第3話 「航海日誌の掟」(前編)

 カンカーン!

 カンカーン!

 カンカーン!

 カンカーン!


 クラウスはほっとした表情で、ロワールハイネス号の船尾にある銀色の船鐘を八回打ち鳴らした。


「八点鐘(午前8時)……やっと当直明けだ~」


 思わず両腕を挙げて伸びをする。

 甲板で欠伸は御法度なので、まわりに人がいないか(特に副長ジャーヴィス)を確かめて、クラウスは両手で口元を覆い、出かかったそれを噛み潰した。


 クラウスの当直当番は、まだ真っ暗な早朝4時から8時までの4時間。

 けれどクラウスはこのちょっと早めの朝の時間が好きだ。


 暗かった空がみるみる青味を帯び、どこまでも果てしなく続く水平線から昇る朝日の美しいこと。


 ロワールハイネス号は大海に浮かぶちっぽけな存在だけれど、その船の上で薔薇色に染まる美しい朝を見られるのは、世界が目を醒ます瞬間に立ち会えるのは、この時間に甲板へ立っている限られた者だけだ。


 前の日に嫌なことがあっても、落ち込んだ事があったとしても。

 この素晴らしい夜明けを見れば――今日も頑張れるという気持ちになれる。


 海から顔を覗かせた太陽はすっかり天空へ昇り、ロワールハイネス号の白い縦帆はその光を受けて眩しく輝いている。


「よう~お早うさん」

「あっ、マスターおはようございます!」


 クラウスは後部甲板の手すりから下を見下ろした。

 ミズンマストの前で航海長マスターシルフィードが、健康的な白い歯をきらりと光らせながら笑っている。


 彼はクラウスが見上げる程の大男だが、伸ばしっぱなしの黒髪を一つに束ね、穏やかな緑の垂れた瞳のせいで人が良さそうに見える。


 だが彼はクラウスにとって、航海術は勿論、他のいろんな良い事悪い事ことを教えてくれる、頼もしい兄貴みたいな存在だ。


「今、そっちに降ります」


 クラウスは後部甲板の階段を降りて、シルフィードの所まで行った。

 これから始まる朝8時から12時までの朝直の責任者はシルフィードだ。

 クラウスは引き継ぎをすませることで甲板を離れ、非番になる。


「当直中、何かあったかい?」

「いえ。別に何もありませんでしたよ~」

「なら、いいんだがよ」


 二人はいつもそうしているように、並んで船首の海図室の方へ歩いていった。メインマスト前の中央昇降口からは、同じ朝直に立つ水兵たちが数名、腕まくりをした手にバケツやデッキブラシを持って上がってきた。

 これから俗に言う、『楽しい甲板磨き』が始まるのだ。


 メインマストの前方には板張りの四角い小さな部屋があって、そこが海図室であった。真鍮みがきでぴかぴかに磨かれた金色の把手を握り、扉を開けたクラウスはシルフィードと一緒に中に入った。


 海図室には海図を見るための机が置いてある。

 船首側の壁に沿って作られた長細い机であり、それには海図をしまうための引き出しが箪笥のようにいくつもついている。


 机上には月の運行を記した暦や船の現在位置を記入するための筆記具、定規、簡易コンパス、手元を照らすためのランプ、クラウスがしまい忘れた望遠鏡などが無造作に置かれている。


「クラウス。航海日誌ログの記入は済んでるか?」


 シルフィードの潮焼けた太い腕が、濃紺に銀の文字で『航海日誌』と書かれた書物を机の上の小さな本棚から取り上げる。


「えっ。あっ! ま、まだです」


 クラウスは思わずくせっ毛の金髪に手を当てた。

 シルフィードがいつもならにやにやした笑いを浮かべて、クラウスの失敗をたしなめるのだが今日はちょっと違う。

 シルフィードは無精髭がぽつぽつ生えた顎を擦り、やれやれと肩をすくめていた。


「昨日もお前、書くのを忘れただろう? 3時の風向きが書いてなかった。こっそり俺が書いてやったけど、今日も忘れたらジャーヴィス副長に、説教をみっちり三時間食らわされる所だぜ?」


