Voice Of Moon

谷兼天慈

第1話

 あたしは月に向かってダイブした───


 けど。

 ぽすんという音とともにベッドに仰向けになっただけ。

 あたしのベッドの掛布には月の模様が織り込まれてる。

 見上げる天井には蒼く仄かに輝く巨大な月のポスター。

 窓のカーテンには掛布とお揃いの月の模様が。

 今はカーテンは開かれていて月の模様は見えないけど。

 あたしの部屋は月で埋め尽くされた別世界。

 ふと、開かれた窓に目をやる。

 夜空に月が貼りついている。

 まるで造りもののような月。

 現実感の感じられない。

 本当は、天井に貼られたポスターの月のほうが現実感のないものなのに。

 大き過ぎるし、だいいちこんなに蒼くなることはない。

 あそこで輝いてる、ほんのりと白っぽい色のほうが普通は現実味があるはずなんだけど。


 美夜ちゃん───


 月が呼んでいる。

 あたしを呼んでいる。


 美夜ちゃん───


 優しい人の声。

 あたしが一番大好きだった人の。

「お母さん……」

 あたしはいつのまにか涙を流していた。

 月はそんなあたしを慈悲深い母のように見つめてくれている。



「あっ……」

「あ、ごめん……!」

 学校に向かう道で誰かがぶつかってきた。

 あたしはよろけて倒れかけたのだけど、相手の腕ががっしりと身体を支えてくれた。

「ありがとう……」

「……………」

 返事がない。

 ふっと顔を上げると同じ年頃の男の子だった。

 大きな目。

 サラッとした黒い髪。

 整った顔立ちだけど、ちょっと幼い感じがするかな。

 背丈はあたしと同じくらい。

 並んだらあたしのほうがお姉さんっぽいかも。

 それにしても。

 あたしの高校の制服を着ている。

 けど、見覚えない。

 というか、あたしだってすべての生徒を覚えてるわけじゃないし。

 月城学園はそれなりの人数いるから。

 けど、あたしは今年入学したけど、それでも同じ1年生くらいなら何となく顔は覚えているし。

「何か…?」

「あっ…ああっ、ごっ、ごめんっ!!」

 彼は慌てて身体から手を離した。

 真っ赤になっている。

「ぼ…僕、和樹……嶋田和樹っていうんだ。今日転校してきた。1年だよ。君……君は?」

「…………」

 どうしてぶつかっただけで名前を名乗らなくちゃならないの───と言いたかった。

 けど、あたしは黙っていた。

 そっか。

 この人転校生なんだ。

 だから、あたしのこと知らないんだ。

 みんなそう。

 最初はみんな好きになってくれる。

 けど、すぐ態度が変るんだ。

 きっとこの人だってそうに違いない。

 期待なんかしない。

 あたしはなーんにも期待しない。

 誰も彼もみんな敵。

 どーせ、キミもいつか───

「あ……君…」

 あたしは何も言わず、彼をそこに置いたまま、さっさと歩き出した。

 視線を感じる。

 痛いほど背中に感じる。

 けど、この視線はいつもの視線じゃない。

 とても心地良い。

 けど、だめよ、美夜。

 期待なんかしちゃだめ。

 いつか裏切られるくらいなら、あたしは最初から誰かに期待なんてしない。


「……………」

 教壇の上に立っているのは彼だった。

 彼、嶋田和樹。

「今日からこのクラスの仲間になる嶋田和樹くんだ」

「どうぞよろしく」

 気持ちいいくらいにしゃきっとお辞儀をする。

 思わず唇に微笑みが浮かびかけた。

「あ……」

 すると、彼は一番後ろの席にいた私の姿を見つけたようだった。

「どうした、嶋田くん」

「あ、いえ……」

 先生に聞かれ、困ったような表情を見せた。

 何となくいいなあと思った。

(だめ)

