10-2. one Last time
夜を迎えた診療所が、軋んだ音を立てて揺れる。廊下を慌ただしく行き交う足音は、アイシャのこもっている部屋にもよく響いた。
カディル伯爵。数の知れぬ共喰い。誰がどこで何をすべきか。かわされる会話は不穏極まりなく、だというのに、ひどく遠い。
診療所が再び揺れる。ベッドに腰掛けたアイシャは、ニャン太を抱えたまま身を折った。このまま、部屋ごと潰れてしまえばいいのに。身勝手に思ったところで、暗闇に細く光が差す。
ゆるゆると目だけ動かせば、心配そうな顔をしたヒルが近づいてくるのが見えた。
「あぁ良かった、アイシャちゃん。どこを探してもいなかったから」
「……放っておいてくださいですにゃ」
「そういうわけにはいかないよ」窓の外から響いた獣の唸り声に首をすくめ、ヒルは声を落とす。「ここは今、共喰いに襲撃されてるんだ。戦えっていうわけじゃない。でもせめて、避難した方がいい」
「先生だけ、逃げればいんですにゃ」
「アイシャちゃん」
「私は、必要ないんですにゃ!」
伸ばされたヒルの手を、アイシャは乱暴に払った。赤毛の気弱な医者が口を閉じる。エドナの記憶を見て以来、もう何度と無く繰り返してきた行為だった。
アイシャは唇を噛む。エドナのことは嫌いだ。そのはずだった。彼女は横暴がすぎる。協調性というものがまるでない。始終、ヴィンスと夜を共にしてばかりだ。
アイシャがエドナを嫌う理由は山程ある。
なのにいざ、エドナにとって自分がどうでもいい存在だったのだと知ると、怖くなった。いつの日か認めてもらえるかもしれないと、期待していた自分を思い知らされた。
そしてそれが、絶対に叶わないのだと、いうことも。
「私、は……」アイシャは項垂れた。「私、なんか……いなければ良かったんですにゃ……こんな思いをするなら、いっそ、」
「それは違う!」
おもむろに声を上げたヒルが、アイシャの腕を掴んだ。彼は険しい顔で膝をつく。
「違う。いなければいい人間なんて……そんなの、どこにもいるはずないだろう……!?」
「っ、でも……でもっ……」
「そもそも!」ヒルはアイシャの体を揺さぶった。「君がいらないと言うのなら、どうしてエドナさんは君を助けたんだ!? そこはちゃんと訊いたのかい!? 本人に!?」
「っ、そんなこと、出来るわけない!」
「いいや、やるべきなんだ!」
アイシャがひくと喉を鳴らす。涙を止めることが出来なかった。それを拭うこともせず、ヒルはアイシャを真っ直ぐに見つめる。
「訊くべきなんだよ、アイシャちゃん。相手と話せるのであれば、問いただすべきなんだ。憶測なんて、いくらでもできる。でも、その人と話すことは、その人が生きている間だけにしか出来ないことなんだよ」
部屋が再び大きく軋んだ。窓には共食いの影がいっそう大きく映っている。守りが機能していないのは明白だった。エドナの喚んだ悪魔の数が極端に減っている。
アイシャは小さく呻いて涙の滲む目を擦った。そしてヒルを押しのけ、部屋の外へ飛び出す。
*****
小瓶が割れ、数匹の共喰いを道連れに悪魔が
「ねーぇ、神父様。これ全部殺してしまっては駄目?」
「きょ、許可できない」ヴィンスはぼそと呟き、結界を張るための石を放った。「と、共食いの維持はプレアデスの意思だ」
「それが私達を襲ってるわけだけれど」
「……ぷ、プレアデスに何か考えがあるのだろう。そ、その真意を量ることなど誰にも出来ない」
ヴィンスの目が僅かに揺れる。迷い、動揺。彼にしては珍しい。エドナは両眉を上げ、されど、にこりと笑んだ。
