第4話 「書類整理」

「掃除掃除そうじそうじ……って、いい加減飽きたぜこんちくしょー!!」


 ロワールハイネス号の航海長シルフィードは、太い二の腕をぶんぶんと振り回し、もはや彼専用となっている柄のついたデッキブラシと水が入った桶を担ぎ上げた。


「シルフィード。あと三日だからな。三日で船内すべての場所の掃除を終わらせるんだぞ?」

「……うう」


 シルフィードは背後で響いた冷酷な声にげっそりしながら後ろを振り返った。

 金色のペンキで塗装されたメインマスト(中央)の隣に、ロワールハイネス号の副長ジャーヴィスが鋭い視線を光らせて立っている。


 副長は朝4時という早朝にもかかわらず、今日もきっちりと濃紺の軍服をまとい完璧に身支度を整えていた。きっと深夜0時からの夜直からずっと起きていたに違いない。


 一体いつ眠っているんだろう?

 睡眠時間を削ってまで職務にかける情熱には感嘆を通り越して辟易する。

 シルフィードは深く深く溜息をついた。


 事の発端は今から四日前のこと。

 本来、艦長の許可を得てから記帳しなければならない「航海日誌ログ」に、シルフィードと士官候補生のクラウスは、無断で互いをなじる私事を6ページにも渡って書き込んでしまった。


 その罰としてシルフィードとクラウスは、ロワールハイネス号の船首甲板から船尾まで。第二甲板の倉庫から食堂、大船室、副長室と艦長室。第三甲板の船倉すべてを、一週間で掃除することになったのだ。


 努力の甲斐あって上甲板は二日で終わらせた。昨日は第二甲板の船首倉庫と食堂まで終わらせた。

 

