天皇陛下の親指
中川 弘
第1話 天皇陛下の親指
キンダーに行っても泣かなくなったと、コアラの国のLALAからWhatsAppがありました。
言葉をなかなか喋らないの、と母である私の娘は心配をしています。
写真を見ると、LALAのクラスには、オージーだけ、アジア人がいません。
使われている言語は英語オンリー、きっと、日本語と英語と二つの言語がLALAの脳を混乱に陥れているに違いないのです。
家とキンダーでは言葉が違う、どうしてだろうって。
その代わり、ジェスチャーは女の子らしく、ませた仕草を見せてくれます。
左手を腰に当てて、右手の人差し指を立てて、微妙に左右に振ります。あるいは、ほっぺを膨らませて、うんという風にあごを引きます。
怒っている仕草です。
ナンシーというふくよかな巨体を持つ先生の真似をしているのだというのです。
きっと、よく怒る先生なんでしょう。
日本は春めく季節ですが、コアラの国では秋めく頃合いになってきました。
昼間とは真逆に、朝晩は寒いというのですから、それだけはこちらと同じです。
ただ、向かう季節が、こちらは梅雨から夏、あちらは、冬へと向かっているのです。
梅雨から夏へと向かうには、風の強い春をやり過ごさなくてはなりません。
この春、私の指先は爪の横がひび切れて、バンドエイドのジュニアカットが必需品となっています。
今も、三箇所にそれが貼られているのです。
今年は二月の寒い頃から、それまで植木が植わっていた場所に畑を作ったり、ポットを買い足してデッキに夏野菜を植えようと張り切っていたのです。
隣地が売りに出されて、転居してくるだろう人に失礼のないようにしようと、家の周りを整備もしているので、私は、土をいじることが多くなっているのです。
今、ウッドデッキのそこかしこに置かれているポットでは、そら豆と絹さやとスナップエンドウ、それに玉ねぎなど、冬の野菜の定番が収穫間際になっています。
今年は、どれも豊作の予感がして、収穫の刻を楽しみにしているのです。
しかし、春も暖かさを増してくると、困ったことが起こってきます。
暖かくなって、嬉しくなるのは、人間ばかりではないのです。
あの虫たちも活発になってくるのです。
そら豆などは、毎年、栽培していますから、きっと、今年もあの柔らかい枝にびっしりとアブラムシがつくのではないかとぞっとするのです。
アブラムシは、ある日突然、塊となって、目の前に現れますから、それはそれは恐怖に近い存在なのです。
アブラムシを一匹一匹を拡大してみますと、可愛げではあるのですが、あのつぶつぶに固まって、大集団でそら豆からエキスを吸っていると思うと、もう、たまらなくゾッとしてしまうのです。
ジェニー・アレンというオージーがいます。
私と同じく教師で、我が宅にもなんどもやってきた日本通の女性です。もちろん、私もアデレイドはサマータウンという山間にあるジェニーの宅に何度もお邪魔して過ごした仲です。
その日本通のジェニーがどうしても食べられないと言ったのが魚卵でした。
あのつぶつぶの集まりがどうも気味わるいというのです。
たらこも、数の子も、それに、ウニまでも、蟹の赤い卵など私が美味しそうに食べていると、苦虫を潰した顔でそれを見ていました。
だから、そら豆についたアブラムシを見ますと、いつも、ジェニーの言葉を思い出すのです。
まるで、枝に魚卵がついたようだって。
そう思うと、確かに、魚卵も気味わるいって、でも、私は、それら魚卵の美味しさを知ってしまっていますから、さほどにも気味悪くは感じないのです。
美味しさが姿形の気味わるさを上回っているのでしょう。
しかし、アブラムシはいただけません。
これを駆逐するには、三つ方法があります。
一つはマラソン剤、殺虫剤ですが、それを使うことです。
しかし、なるべくなら、そういったものは使いたくはありません。
だから、今一つの手を使います。
それは、圧力をかけられる噴霧器で、水を吹きかけて、ムシを飛ばしてしまうことです。
でも、これはすべてのムシを撃退することはできません。
ですから、ちょっと油断をしていると、数日後にはまたあの気味わるい集団が枝につくことになります。
そして、三つ目があります。
最近、皇室関係の番組が放映されて、それを見てましたら、天皇陛下がそれをなさるというので、びっくりしてしまいました。
皇后陛下がおしゃっていたのですが、御所の庭を散策していて、アブラムシを見つけるとそれを人差し指と親指でつまんでしまうというのです。それが集団であるかどうかは聞き逃しましたが、きっとそうであっても天皇陛下は植物を守るために、そうしているに違いないと思ったのです。
釣り好きの私ですが、エビ餌はともかく、あのイソメというミミズに似たムシ餌を、私は手で掴むことができません。
東京湾に出かけていた時など、釣具屋で売っているイソメ掴みなるハサミのようなものでイソメを針にさしていたのですが、船宿の船長が、実に器用に餌をつける人だなんて皮肉を言われたくらいなのです。
ですから、天皇陛下のように、大事な作物を守るために、あのムシたちをつまむなんてことは到底できそうにもないのです。
アメリカでは、そこまでやれることのできる人を、「グリーン・サム」っていうそうです。
ムシをつまんだその親指は、ムシの体液で緑色になるからだと言います。
「グリーン・サム」があれば、その反対語もあるはずだと調べてみると、案の定、「ブラウン・サム」とありました。
きっと、土をいじるから、ブラウンなのかなって想像をしているのです。
そうすると、どうやら、私はブラウンで間違いのないようです。
到底、天皇陛下のようなグリーンにはなれません。
さて、今年はいつ来るのだろうか?
今週末は随分と暖かくなるというので、私のブラウン・サムは警戒を厳にしているのです。
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