 クラウスは背中に水をぶっかけられたようにぞっとした。眠気が吹き飛び意識が研ぎすまされるのを感じた。

 副長ジャーヴィスの突き刺さるような冷凍視線が、鮮やかに脳裏へ浮かぶ。


 ロワールハイネス号の『歩く規律』。

 船内のことを取り仕切っている副長ジャーヴィスは、どんな怠惰も不正も見逃さない。


 クラウスは常に副長の視線を気にしている。

 実は彼に四六時中見張られてるんじゃないか。

 そう思いたくなるような出来事があったのである。


 三日前だった。

 クラウスが朝4時から8時までの当直につくのは週二日という割合なのだが、睡眠時間が削られるので、この時間に当直に出た日はどうしても昼間眠たくなる。

 あの日もクラウスは甲板で何度も出る欠伸を噛み殺していた。


 航海長シルフィードから操船術を教えてもらっていて、後部甲板の船尾で舵輪を握っていたのだが、その時ジャーヴィスは、確か海図室に入って現在の船位置の記入をしていたはずなのだ。

 それなのにクラウスは、夕食後ジャーヴィスに甲板へ呼び出された。


「士官である我々が甲板で欠伸をするは水兵達に示しがつかん。いいか、クラウス。我々は彼等の見本であり規範でなくてはならないのだ」


 何故かジャーヴィスはクラウスの欠伸を知っていた。

 一体どこでそれを見ていたのだろう。


 罰としてクラウスは、夜8時から0時までの夜直4時間、ジャーヴィスにつきっきりの指導を受けた。

 欠伸はおろか、息をする音をさえも憚られるような、キリリとした緊張感に満ちた4時間だった。

 クラウスは翌日熱を出して一日寝込んだ。

 


 

「あ、あわわ……! ご、ごめんなさい! すぐ書きます!」


 あの時の恐怖が蘇る。

 やっと当直が終わったというのに。

 その安堵感はクラウスの胸の内から瞬時に消滅した。

 あんな思いをするのは二度とごめんだ。絶対にごめんだ。


 副長は12時から当直に立つが、午前中は船内を見回るためもう起きている。

 海図室にも立ち寄り、8時までの航海日誌の記入を確認するはずだ。


 クラウスはシルフィードが開いてくれた航海日誌へ急いで内容を書き込んだ。

 三十分ごとに書き留められた天気、風向き、船の速さ、航海距離などなど。それらを当直だった朝4時から8時までの四時間分を書き写していく。


 作業を終え、クラウスはほっと心の底から安堵の息を吐いた。

 これで完璧なはずだ。

 これで自分のやらなくてはならない仕事は終わった。任務完了だ。

 

「……何でこんなものを毎日書かなくちゃならないんですか? マスター」


 クラウスはインクの瓶の蓋を閉め、げっそりした様子でつぶやいた。


「いつもいつも同じことばかり。読む人だってつまらないですよ。こんなの」

「航海日誌を侮ってはいけねぇぜ、クラウス。これは人を楽しませるために書くものじゃない。俺達のロワールハイネス号の『航海記録』なんだからよ」


 隣でクラウスの作業を見守っていたシルフィードがにやりと口元を歪め、緑のタレ目を静かに細めた。だがクラウスは思わず口をとがらせた。


「ぼ、僕だって、記録をつけることが大切だってことぐらい、わかるようになりましたよマスター」


 シルフィードはぼりぼりと頬を掻いた。


「大切っていうか、航海日誌ほど書物はないぜ?」

「……?」


 クラウスは大きな青い瞳をぱちぱちさせた。


「そう。航海日誌ログは船内で起きたすべての事象について書く事を義務付けられている。そして航海が終わったら、速やかに艦長はこれを海軍省へ提出しなくてはならねぇ。帰港して二日以内にだ。遅れたら半年間50%の減俸処分、紛失させたら軍法会議にかけられることになる」