「今日で第二甲板は全部終わらせますよ。四六時中ご覧にならなくても、俺が真心込めてずっと掃除しているのはおわかりでしょう?」


 シルフィードは人懐っこい緑色のタレ目を細め、ジャーヴィスに向かって笑ってみせた。


 いっそ寝不足でぶったおれてくれれば、一日罰掃除を休む事ができるんだが。

 何なら後頭部をぶん殴って眠らせてやろうか。

 そういうやましい考えを巡らせながら。


 するとジャーヴィスは両腕を胸の前で交差させて組むと、ふむ、と小さく相槌を打った。


「……確かに。お前とクラウスは真面目に掃除をやっているな」


 シルフィードを見るジャーヴィスの厳めしい目つきがふっと和らいだ。


「そ、そうでしょう! そうでしょう!」

「そうだ、シルフィード」


 ジャーヴィスが何か思い出したようにつぶやいた。


「な、なんでしょうか」


 ひょっとしたら今日は一日掃除を休みにしてやろう。

 そうジャーヴィスが言うのをシルフィードは期待した。


「船首の舳先の円材バウスプリット、今朝海鳥が数羽止まっていたせいで、糞がついている。あそこを先に掃除しておけ」

「……」

「じゃ、私は海図室で航海日誌を書いている。それと、わかっているだろうが、まだ朝4時だ。艦長室の掃除は後回しにしろよ」


 ジャーヴィスは高飛車にそう言うと、軍服の裾をはためかせてシルフィードの前から立ち去っていった。


「……チッ!」


 シルフィードはデッキブラシを肩に担いだまま、ジャーヴィスの背中に向かって舌打ちした。


 ああもう。小姑かい、あんたは。

 シルフィードは疲れた顔で、まずは命じられた場所の掃除をすることにした。




 ◇◇◇



 たった一週間で、船内すべての部屋を丸ごと掃除しなければならない。

 そのためには『早さ』が要求される。

 シルフィードはジャーヴィスに命じられた舳先の鳥の糞を手早く落としてから、水を入れた桶を片手に第二甲板の船室へと降りた。


 第二甲板のちょうど真ん中は、非番の水兵達が寝起きする大船室で、乗組員の半数がハンモックを吊って眠っている。


 もっともロワールハイネス号は中型の縦帆船スクーナーなので、乗組員はジャーヴィス達士官を入れて19名しかいない。けれど操船には十分すぎるほどの頭数である。


 いびきをかいて寝ている水兵達を恨めし気にみながら、シルフィードは大船室を通り過ぎ、下甲板から床を貫いているミズンマスト(最後尾)前まで歩いていった。


 ジャーヴィスも言っていたがまだ朝早い。

 掃除の音でみんなを起こしたくないと思った。


 帆船は風任せ。風が変わったら、それが早朝だろうが真夜中だろうが睡眠中だろうが、容赦なく甲板へ総員集合の命令が発せられる。

 しかも当直中の居眠りは厳禁なため、慢性的に睡眠不足に陥っている者も多いのだ。


「じゃ、今日はまずここからするしかないよな……」


 シルフィードは左舷船尾横の扉の前に突っ立った。


 『副長室』


 真鍮磨きで金のように輝いているプレートにはそう書かれてあった。

 いわずもがな、副長ジャーヴィスの部屋である。


「失礼しやすよ」


 シルフィードは真鍮の把手を握って扉を引いた。

 扉は鍵がかかっておらず、音もなく開いた。


「よっと」


 シルフィードは手にしていた桶を床に置いた。

 何度かジャーヴィスの部屋には入った事があるので、さほど目新しさは感じない。

 窓のない副長室は意外と狭い。


 大柄なシルフィードなら膝を曲げないと横になれないぐらいの吊り寝台と、小さな机と椅子が一つ。壁には以前シルフィードが洗濯の際、油を塗った静索に干したせいでドロドロにしてしまった航海服と同じそれが、壁に打ちつけたフックにかけられている。


 寝台の頭の所は作り付けの棚があり、几帳面なジャーヴィスらしく、隙間なく本が詰められている。床にはちり一つ落ちておらず、寝台の布団は綺麗に畳み込まれており、これぞ模範といえるような整理整頓ぶりである。


「……ここは、いっか」


 シルフィードは疲れた笑みを浮かべながらへらへらとつぶやいた。

 ここはロワールハイネス号の中で一番掃除が行き届いている部屋だ。

 そう思って部屋を後にしようとしたが、ふと机上が気になった。


 ジャーヴィスらしくない。

 右側に四段ある引き出しの一番上がちゃんと閉まっていないのだ。

 しかも手紙らしきものがそこから飛び出ている。


「閉め忘れか。あの人に限ってめずらしい」


 シルフィードは引き出しを閉めるために手を伸ばしたが、そこから飛び出ている封書をいつしか抜き取っていた。

 手に取った淡い水色の封筒からは、ほのかに香水の匂いがする。

 何の香りかわからないが、花のようにふわりとした華奢な匂いである。


「……」


 シルフィードは内心どぎまぎしながら封書と引き出しを凝視した。

 どう考えてみてもこれは。

 この手紙の差出人はだろう。

 封書の宛名は細いペンで書かれたやわらかい筆跡。



『エルシーア海軍 ロワールハイネス号

         ヴィラード・ジャーヴィス様へ』



 シルフィードは封書を手にしたまま、そっと後ろを振り返った。

 開けたままの扉の向こうには、船尾の上甲板の昇降口から降りる階段が見えているが、人の気配はない。階段の後ろにある艦長室も至って静かなままだ。


 それを確かめて、シルフィードは手紙を引き出しに戻す事にした。

 もとより人の恋文など盗み読みする趣味はない。

 ジャーヴィスは生真面目で堅い青年だが、誠実で仕事はできるし、王都に地所を持つ貴族でもある。


 女性の影をちらつかせないのがいかにもジャーヴィスらしい所だが、こうして手紙を船に持ち込んでいる辺り、彼にとって大切な人からのものであることはシルフィードでも察する事ができる。


