リボン
ヒゲプロ
一章 I'm
1-1
「地獄でも殺し続けてやる!」
--裁判所内に怒号が響いた。
2019年8月
当時4歳の男児
被告人は通園していた幼稚園の教諭だった
事件性もさることながら、被告人が被害者の通園していた幼稚園の教諭ということもあり、報道は加熱し注目を集める裁判となっていた。
定刻を迎え裁判官が静かに口を開く。
「審理を開廷します。被告人、氏名・年齢・職業・住所をお願いします」
「……加賀池真記、32歳、幼稚園教諭です。住所は○○県××郡です」
年齢より少し若く見える黒髪の女。
下を向き、やや
「では次に、検察側より起訴状の読み上げをお願いします」
「……はい」
裁判官の促しから一呼吸置いて検察官が答える。
年齢は30代後半、憔悴しきった表情で語りだす。
「被告人、加賀池真記は2019年7月16日、午後13:40頃に、被害者も通園していた職場である○○県××郡の幼稚園から、当時4歳だった松笠花蘇芳を誘拐した後、同郡の山間部で同日15:40頃、所持していた刃渡り15センチの刃物で被害者の腹部を刺し、頸部を切り裂き殺害。同日17:26に同郡の管轄署に出頭、申告したため、緊急逮捕されており刑法224条略取誘拐及び、刑法199条殺人の罪で告訴されています」
訴状を読み上げた検察官は一息ついて、俯き目頭を押さえた。
検察官の名は、
公平が俯く中、裁判は粛々と進められる。
裁判官より被告人への黙秘権の説明が終わり、罪状認否が行われる。
「被告人、訴状の内容に間違いありませんか?」
「……はい。間違いありません」
先程とは打って変わって弱々しい声で真記がぽつりと呟く。
水滴のようなその声に、公平の腹の底で怒りとも悲しみともつかない思いが
静まりかえった裁判所内は審理を続ける。
「それでは、検察側より冒頭陳述を行ってください」
「はい」
感情の昂りが感じられる語気が所内に静かに響いた。
「勤務先である幼稚園、多くの園児がいるなか何故、被害者を選んだのか……。
調書では被告人が赴任してきた当初、最初に声を掛けた園児であり印象が強かったとあります。また、殺害までの経緯についても昼食の後、姿が見えなくなった被害者を園付近で保護した後、そのまま自分の車に乗せ殺害現場の山間部まで向かっています。犯行後は管轄の警察署に出頭していますが、未来ある子供一人の命を奪った犯行は卑劣極まりなく
水を打ったような所内で、時折声を荒らげながらも公平の冒頭陳述は続いた。
「凶器である刃物も、犯行の4日前に購入しており、使用されてはおりませんが荷造り用のビニールテープ、ガムテープなど、被害者の自由を奪うものを同時に購入している。犯行は計画されていたものではなかったのでしょうか! 出頭、自首により減刑を--」
怒号のような公平の叫びが、乾いた音によって遮られる。
「検察官……感情的にならずに……審理中は冷静にお願いします」
そこで初めて公平は自分の額に大粒の汗が浮かんでいることに気づく。
「取り乱しました……申し訳ありません……」
酷く乾いた口内を湿らせるため、一口水を
「続けます。調書内の実況見聞です。山間部に向かう途中で目覚めた被害者と話しながら山道を歩き犯行現場に向かいます。ここで被害者が母親はどこにいるのかと騒ぎ始めたとあります。県道から離れた場所ではありますが、騒がれると困ると考えた被告人は……脅迫のため所持していた刃物で腹部を……一度刺します」
言葉を詰まらせながら、自分の子供が逃れることが出来ない死に向かう様を説明する公平。
傍聴席の所々から鼻を啜る声が聞こえ始める。
「腹部を刺す際に声を抑えるため、口を
公平はそこで事切れ、冒頭陳述は終了した。
真記は冒頭陳述中、足元を見つめ左手の親指付け根を触っていた。
「……それでは証拠調べ手続きを行います。弁護人どうぞ」
「検察側から提出された、凶器・移動記録・商品購入の履歴・被害者の歯形・被告人の左手拇趾球部の裂傷痕。いずれも同意しております」
「それでは5点を証拠として記録をお願いします」
裁判官が書記官へ促す。
「では次に、被告人への質問があれば行ってください……冷静にお願いします」
公平がゆっくりと顔をあげ、真記を見据え静かに語りだす。
「……なぜ? 息子だったのか……あなたと私は園での面識もありました。会話こそ少なかったですが、良い関係を築けていると思っていました……。
息子には、人に優しく……人だけではなく全ての命は平等だと伝えていたつもりです。教諭という立場であったあなたも、園の教育方針でそのように考えて、伝えて、教えていたんではないですか?