「へ、へぇぇぇ……そ、それは確かに恐ろしい、ですね」


 艦長にとっては。

 クラウスは心の中でそうつぶやいた。


「お前、『自分は関係ない』って思っただろう?」

「えっ!?」


 クラウスは自分の声が裏返ったことにさらに驚き、シルフィードの顔をただただ見上げた。航海長はふふんと鼻で小さく笑うと、挑発的な眼差しでクラウスを眺めた。


「航海日誌の本当の恐ろしさを教えてやるよ。クラウス士官候補生」

「……あ、な、何ですかマスター。恐ろしさって、まさか、何か本から出てくるんじゃないですよね?」


 クラウスは急に目の前の航海日誌がただの書物に見えないような気がして、虫を払うように指先でそれを自分から遠ざけた。

 その様子を見たシルフィードが、笑いを堪えられなくなったのか吹き出した。


「……ぷっ! お前って、本当に十八才の成人か? 本から何か出てくる? 鼻水垂らしたガキだって、そんなこと思いはしないぜ! がはは!!」 


「マスター! なっ、何なんですか!? 今度は笑い出して! 僕……僕、本当は早く引き継ぎを終わらせて、少し休みたいんです。いい加減にして下さいっ」


 クラウスは目から溢れだしそうになった涙を袖口でこすった。

 どうして今日のシルフィードは意地悪なのだろう。


 昨日、航海日誌の一部を書き忘れただけで、どうしてここまで咎められなくてはならないのだろう。

 裕福な商家で育った末っ子ゆえ、クラウスの甘え気質はまだまだ抜けない。


「……すまなかったな、クラウス。悪気はなかったんだが」


 ぽんぽんとクラウスの頭をシルフィードの大きな手が優しく叩いた。


「確かに俺はお前が非番になる時間を不当に妨害している。お前がそれが嫌だ、耐えられない。許せない行為だ。そう思ったのなら、航海日誌に書けば良い」

「えっ」


 涙が乾きだした瞳をしばたかせてクラウスはシルフィードを見つめた。


「航海日誌は海軍省に提出後、中身を本部の担当機関が審査して、海軍軍人にあるまじき行為をした人間を処罰させることができるんだ。階級なんて関係ない。ここに書かれた事は、正当な証言として扱われる。だから、お前がそう書けば、これを見た艦長が航海中に俺を処罰するのであれば、どう対処したのかそれもまた日誌の方へ書き込まれる」

「……」


 クラウスは黙ったままシルフィードに視線を向けた。

 なんとなくだが、シルフィードの言う『恐ろしさ』というのがわかった気がした。

 そして航海日誌に『記帳する』という行為に伴う責任の重さも。


 シルフィードは落ち着き払った様子で、クラウスが遠ざけた航海日誌に大きな手を伸ばした。そっとページをめくる。

 クラウスを嘲笑うような意地悪い笑みは消えていた。


「書くかい? 俺は別にそれを止めやしない。航海日誌は船上で起きた事について書くために存在する」


 クラウスは航海日誌の白いページと、小さくうなずいて見せるシルフィードの面長な顔を交互に見つめた。

 そして、ゆっくりと癖っ毛の金髪を振ってうつむいた。


「……そんなこと、書くわけないじゃないですか」

「クラウス。お前、遠慮なんかしなくていいんだぜ?」

「いえ。悪いのは僕なんです。僕がちゃんと航海日誌を書かなかったから、マスターとの引き継ぎが長引いてしまったんだもの」


 クラウスは顔を上げ、再びぺこりと頭を下げた。


「すみませんでしたマスター。これからはちゃんと真面目に航海日誌を書くようにします!」

「あ……ああ。そ、それはいい、心がけだぜ。クラウス」


 クラウスは内心『あれ?』と思った。心なしかシルフィードの返事の歯切れが悪い上に、視線もクラウスを避けるようにふらふらと宙を彷徨っている。


「どうしたんですかー? マスター?」

「あ、クラウス。くどいようだが、本当に俺の事、航海日誌に書いてもいいんだぜ?」


 クラウスは眉間をしかめて大きく首を振った。


「くどいようですけど、書きません。悪いのは僕ですから」


 するとシルフィードはふうと肺の奥から息を吐き出して、困ったような表情を浮かべた。


「クラウスよぉ……お前、当直につく前に、ちゃんと前日分の航海日誌を読んでるか?」

「えっ!?」


 シルフィードは右手を挙げて、おどけた仕種で自らの額を軽く打った。

 ぺしっ。


「やっぱ、読んでなかったか。いや、あの……お前が甲板で欠伸をしていた件だけどよ、どうして副長に知られたと思う?」

「え、ええええっ!? そ、それは……」


 クラウスは信じられない思いでシルフィードの緑のタレ目を見つめた。


「見て見ぬふりをしてやってもよかったんだが、三日前、お前舵輪を握りながら、10回も欠伸をしやがったじゃねえか。非番ならともかく、あの時は操船の授業中だ。さすがに目に余ったから、艦長に報告して書いておいたんだよ。ほら」