「あの副長が……ねえ……」


 シルフィードは自然と笑みを浮かべて目を細めた。

 お堅いジャーヴィスがどういう顔でこの手紙を読んでいたのだろうか。

 それを想像するとつい、笑いが込み上げてきて仕方がない。


「ま、俺には関係ないことだしな」


 シルフィードは引き出しを開けて手紙を元に戻そうとした。


「……あぁ?」


 シルフィードは引き出しの中を見て絶句した。

 そこにはおよそ三十通はあろうかという手紙の束が入っていた。

 どれも淡い水色の封書で、振りかけられている香水の匂いが強くふわりと立ちのぼった。


「げっ。まさかこれ……副長の恋人からの手紙か?」

「えっ、どうしたんですかー?」


 シルフィードは心臓を鷲掴みにされたように猛烈な恐怖を感じた。


「だっ、だだだだ誰だっ!」


 思わず机を大柄な体で隠すようにして振り返ると、扉にはデッキブラシを持ったクラウス士官候補生が驚いたように目を見開いて立っていた。


「マスター、何大きな声を出して……」

「わわわっ! クラウス、お前か」


 シルフィードは咄嗟にクラウスのシャツの襟元を掴んで、副長室の中に引っ張り込んだ。


「なっ、何するんですかっ!」


 シルフィードの行動に驚いたクラウスが叫ぶ。

 シルフィードはクラウスの口に手を当てて小声で言った。


「黙れって! 副長が来たらどうするんだ」

「モガモガモガ(副長が、来たらって)……?」

「これを見ろよ、クラウス」


 シルフィードはクラウスの口を塞いだまま、ジャーヴィスの机の引き出し一杯に入っている手紙の束を見せた。


「うわ、何これ」


 クラウスはちらりと手紙を見て、それからシルフィードを意味ありげに見た。


「手紙?」


 シルフィードはうなずいて、ようやくクラウスの口から手を離した。


「副長の恋人からの手紙だぜ」

「え……」


 クラウスが大きな目を更に見開かせて手紙の束を凝視した。


「すごい。一体何通あるんだろう?」


 クラウスは一番上の封書を手に取った。


「おい。中を見るなんて野暮な事はやめろ」


 シルフィードはちらりと後方の扉に視線を向けた。

 いつジャーヴィスが部屋に戻ってくるかわかったもんじゃない。


「えっ、でもマスター、この手紙変です」

「……変?」


 クラウスの疑問に満ちた声にシルフィードは顔を元に戻した。

 クラウスは封書を手にしてぱたぱたと振った。


「これ、。封蝋もついたままです。ジャーヴィス副長、まだ手紙を読んでないのかな」


 クラウスは封書を机の上に置き、引き出しからまた一通取り出した。


「……あれ? 開いてませんよ?」


 シルフィードの胸中は穏やかではなかった。


「ならいいじゃねえか。クラウス、手紙をさっさとしまって部屋から出ようぜ」


 だがクラウスは引き出しの中の手紙をすべて机の上に広げてしまっていた。


「やっぱり! この手紙、全部です! おかしいですよ。ひょっとして不幸の手紙か何かかな?」

「不幸の手紙?」


 クラウスは手早く机の上の封書をまとめた。


「だって、ジャーヴィス副長って、厳しい所があるじゃないですか。すごい人だと思うけど、ひょっとしたら、誰かに恨みを買ってるのかも……」

「……」


 クラウスは俯いて床の一点を凝視していた。

 唇をきゅっと結び、軽く握られた両手の拳は小さく震えている。


「クラウス」


 シルフィードは黙りこくった士官候補生の金髪頭を手でこづいた。


「痛い」

「クラウス。お前の気持ちはわかるが、副長はお前だけに厳しいんじゃない。俺なんか、お前の数十倍いじめられてるぞ」

「えっ。そ、それじゃ、この手紙はマスターが……」


 シルフィードはぐりぐりとクラウスの頭を拳で押し付けた。


「馬鹿野郎~! 俺がこんな陰気な嫌がらせをするわけないだろう! 何かあったら相手が副長だろうが艦長だろうが、俺はしかるべき場に出て訴えてやるんだから」

「じゃ、じゃあ……これは一体誰が……」

「おい。人の部屋で何をしている」


 クラウスとシルフィードが互いを見合ったまま体を硬直させた。

 衝撃のあまり息すらも止めた。


「副長室の掃除は結構だが、そこまで細かくしろとは言ってないぞ」


 冷ややかなジャーヴィスの声を聞きながら、シルフィードは何でもっと早くこの部屋から出なかったんだろうかと後悔した。


「ジャーヴィス副長。僕ら、決して手紙を見ようと思ったわけじゃないんです!」


 声を出したのはクラウスだった。