「まぁ、いいわ。神父様が望まれるのなら、それを叶えて差し上げるのが私の役目ですもの」
「いやはや、随分と
品のない
「汚らしい声で私の名前を呼ばないでくださる? カディル伯爵」
「おお、気の強さは相変わらずよな」カディルは黄ばんだ歯をみせて笑う。「だが、そんなひ弱な男よりも
「呆れた。待ても出来ない犬はこちらから願い下げよ」
「ふん、アランが勝手に取り付けた約束のことを言っておるな?」
カディルがやれやれと首を振った。
「まったく、たかが小娘一人の懇願に指し手を読み違えるなどありえぬことよ。女は従わせてこそのものだ。それをこうして、形で示してやっておるだけのこと。なにより儂には正当な理由がある。娘を迎えに来たのだ。わが愛しき成功作を」
「それは大変、早く会わせてあげなくちゃね。あなたの首を胴体から切り離したあとで」
エドナは後ろ手に小瓶を砕いた。剣を持った兵士が顕現する。間髪入れず刃は振り下ろされる。しかしカディルは避けることもせず、手元の携帯端末を操作して笑う。
「そうら、プレアデスの指示だぞ。哀れな守り人よ、儂を守れ」
低い詠唱の声が聞こえた。兵士の刃を、カディルの周囲に出現した煌めく結界が防ぐ。
エドナは弾かれたように振り返った。ヴィンスが青い顔をしている。その手から携帯端末が滑り落ちた。プレアデス機関の映された画面に、エドナは彼が自身の魔術を退けたことを確信する。
凍りつく二人の空気を、カディルの嘲笑が揺らした。
「はは! やはり、やはりな! あの男の言うとおり、君は随分と
ヴィンスの
『一つ、命を捧げよ』
「な……ぜ……」
『明白である。指示……指示である……時間の……巡りを正しく導く……命は捧げられねばならない。我のために。世界のために』
プレアデスの論理は
共食いが傍に近づいた。その頭上で、異形の爪が高々と振り上げられた。エドナが見たのは、そこまでだ。
そして彼女はヴィンスを引き寄せ、彼の代わりに共喰いの爪を背中で受ける。
「エド、ナ……?」
「……ほんと、馬鹿な人」
鋭い痛みを押し殺し、エドナは呆然とした様子のヴィンスに微笑む。か細いアイシャの悲鳴が届いたのは、その時だった。
*****
耳障りな、共喰いの鳴き声が響いた。
暗い廊下を大股で進みながら、マリィは剣の鞘を握る手に力を込める。
「なぁ、やっぱり私達も外に出るべきだろ!」
「駄目だ」
真っ先に否定したのはテオドルスだった。パソコンを片手に持った彼は、さらに前を行くエドをじっと見つめたまま低く答える。
「その話はさっき終わっただろ、マリィ。まだ共喰いはこっちまで来てねぇ。なら、俺たちは俺たちのやるべきことをするって」
「そーだけど! 明らかにさっきより数が増えてるじゃんか!」
「大丈夫です」暗い廊下の先で、エドがちらとマリィの方を見やった。「
「それに、お前は本調子じゃねぇだろうが」
テオドルスに指摘され、マリィは唇を噛んだ。心臓がずきと痛んだのは、決してテオドルスの言葉のせいだけではない。今朝方の発作のせいで、体は万全とは程遠かった。先程ヒルから処方された薬を飲んだものの、頭がやけに重いのも事実だ。それがますます彼女を苛立たせる。
マリィは低く悪態をついて、己の胸元をさらしごと掴んだ。
「分かってる……分かってるさ、そんなのは。でも、黙って逃げるわけにはいかないだろ」
「逃げてるわけじゃねぇ」テオドルスが溜息をついた。「この騒ぎだ。足の悪いエメリ教授だけでも逃した方がいい。その後でなら、いくらでも戦えんだから」
