第二十四話 真名

 巫女の一人が真っ青な顔で宮へと駆け込み、王の宮での騒ぎの報告を悲鳴のように叫んだ。


 ククリとミソノは目を合わせる。


 その内容は、やはり予想していたとおりのものであった。


 遂に、王都奪還の戦が始まるのだ。もちろんこの騒ぎのただ事の無さは、それだけではない。倭国王は出雲と内通していたとして三人の王子と側近を殺したのである。これが倭国を震撼させる大事件であることは、豫国から来たククリをはじめとする巫女たちにも分かっていた。


 倭国は複数の部族で構成され、その中心に王がいる。王の妻たちは各族長の娘であり、生まれた男子が次期倭国王あるいは族長となる決まりである。


 男子は成人までは王の元で育てられるが、その後は自分の母親の里である部族長の元に返され、ここで祖父をはじめとする一族の指導の下、自らの有能さを王に示し、次期倭国王の座を争う事になるのが一般的だった。王座の争奪戦に負けた場合は、そのまま族長となり今度は兄弟に娘を妻として送り出すというのが最大の役目になっており、このしくみで倭国は、百年以上にわたって王と各部族がクニという形を保ってきていたのだ。


 重要なのはこのしくみにおいて、王が絶対の権力を持っていないということである。倭国の頂点に立っているのは倭国王であり、部族長は王を敬い従っているというのは間違いないが、各部族にはそれぞれに独自の兵があり、一つの勢力として重要な位置にいる。


 だから王であっても族長たちの意見は無下に出来ず、勝手な行いはそうそう出来ないものだったのだ。

 これは、まさに『和』を重要視する倭国成立からの伝統だった。

 そもそも倭国人の埋葬の仕方が、それを如実に表している。


 倭国では、奴隷である生口は別にしても、王も部族長も他のものも同じ場所に集団で埋葬している。生きている時は役割が違っていても、本質的には皆同じであるという考えの表れである。


 王族とそれ以外の者とは、死後もはっきりとした差がある豫国のククリたちにとってみれば、倭国の集団墓地は異様な光景だった。だが今日、帥鳴はその伝統と均衡を破り、自らの子を一方的に斬り殺した。理由は倭国との内通という正当なものだが、今回の事で殺された王子達の部族が黙っているはずがない。


 最悪の場合、せっかくまとまりかけていた倭国内が、再び乱れるという恐れもあるというのに、なぜ王は王都奪還という大仕事を発表したのだろうか。やはり愚王なのかというところまでが、巫女がククリに伝えられてきたことだった。


 だが、ククリは耕耘するように汗ばむ手を握りしめ、今こそ王の心の内が手に取るように分かって震えた。これはまさに帥鳴の大改革である。複数の部族からなるこの倭国で、王は調停者であり絶対者ではなかった。その為、王の権威が失墜すれば即座に倭国全体の危機に繋がるという根本の弱点を克服するため、大改革をしようとしているのだ。


 すなわち、今回の事は王権の強化、社会の改革その宣言である。どの部族が後ろにいようと、倭国と王に対する反逆は許さぬという声明。


 この計画が、ほんの数年で練られたものであるはずがない。


 どう考えても出雲の侵攻、王都の放棄、熊襲との同盟全てが王の描いたもののようにすら感じる。

 そしてその大計画に、太師張政も手を貸したことは間違いないだろう。張政による人心の掌握、王都奪還という共通の目的と出雲対する脅威、熊襲。この状況では王子達を殺された部族もすぐに勝手な事は出来はしない。するとすれば王都奪還後だが、誰もが勝利を噛みしめる中、その勝利へと導いた王と太師に誰が逆らうことが出来るだろうか。


 そしてそのことが象徴するように、以降、王の権威と権力は増し各部族の発言力は下がることになる。全てが周到に計画されており、その準備が整ったのだ。

 なんということだろう。帥大も考えていた国の仕組みを根本から変えるという大計画、それを倭国王は帥大の遙か以前から別の形で考えていたのだ。


 そして、状況を自分とって有利ものに『作り描いて』いる。現在この筑紫島で、最も状況に対しての主導権を握っているのは出雲王でも熊襲でもなく、倭国王なのだ。


 彼は愚王どころかとんでもない政の天才である。

 ようやくその事を悟った瞬間、ククリは口を両手で覆い、自分の前に帥鳴が巨大な姿で立ち塞がるような錯覚に陥った。


「ククリ様」


 ミソノが心配するのをよそに、ククリは震えながら目を閉じた。


 自分とて、決して何かを怠っていたわけではない。倭国での大巫女の地位が張政の出現で頓挫してからも、倭国元来の巫女たちを取り込み、指導し、この地での巫女組織を大きく育てようとしてきた。


 臨時王都建設の際の様々な祈祷、この地の荒ぶる神を押さえ、熊襲との信頼関係も水面下で順調に築き上げ、巫女団は倭国と熊襲双方に影響力を持つまでになったのである。だが、それでも倭国王帥鳴の計り知れない天才を思うと、時を遡りもっと多くのことをすればよかった、出来たのではないかと思えてならない。