 突然、あたしの中のもう一人のあたしが拒絶した。

 そうだった。

 あたしは誰も好きになれない。

 誰も好きになってくれなかったんだ。

 いつのまにか、唇から微笑みが失われた。

 新月の晩のように暗く心が沈みこむ。


「え……?」

「名前、聞いてなかった。聞かせてくれる?」

 休憩時間になったとき、すぐにやってきた転校生。

 すると。

「嶋田くん、その子に近づかないほうがいいよ」

「え?」

 来た。

 クラスのおせっかいな女たち。

「その女といるといつか殺されちゃうよ」

「えっ?」

「その女に関わると必ず死んじゃうの。だから近寄らないほうがいいよ」

「死神なのよ」

「遊樹美夜は死神」

「あなたも死んじゃうわよ」

「美人だからって近づいたら、必ず後悔することになるよ」

「後悔してからじゃ遅いの。だって……」

「死んじゃうんだものっ!」

 何人かの女たちがまるで合唱するようにそう叫んだ。

「…………」

 彼がびっくりした表情で、あたしとあいつらを交互に見つめている。

 あたしの心はだんだんと冷たくなっていく。

 この氷河のように凍った心を溶かす人はどこにもいない。

 決して。


 美夜ちゃん───


 ああ。

 声が聞こえる。

 優しい人の声が。



 あたしはいつもよく来る家の近くの丘にやってきた。

 月が見えるこの丘が好き。

 夕闇が迫ってきて、地平線に月がのぼりはじめる。

 どうしてだろう。

 なぜ月を見るととても懐かしいって思うんだろう。

 そして、なぜかいつも月が歌っているような気がする。

 それは優しい人の声で聞こえてくるけど。

「お母さん……」

 あたしは小さ過ぎてよく覚えてないけど、だけど、お母さんの微笑んだ美しい笑顔だけは覚えている。

 儚い微笑みを浮かべる美しい人。

 あたしのように少しウェーブのかかった髪を腰まで垂らしていた。

 だから、あたしも髪を伸ばした。

 少しでも母に近づきたいと思って。

 私にそっくりだった母。

「えっと……隣、いいかな?」

「!!」

 あたしはびっくりして振り返った。

 思わず腰を浮かす。

 そこには彼がいた。

 嶋田和樹。

 なんで、なんで彼がここにいるの?

「ごめん、後つけた」

 彼はあたしの同意を求めないまま隣に座りこんだ。

 横顔が近くに見える。

 どきん───なぜか胸が鳴った。

 どうしたんだろう。

 月に向かって視線を向けている彼の顔が、あんなに幼く感じていたのに、なぜか力強く見える。

 おかしいよ、こんなの。

 こんな気持ち初めて。

 だって……だって……

「昼間はごめん」

「え?」

「僕が考えなしだった」

 彼はふっとこちらに顔を向け言った。

「君が好きだ」

「え……」

 びっくりした。

 いきなりの告白。

 どういうつもり?

 確かに、初めての経験じゃないけど、こんなに唐突に告白してきた人っていなかった。

 それに、なんというか、ちっともロマンチックじゃないし。

(そんな問題じゃないのに……あたし何考えてんだろう)

「…………」

 すると、彼がにっこり笑った。

 すごく爽やかで、なんて気持ちのいい笑顔。

 こんな笑い方をする人なんて初めて見た。

「また、ごめん。僕さ、デリカシーの欠片もないやつってよく言われる。けど、君にはほんと一目惚れなんだよ。迷惑かもしれないけど、あのさ、友達からでもかまわないから付き合ってよ」

「…………」

 どうしよう。

 あたし、この人好きだ。

 だけど、あたしは───

「あたしに…関わらないほうがいい……」

 そう言うしかなかった。


「あの子たちの言ってたことは本当のこと」

 少し風が出てきたみたい。

 丘はだだっ広くて、草が風に揺れているだけ。

 眼下には街並みが見える。

 月が本当にキレイに輝いてる。

「関わったら死ぬって言ってたけど、そんなの偶然じゃない?」

 彼がそう言う。

 あたしは彼の顔を見つめた。

 そういう不思議なことは信じないようなタイプだなと思った。

 とても地にしっかり足をつけているような、そんな安心感を与えてくれる、そんな感じの人。

(お父さんって、こんなふうな人だったんだろうか)

 あたしは、そんなことをふと考えながら話し始めた。

「関わったら……というか、あたしと付き合い出すと必ず事故死するの」

「事故死……」

「そう。中学になってすぐに上級生の人が付き合ってくれって言ってきたの。とってもステキな人で、あたしも好きだわって思って付き合いだしたんだけど、その直後に学校の階段から落ちて……」

「死んだの?」

 あたしは頷いた。

 あの人───背が高くて、芸能人の誰だかに似てた。

 当時は「あなたたちってお似合いね」なんて皆にも祝福されてたのに。

「それから次々と……ホームから落ちた人もいた。川に落ちて溺れてしまった人も。一人として例外はいなかったの」

「…………」

「いつのまにかあたしには死神がついてるんだって噂されるようになって……だから、高校は母校の中学から遠く離れた月城学園を選んだんだけど……あたしのこと知ってる人がいたのよね」

