立場があるのならば、あなたにも熊襲の、狗奴国の媛としての立場というものがあるでしょう。帥大殿も、あなたも、一族のために私に近づいているのは同じではないですか」


 その時一瞬、クマナが傷ついたような顔をしたのをククリははっきりと感じ取ったが、あえて気にはしなかった。


 そんなことよりも、ククリは己の溢れる気持ちを抑えることが出来なかった。


「結局、筑紫島の者たちは私を、豫国の巫女を自分たちのために利用しようとしていることにかわりありません。でも、良いの。それは私も似たようなものだから。私は、自分で自分の人生を切り開こうとここに来たのです。

 でもクマナ媛、あなたも知っているのでしょう、ミソノに想い人がいる事を。倭国王からこの地の巫女は男と愛を交わしても、良いと聞いていたけれど、私もミソノも豫国の巫女だもの。最初はよほど注意しようかと思いました。けれど、あの窶れて何か病にでも罹ったようだった彼女が、みるみるうちに元気になって、白髪は少なくなり、肌に艶が出て、まるで花が咲いたように美しくなっていきました。そしてなにより、彼女は輝くように幸せそうだった。それは本当に不思議な事でした。クマナ媛、あなたには分かりますか。私は今まで女としての幸せというものを目の前で見たことがなかった。けれど間近に見たミソノのそれは、余りにも魅力的だった。もし許されるものならば、私も手にしてみたいと思う気持ちがありました。そして、今、思わぬ形でその温かいものが私の手の中にあるのです。お願い、クマナ媛、私からこの名前も分からない大切なものを奪おうとしないで」


 ククリの瞳からは、白玉のような涙が自然とこぼれていた。


 クマナは目をそらし、哀れむような表情で天を仰いだ。そこにやはり白い月が煌々と輝いていた。

 

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