 ククリが額に汗を浮かべながら、誰にも知られることなく息を荒くしていると、不意に外から聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。


「ククリ殿、入ります」 

 声の主は、帥大だった。


 ククリは懐かしい声に純粋に驚いた。


 なにしろ、帥大とはもう三年以上会うことがなかったのだ。しかし彼の王子は、つい最近まで会っていたように言う。


「ご無沙汰しております」


 相変わらず、まるで心地よい風のように爽やかな声である。眼差しも最後に会った時と何ら変わらない。地位の高い者が持つ、特有の嫌みなど微塵もなくまるで日輪のような朗らかさと威厳、そして優しさ、上に立つ者のすべてを兼ね備えている人物だ。 

 その全てが、こんなにも懐かしいと感じるのは何故だろう。


 ミソノは自然と侍女たちとともに席を外す。

 薄暗い部屋の中、二人は無言のまま見つめ合い、三年前のことを思い出していた。それは王の宮でのことである。


(ククリ殿、もはやこの地でそなたがすべきことは何もないわ。私は張政を太師にして、政を行っていくことに決めました。あなたも豫国に帰ったらどうかしら)


(倭国王、帥大殿に招かれただけではなく私は大神から受けた使命によって、この地にやって参りました。それを投げ出して帰る事など私には出来ません)


(へえ、太師の言うところの天命という奴かしら。でも、この先あなたが考えていた役目は、全て張政にやってもらうつもりなの。あなたはもうここでは必要がない。ただ・・・ひとつ考えがあるの)


(考え?)


(そうよ、あなたはこの地で帥大の妻になりなさい)


(何を言うのです父上!)


(お黙り、帥大。あなたがまだ出雲に捕らわれた妻のことが忘れられないでいるのを、私が知らないと思っているの? いい? あなたには能力がある。倭国王になる素質があるの。だけどまだ思考の規模が小さいのよ。今回、あなたは良い発想で良い働きをしたわ。私も感心してる。でもその根本の理由が、ただ自分の妻子を救いたいがためではだめよ。もっと大きく全体をみなさい。自分だけではなく、国のことを自分の行動の理由にするの。それが出来なければ、王にはなれない)


(父上、私は王になるつもりはありません)


(ならば今すぐ死ね! 我が一族に生まれたならば、とにかく王を目指すのが天命。その天命を放棄するなら、お前は生きている価値はない!・・・・ククリ殿、あなたは豫国人、その点も私が帥大の案を取り入れなかった理由でもある。でも、もしあなたが帥大の妻になって子どもを産めば、その不安もいくらかは解消されよう。それに帥大が王となり、あなたとの子も王になれば、また別のやり方であなたは使命を果たせるかもしれないじゃない。


 豫国の巫女は生涯男と交わってはならないという話を聞いたけれど、この地にはそういう決まりはないの。倭国の巫女は、男と交わるし夫を持っている者も大勢いるわ。これはその土地に宿る神の性質によるものかも知れないわね。とにかくその点も心配ない。それに・・・二人が男女として引かれあっていること、分からぬ倭国王帥鳴ではないわ)



 思えばククリの住む宮が想像よりも遙かに立派だったのも、将来的に帥大の妻として迎えようという思惑があり、その為のものだったのかもしれない。

 しかし、結局その提案を二人は改めてその場で断った。ククリは頑としてこの地に巫女の指導者として留まり、帥大とも疎遠になっていったのだった。


 帥大はその後、第三王子帥響との争いに負けたというふうに映り、彼を支持していた他の王子たちも離れていき、与えられる役目も臨時王都関係ではなく西の海辺で魚介類などを獲るものになっていた。元々海辺の部族である彼とその一族には適した役目だったが、それでも経緯を見れば敗者として臨時王都から遠ざけられたと思わずにはいられない。


「帥大殿・・・お元気でしたか」


 自分の口から出た凡庸な言葉に、ククリは自分自身に失望した。


「はい、海の潮風が性にあっているのか、以前よりも元気なったような気がします」


 全てを包み込むような笑顔は、やはり熱くなるほどに懐かしい。


 不意に、水中を自由に泳ぎ、海原で船を操る帥大の姿がククリの頭に浮かんだ。降り注ぐ陽光と照り返す水面や砂浜の輝きが彼を包み、人々は彼をまさに王のように崇めるのだ。けれど帥大はそんなことをさほど気にしている様子もなく、まさに日輪のような天衣無縫の笑顔で人々とともに笑っている。


 温かく、爽やかな土地が、彼の故郷だろうか。


「ここには、なぜ」


「王の宮であったことは、もうお聞きでしょう。我が父は我が兄弟の誰よりも聡明で、冷徹でありました。遂に、王都奪還が行われます。私は、王とともに兵を指揮する役目を受けました」


 その事はまだククリにも伝わっていないことだった。帥大の顔にはかつて彼にあった野心が再び見える。つまりこれは、しばらく政の中心から遠ざけられていた帥大にとってまさに大抜擢に違いない。