「なっ……! うわっ! ほ、ホントだーーー!!」


 クラウスは猛烈な勢いで航海日誌の三日前を開くと、そこにのたくった癖のあるシルフィードの文字で、確かに欠伸のことが記されているのを見つけた。


「ひ、酷いです! マスター!! 僕、どうして副長がこれを知っているのかとっても不思議に思ってたけど、マスターが告げ口してたなんて! もうショックです!!」


 クラウスはむずとシルフィードの航海服の袖を掴んだ。


「僕、これを副長に知られて、4時間つきっきりで当直をすることになったんですよ。隣にずっと副長が立っていて、とっても怖かったんですから!」


 だがシルフィードは不敵な笑みを浮かべたまま、鳥の足の様に細いクラウスの手を振り払った。


「お前は俺より階級が上かもしれないが、船のことを何も知らないガキであることを認識しろよな。悪い事は悪い」


 じわっと再び涙が込み上げてくるのをクラウスは感じた。


「そ、それは……そうだけど……やっぱりマスター、こんなのって、ずるい」


 うっ、とシルフィードの唇が引きつった。

 根は優しいこの大男。やはり後ろめたくは思っていたらしい。

 シルフィードが一瞬たじろいだので、クラウスは実に子供らしい行動に出た。


「悪い事は確かに罰せられないといけないですよね」

「あ、ああ。そうだな」

「じゃ、僕も遠慮なく書かせてもらいます」


 シルフィードの緑の垂れ目がぎょっと見開かれた。


「書くって、な、何を~?」


 クラウスはさらさらと航海日誌へペンを走らせた。


「昨日の夜、夕食作ってた時、マスターが料理用の酒を飲んでたの知ってます。僕も一緒にいましたから。当直明けと食事の時以外、飲酒は禁じられていますからね~ふふん」


 さーっとシルフィードの顔から血の気が引いていった。


「お、お前なぁ! あれは味見してたんだよ」


 べーっとクラウスが舌を出して首を振る。


「お前も飲むか? って、酒瓶僕に差し出したくせに。今更そんな言い訳はないでしょ?」

「そっ、それは、お前と俺の仲じゃないか。あっ! 本当に日誌に書きやがった! ジャーヴィス副長が見たら、きっと俺は罰として一週間の禁酒だぜ!!」


 シルフィードはがっくりと日誌の上に顔を伏せた。

 くたりと、一つに束ねた黒髪が元気なく筋肉の張った肩に垂れ下がる。


「僕は何も悪い事してません。書けといったのは、マスターじゃ……!?」


 シルフィードが顔を上げて、猛烈な勢いで日誌に何かを書き始めている。


「マスター、一体何書いてるんですっ!?」

「内緒だ」


 シルフィードはその太い二の腕で日誌を完全に覆い、クラウスの視線をさえぎっている。


「何かまた僕の事書こうとしてるんでしょ!」

「俺だって、いろいろ報告したいことがあるから書いてるんだ……って、クラウス!」

「ああ、ひどいっ! 僕が艦長のカップを落として割った事書いちゃった! 先日の嵐の時に戸棚から飛び出して割れたって、報告したのにっ!」


 クラウスはがっとシルフィードから航海日誌を奪い取った。


「クラウス!」

「僕だって書いてやる~! ジャーヴィス副長の洗濯した航海服を、錆び止め油を塗ったばかりの静索に干したせいでドロドロにしちゃって、海に捨てちゃったこと!」

「あ、あれは突風で飛ばされてしまったって、報告済だぞ!」


 シルフィードはそれだけは書かせまいと、航海日誌を掴んだ。

 だが一瞬の隙を突いてクラウスは日誌を奪う。さらさらと再び書く。

 こんなやりとりが数十回にも渡って続けられた――その時。


「おい! シルフィード。一体いつまで海図室にこもってるんだ! 朝直の当直士官はお前だろう!」


 勢い良く海図室の扉が開いた。

 鋭利なジャーヴィスの声と共に。

 シルフィードとクラウスは我に返った。航海日誌を開いたまま、二人でその両端を握りしめたまま――。



 ・・・(後編に続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る