 厳しいジャーヴィスの指導が苦手で、できることならすぐさまこの場から逃げ出したいだろうに、候補生は懸命に顔を上げてジャーヴィスに訴えていた。


「ほう。では何故引き出しが開いている? 手紙を見るつもりがなければ、それを開ける必要もないはずだが」


 ジャーヴィスは淡々とした口調で言った。

 怒っているのかどうかは傍目ではわからなかった。ただ、真っ青な鋭い瞳だけが研がれた剣のように光っていた。


「それは俺が開けたんです。というか、開いていたから閉めようと思ったんです。その時に手紙が引き出しからはみだしていたので……それで……」


 シルフィードはクラウスの肩に手を置き、ジャーヴィスに状況を説明した。


「……そうか。じゃ、ここはもういい。他の部屋の掃除をしてくれ」


 ジャーヴィスは小さく溜息をついて扉の脇に立った。


「あ、あの。副長」


 ジャーヴィスは目を閉じて首を振った。


「行け」

「は、はい!」


 シルフィードはクラウスの肩を押すようにして、狭い副長室から外に出た。

 ジャーヴィスは把手に手をかけて扉を閉めようとしたが、不意に顔を上げてシルフィードを呼び止めた。


「シルフィード」

「な、ななな、なんですかい!?」


 シルフィードは今度こそジャーヴィスに怒られると思って、こわごわ後ろを振り返った。何時の間にか額に浮いた汗が、つつーっと頬を伝って顎に流れ落ちる。


「……お前は手紙を書くのが得意か?」

「ええっ?」


 ジャーヴィスはばつが悪そうに口元をゆがめ、未開封の手紙が詰められた引き出しを眺めていた。


「私は、苦手なんだ。なんと書けばいいのか、うまく言葉にできなくて」

「……」


 シルフィードはジャーヴィスに訊ねられた事に返事をする事も忘れ、ぽかんとその顔を凝視していた。


 ジャーヴィスが白い手袋をはめたそれを封書へのばす。

 その横顔はシルフィードがジャーヴィスと共にロワールハイネス号に乗って以来、初めてみる優し気な表情だった。


 ひょっとしたら。

 シルフィードはジャーヴィスの物思いに耽る横顔を眺めながら、あれは本当に恋文じゃないだろうかと考えた。


 クラウスが言っていた不幸の手紙の類いとやらなら、ジャーヴィスの性分からいって早々に処分しているはずだ。


 シルフィードはにやりと唇に笑みを浮かべた。

 まったく、


「ジャーヴィス副長。恋文ってやつは、思った事をそのまま書いちまえばいいんですよ。自分の思いを一直線に、どかんと! 変に飾った言葉よりよっぽど相手に気持ちが伝わりますぜ!」

「……何?」


 ジャーヴィスが手紙を持ったまま表情を凍り付かせた。

 なんて事を言い出すんだ。お前は。

 そういいたげにジャーヴィスの眼光は鋭さを増した。


「恋文? はっ、一体お前は何を言っている! この手紙は私の妹からだ」

「……い、妹……?」


 ジャーヴィスは手紙の束を再び引き出しの中に押し込んだ。


「王都にいる妹が手紙をくれるのだが、さっきも言った通り、私は手紙を書くのが苦手だ。だからこれまで一度も返事を書いたことがない」

「えっ」


 ジャーヴィスは目の上にはらりと垂れた茶色の髪を振り払った。


「手紙は二、三ヵ月ごとに一通だったが、四年前から一ヵ月に一通となり、去年から二週間に一通となった」


 シルフィードはまじまじとジャーヴィスの顔を凝視した。


「それって、返事を出さないから、妹さんがあなたのことを心配しているんじゃあ……」


 ジャーヴィスは困ったように顔を上げた。


「その必要はない。私は至って元気だ。私の身に何かが起きれば、海軍省が実家へ連絡してくれる。だからそもそも私に手紙など送ってくる必要がないのだ。そう思うだろう? シルフィード?」

「……」


 シルフィードは唇をひきつらせ、ジャーヴィスに背中を向けた。


「あ、おい。何処へ行く」

「いや、それは俺の問題じゃないですから。さっさと掃除に行ってきます」

「シルフィード、おい。待てよ……!」


 シルフィードはデッキブラシの柄を肩に担ぎ、水の入った桶を手に持った。

 クラウスはとっくの昔にこの場から逃げ去っている。


 要領のいい子供だ。

 俺も見習わなくては。


 シルフィードは口笛を吹きつつ、ジャーヴィスがやってこない場所へ移動した。


「失礼します。掃除したいのでお邪魔していいですか? グラヴェール艦長」



  ―完―


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