だとしたら、今回はあまりにも不平等ではないですか。
……現在の司法のありかたでは、あなたが極刑になることは限りなく難しい。
なぜ平等な命を奪い、奪われた我々と同じように生きているのか。
私は納得いかない。出来る筈もない。
……赦されるのであれば私はあなたを今すぐにでも……殺してしまいたい」
公平の発言に、所内は一気にざわめきだつ。
たちどころに、けたたましく乾いた音が鳴り響く。
「静粛に! 審理中です! 検察、心中は察しますが、発言には気をつけるように!」
依然騒ぎが収まらない中、うなだれ肩を落とす公平をよそに審理は終わりへ向かう。
暫く時間が経過し、徐々に落ち着きをみせる所内。
「それでは審決にうつりますが被告人、最後に何か言いたいことはありますか?」
裁判官に促された真記は見つめていた足元から顔を上げ、正面を向き呟きだす。
「はい……。当日は花蘇芳ちゃんの誕生日でした。何日も前から……「誕生日はお父さんと過ごすんだ」と……。とても楽しみにしている様子でした。
しかし……当日の朝、お迎えの際にとても落ち込んでいるみたいでしたので、声を掛けました」
公平の顔からみるみると血の気が引いていく。誕生日を忘れていたわけではない。
息子と交わした約束を一つ思い出していた。
「お父さんが朝からいなかった。約束していたのに……と。
検事さん……普段から家にはあまりいらっしゃらないようで……誕生日には1日中、遊ぶ約束をされていたんですよね。
……当日は奥様もお出掛けの予定みたいでしたので花蘇芳ちゃん、とても悲しそうでした」
事件の一年前……3歳の誕生日。
どうしても都合がつかず深夜に帰宅した際、妻に言われた。
「息子の誕生日くらい一緒にいられないの? 1日も休めないの? ずっと寂しそうだったわよ……たまには父親らしいことでもしてあげてよ」
身を粉にして働いていた。それが家族のためだと思っていた。
だが、そのせいで息子には寂しい思いをさせてしまっていた……。
次の日の朝、まだ片言でしか話せない息子と約束していた。
「次の誕生日は、お父さんと1日中遊ぼうな」
理解できていたのか分からないが、息子は満面の笑顔だった。
--真記が続ける
「待たされる。というのがどれ程辛いか考えられたことはありますか? 子供には1日がとても長いんです。特に楽しみにしていることなら夜もなかなか眠れず、ずっとその日が来ることを待っているんです。
花蘇芳ちゃんは一年の間、我慢していたんです……そしてその楽しみを奪われた。理由も告げられず」
一旦そこで、真記は呼吸を整えるように深呼吸をした。
そして初めて公平を見ながら話を続けた。
「私は……検事さんに気付いて欲しかったんです。花蘇芳ちゃんや奥様と、向き合って欲しかったんです……彼が今、何を思っているのか、奥様が今の検事さんをどう思っているのかを知ってほしかった……あなたの家族がどれだけ歪であるかを分かって欲しかった。最後に花蘇芳ちゃんと目を見て話したことがいつか覚えていますか? 些細な約束をしてませんでしたか? 思い出すこともできませんか?」
公平と真記は、目線を逸らすことなく見つめあっていた。
「……でも良かったじゃないですか。来年は無理ですけど
最期の誕生日には会うことができ--」
真記が言い終わらないうちに、公平は真記に詰め寄っていた。
手に証拠品の刃物を握りしめて。
警備員が駆けつける頃には、真記の腹部に刃物が突き立てられていた。
激情から、声にならない声を上げながら公平は真記の腹部を何度も、何度も突き刺していた。
駆け付けた警備員に取り押さえられながら公平が叫んでいた。
「地獄でも殺し続けてやる!」
その顔は怒りと涙と返り血に染められている。
乱暴に腕を、胴体を掴まれ現場から引き離される中、苦悶の表情が次第に微笑みに変わっていく真記に気付く。
自分の激情によって死の淵に追いやっている相手の口から微かではあるが言葉が溢れている。
「……りがとう……
ごめ……ね……。
--ちゃん」
感謝と謝罪の声は喧騒に埋もれ、輪郭を焼き付けるのみだったが、それでも公平には全てが伝わっていた。
起こしてしまった現実から逃げるように公平は錯乱し、首に刃物を当て引き抜いた。
裁判所内は酷く荒れ、
その中央では、二人の生きていた証が混じり合い幾層の色合いを作り出していた--
同日
○○県山間部の一軒家付近、無線による会話が行われる。
「配置完了しました。いつでも行けます」
「……了解。各班確保用意。私情に巻き込んですまないが、世話になった人の仇だ。絶対逃がすなよ」
--when 了--
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