間を置かずして三人はエメリの書斎の扉を開けた。相変わらずの散らかりようだ。再び診療所が大きく軋み、雑多な機械が鳴動する。
デスクトップの
「なんだね、騒がしい」
「随分とのんびりしてんじゃねぇの」テオドルスが呆れた声を上げた。「外の騒ぎは聞こえてんだろ? ここも、いつまでも安全とは限らねぇ。動ける内に避難した方がいい」
「必要性を感じないな」
すげなく返して、エメリがキーボードを叩く。テオドルスが肩を落とした。
「……その自信は一体どこから来てんだよ、本当に。なぁ、この部屋のことは安心しろって。ひとまずあんたを逃した後に、俺が責任持ってここのデータベースをだな、」
「のんびり話してる場合じゃねーんだってば、
マリィは耐えきれずにテオドルスの声を遮った。驚いた様子の幼馴染を尻目に、彼女はつかつかとエメリの書斎机に詰め寄る。
「いい加減にしろよ。早くあんたが逃げてくれないと、こっちが困るんだ」
「何故」
「何故、だぁ?」マリィは空色の目を強く
「随分と乱暴な論理展開だな」
「じゃあ、あんたは論理とやらを説明できんのかよ!?」
マリィは苛立ちに任せて机を叩いた。鴉が飛び立つ。背後から
「なぁ、あんた。こんな時まで何してんだよ。何を熱心に画面を見てるんだ? まさか、妙な手引きでもしてるんじゃねぇだろうな?」
エメリが手を止めた。診療所が微かに揺れる。不穏な静寂の中、老いた教授の
その瞳には、愉快そうな光が浮かぶ。
*****
刃が熱い。だというのに指先が凍えるように寒い。息が詰まりそうなほどの激痛の中でラナは顔を上げた。
ナイフの柄を握ったまま、アランがゆっくりと立ち上がる。彼は張り詰めた声で
「未来は
「っ……そ、んな……」
「そう、未来も人間も、何もかも変わるんだ。なのに、君は変わらない。それが救いだった。それだけが、俺にとっては」
独り言のように呟いて、アランはゆっくりと
「俺は変わらぬ君を愛そう、ラトラナジュ。だからこそ、君のための世界を繰り返さなければ。君が幸せだと微笑んでくれる、この時間を。この過去を。たとえ君自身がそれを望まないのだとしても」
彼の左手がラナの頬を撫でた。場違いなまでに慈しみに満ちた手つきに誘われるまま、ラナは顔を上げる。
アランは微笑んだ。それは今にも泣き出しそうな笑みで、けれどきっと、彼はそのことに気づいていないのだろうと、ラナは思って唇を震わせて。
アランが、
「長く語ってしまったな。君はひどい痛みを感じているだろうに。すまなかった。だが、」
「だが、これは時間を巻き戻すために、必要なことだ……だろ……?」
ラナはぽつと呟いた。
予想通りの反応だった。それが悲しくて、腹立たしい。あぁやっぱり彼は何も分かっていないのだ。何も、何一つ。
「……馬鹿にするのも、いい加減にしてくれるかい」
競り上がった血を吐き捨て、ラナは低く呻いた。
「ねぇ、もしかして、私が本当に何も知らないと思った? ここに来れば誰も彼もが救われるって、私が本気で信じてるとでも? だとしたら、あんたは馬鹿だよ。本当に、大馬鹿だ」
アランの柳眉が微かに動く。それを見据え、ラナは血で濡れた唇に挑むような笑みを刻んだ。
「アラン、あんたがどうやって時間を巻き戻しているのか、私は知ってる。そのために私の命が必要なことも。あんたに、カディル伯爵以外の協力者がいることも。だから、ねぇ。こんなの全然予想通りだ。あんたが私を殺そうとすることくらい、とっくに分かってて、それでも私はここに来たんだよ」
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