「おめでとうこざいます。ご武運をお祈りいたしましょう」


 出来る限り、自然な微笑みを作ったつもりだったが、帥大はどのように受け止めたのだろう。


 ククリが自らの焦燥を抑えようとしている時、帥大は一歩ククリに近づいて跪いた。 


「私は、必ず手柄を立てて帰って参ります。もし無事に帰る事ができ、次期倭国王に指名された時には、私の妻になって下さい」


 ククリの心の臓が、高鳴りのあまり破裂しそうだった。

「私は、巫女ですよ」


「もちろんです。ですが、この地の巫女は夫を持つことも許されています。ククリ殿も倭国の人間になったのならば、私の妻と成ることは何も問題ありません」


「ですが」


 あえて反論しようとするククリの瞳に、まるで懇願するような目顔の帥大が映る。この男はどうして、なんのためにこのような顔をするのか。


「四年前のあの時、私たちは倭国王の提案をその場で断りました。けれど、その一瞬。わずかな間があったこと、あの刹那が私たちにとって永遠であったことは、私だけの思い込みでしょうか。私は、ずっとあの時のことを思っていました」


 ククリは自分の目に涙が浮かんでいるのに気がついた。あの、一瞬の永遠を、帥大と共有できていたという事実が確認できてこの上なく嬉しかった。


「・・・あなたは自分の妻子が忘れられないのではないのですか。あなたはその為に豫国まで来た人です。これから始まる戦いも、あなたにとってはその妻子を救うための戦いのはず。今、私を妻に迎ようなどと・・・」


「もう、王都の放棄から十年が過ぎています。恐らく、妻も子も殺されているでしょう。あとは、それを確認するだけなのです。以前の私ならば、そこで私の人生は終わっていたでしょう。ですが、あなたに出会った。どうか、戦に勝ち、倭国王の使命をもらえたならば私と結婚して下さい。私は、あなたを幸せにします」


 帥大の瞳を直視すると、ククリは温湯(おんせん)に入った後のように頭と身体が熱くなる。思わず目をそらし、ククリはこれからのことを語った。


「私は、明日にでも阿蘇の山に登ろうと思っているのです」 

 阿蘇に、と帥大は息をのんだ。


 阿蘇とは、臨時王都の東に聳える大霊峰のことである。

 まるで筑紫島の全体を守護するかのように筑紫の中央に位置し、倭国からも熊襲からも信仰される神山には違いないが、危険な火山として命を落とした者の伝説は数多とある危険な場所でもあった。


 過去に何人もの巫女たちが筑紫の神の王の守護を得よう、自国の守護神となってもらおうとしたが、いずこの国もそれが叶ったことはないという。


 けれども、どうして自分がそのような危険な場所へと行こうとしているかという理由について、帥大が即座に理解したようなのを見て、ククリはささやかな喜びを感じた。


 ククリの目的は、阿蘇に宿る神、この筑紫島の神々の王ともいえる存在を味方にすることだった。もしこの今回の王都奪還の戦に阿蘇の神の力を借りることが出来れば、倭国の勝利は約束されたようなものであり、その守護は倭国の弥栄を約束するだろう。



 そして、あの太師張政、あるいは倭国王と渡り合うにはそれぐらい強大な後ろ盾がなくてはならないのだ。


 帥大はククリの覚悟と、今彼女が立っている場所の後は断崖絶壁なのだということを悟ったのか、改めて美しい巫女を見つめた。


「ククリ殿、どうか私の真名を受け取って下さい」


 意味が変わらぬククリに、帥大は説明する。真名というのは、元々は倭国に伝わる呪いよけのような考え方だった。真名を知られてしまえば、呪いをかれられ霊的人格を支配されてしまうため、通常身分の高い者が誕生すると真名と同時に別の名すなわち仮名がつけられるというものだった。


 つまり帥大という名前は、仮名ということなのだ。

 これは豫国ではない風習なので、ククリは純粋に興味を持った。


 時代が下り、倭国が「漢」という大陸の後ろ盾を必要とするようになると、仮名を大陸風につけることが貴人の習慣になっていったという。つまり、帥大、帥鳴、帥升というのは、外交上必要だった大陸風の名前の仮名と言うことであり、それとは別に倭国風の名を持っているということなのだ。


「真名を教えるというのは、自分の命を差し出すのに等しい行為です。ですから、人にもよりますが通常は一族の者でなければその名を教えたりはしません」


「それを私に?」


「はい、私の妻になって下されば。いえ、なって下さらなくてもお受け取り頂きたい。私と私の真名があなたをお守りします」


 その覚悟と眼差しで、本当は自分を守るために阿蘇の山に同行したいのだということが分かった。だが、大きな戦を前に彼がやらなければならないことは山ほどあり、それが叶わない。だからこそ、帥大は自分の命というべきものを差し出し、覚悟を示すと同時に愛する女の安全を願っているのだ。


 ククリは帥大の澄んだ瞳を見つめ、まるで少女のようにうつむいたままこくりと頷いた。


 途端に、帥大が夏の花のような笑顔を浮かべる。


「私の真名は、アメノツクヨミと言います。この名前が永久にあなたをお守り致します。ともに、この倭国を治めていきましょう」


「ツクヨミ様」


 ククリが他人と唇を重ねたのは、この日が初めてだった。


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