「…………」

 黙ってしまった彼。

 そうよね。

 こんな話聞いたら誰だって───

「僕は死なないよ」

「え?」

「僕は絶対死なない」

「し、嶋田くん?」

「和樹でいいよ」

 彼がギュッとあたしの手を両手で握り締めた。

 温かい手。

 いつの頃からか、誰かとこうして手を繋ぐってことなかったような気がする。

 ああ───なんて温かいんだろう。

 心に広がっていた不安も辛さも何もかもがすーっと消えていくような、そんな心地良さを感じる。

 何だか、彼が言う言葉を信じられそうな気がする。

 大丈夫。

 きっと大丈夫。

 彼といればすべてがうまくいく、そんな気がした。

 初めて手に入れたあたしの安息の場所。

 それはこの人、島田和樹───なのかもしれない。


「お父さんもお母さんもいないの?」

「ええ、そうなの」

 あれからまだあたしたちは話をしていた。

 ずっと話し相手がいなかったあたし。

 家には祖母と祖父しかいないし、誰もあたしの話を聞いてくれる人はいないから。

 こんなにたくさん話したのは何年振りだろう。

「母はあたしが小さい頃に亡くなったの。あたしを16で産んで20になる前19で死んじゃったの」

「16で?」

「うん。母はもともと身体が弱くて、学校もほとんど行ってなかったんだって。あたしを産んでからはもう寝たきりみたいになってたらしいの」

「お父さんは?」

「わからないの」

「わからない?」

 あたし、こんなことまで話してる。

 今日知り合ったばかりだっていうのに。

 なんでだろう。

 彼には何でも聞いてほしいって思う。

 どんなことでも。

 あたしのことすべて聞いてほしいって。

「母は何も話さなかった。だから祖父も祖母もあたしの父親が誰か知らないの」

「……………」

 彼が複雑な表情を浮かべた。

 どうしてなのか、あたしには痛いくらいわかる。

 16で子供を産む、そして、父親は誰かを決して話さない。

 母は学校にほとんどいかなかったし、誰かと恋愛をするほど外で遊んでいたわけじゃない。

 そうなると誰でもひとつの可能性を考えないではいられなくなる。

 けど───

「母は父を深く深く愛していた」

「え?」

 あたしの呟くような言葉に、彼は表情を変えた。

 そう。

 母はとても父を愛していた。

 祖母がそう話してくれた。

 相手のことを決して話しはしなかったけれど、母はいつも一人静かに歌っていたらしい。

 その歌はまさに母と父のことを歌ったものだったということ。

 あたしはとってもとっても幼かったんだけど、なぜかその歌を覚えていた。

 母の淋しそうな笑顔とその歌だけは、ハッキリとあたしの記憶に刻み込まれている。

 不思議だといつも思ってたけど、そういうこともきっとあるんだろう。


『月の下で

 貴方が微笑む

 私に向かって

 貴方が微笑む


 月の光に

 貴方が映る


 優しいその目

 優しいその唇

 優しいその手

 

 私を優しく抱いた

 貴方を愛し過ぎた

 私を許して


 儚い夢のように

 貴方の姿は消え

 切ないに夢に

 私は落ちていく


 叫んでも貴方はいない

 泣いても貴方は戻らない

「必ず迎えに来る」

 優しい嘘をついて


 それは貴方の罪

 それは私の罰


 ああ

 月が笑っている

 ああ

 月が泣いている


 愚かな女を

 世界が終わるまで』


「いい歌だけど…哀しい曲だね」

「ええ、そうね」

 すっかりあたりは真っ暗になってしまった。

 あたしたちは静かに座って月を眺めていた。

「どんな人だったんだろうね」

 彼がポツリと言う。

 あたしは頷いた。

「あたし……明日16の誕生日なの」

「えっ、そうなんだ」

 母があたしを産んでくれた16になる。

 何だか不思議な気分。

 母親になるってどんな感じなんだろう。

 あたしなんてもしそんなふうになったら、ちゃんとやっていけるんだろうか。

 母はとても子育てできるって感じじゃなかったから、あたしのことも祖母が育てたようなもの。

 今のあたしがもし母親になったとしても、あたしは元気な身体だからたぶん育てていけるとは思うけど。

 ふと、視線を感じて横を向く。

 和樹くんがこっちを見てる。

 暗闇で、よく見えないけれど、月の光で彼が微笑んでるのがわかる。


『月の下で

 貴方が微笑む

 私に向かって

 貴方が微笑む』


 そのフレーズが頭に浮かんだ。

 ああ。

 こんな感じだったのだろうか。

 母と父との出会いって。

 あたしは今運命を感じていた。

「何がほしい?」

「え?」

 急にそう聞かれた。

「明日の誕生日に何がほしい?」

「え………」

 プレゼントなんて、もう何年ももらったことない。

 祖母には毎年もらってるけど、友達にもらったことって一度もなかったと思う。

「いいの……?」

「もちろんさ。だって友達じゃないか……」

(友達……)

 なんていい響きだろう。

 友達───ああ、この幸せがずっと続いてくれたら。

「じゃあ……クッションが……ほしいな……」

「クッション?」

「そう。駅前の雑貨店に三日月の形のかわいいクッションがあったの。ほしいなあって思ってた」

「よし、明日学校帰りに一緒に買いに行こう」

 あたし、こんなに幸せでいいんだろうか。

 ただ、やっぱりスッキリと晴れないもやもやがあたしの心を支配していた。

 それが晴れる日、いつか来るだろうか。

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